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ようこそ、夏休み




まえおき

 他の部所のがんは「人生ありかも」と思っていた33歳に、突然、乳がんがきた。びっくりした。もっとびっくりしたのは、退院の時も らった保険の診断書だった。

「病名:乳癌。発祥の理由:不明」。

いつしこりに触れたかも、その前の体調の変化も、告知からの毎日も、全部言えるのに、発祥の理由は「不明」だってよ。こっちが、びっ くりだぜ。

人間は、3日で立ち直るそうです。どんな悲しさも喜びも、4日目には日常になってしまうそう。私も、やっぱ3日は悩んだけど、4日目 にはちゃんと腹がへってました。

「悪い人に来ちゃったわね。私は、あんたのことを全部見て、全部書いてやる。もう全部ネタにする。覚悟しいや、がん」。

6年経ても、私は私の身体に日々起こることを見ています、語っています。書いています。だから、キレイゴトじゃない、ぶっちゃけトー クをしましょ う。

 あっ、私、畠山恵美と申します。よろしく。

・・・畠山サスペンス劇場、ますます続く、、、、、。





ようこそ、夏休み:目 次

{No1}2003年2月18日更新分
{No2}2003年3月18日更新分
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{No4}2003年5月15日更新分
{No5}2003年6月15日更新分
{No6}2003年7月15日更新分
{No7}2003年8月19日更新分
{No8}2003年9月16日更新分
{No9}2003年10月15日更新分
{No10}2003年11月18日更新分
{No11}2003年12月16日更新分
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{No13}2004年2月20日更新分
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{No16}2004年5月18日更新分
{No17}2004年6月18日更新分
{No18}2004年7月21日更新分
{No19}2004年8月31日更新分
{No20}2004年9月22日更新分
{No21}2005年5月22日更新分
{No22}2005年7月10日更新分
{No23}2005年8月10日更新分
{No24}2005年10月7日更新分

★{No25}2005年11月18日更新分

『しこりは、外科〜恵みの連鎖』
『その、幸せ』





{No1}2003年2月18日更新分

・・・
■【3回目は、ご勘弁を。】
・・・・・・・・・

左胸が痛かった。そこが素人の浅はかさ。心臓が痛いのだと思った。「心臓?、だったら、救急車。キャー初めて救急車に乗れる、ラッキ ー」と思って、両てのひらを大きくひらいて、左胸にクロスしてあてた。『なんでスーパーボールが入ってんの?』。 これが、初めての しこりに触れた瞬間の思いがだった。

<注:通常、乳がん発見において、心臓病のようなものもないし、ドキドキもないです。これは、私がそうだったということです。普通は、 心臓が痛いから救急車に乗れることを幸運と思う人がいないように。でも、両てのひらで大きくおおうのは、乳房異変の自己検診としての 近道でした>

平成九年五月三十一日午前0時を少し回ったころ。なにげなく触れた、左乳房の左下部終わりのちょっと上に、それはあった。三十歳過ぎ てからのお約束、生理が終わったらおっぱい触って自己検診は、なんとなく毎月やっていた。五月二十日に触った時は、何もなかった。し こりだろうが、スーパーボールだろうが何もなかった。十日しか経っていないのに、ヤバイぞ、コレ。

月がとても蒼い光りをはなっている夜だった。よし、夢だったことにしよう。眠ってみた、十分くらい。まだ、ある。もう一回眠ってみた。 やっぱしある。フィット感っていうか、そこの皮膚だけ、くじ引きで当たった表面が少しざらつくスーパーボール。観光地で売っているゴ ム風船の中に入った羊羹のようって言ってもいい。

ヤバイぞヤバイぞ、と思いながら、眠れたのか悩んでいたのか、朝になっていた。そして『乳がんだ』と妙な確信があった。 素人が悩んで いても「医学的本当」はわからない。 市立病院に行こうかと思った。が、その日は祖母の命日。祖母が亡くなったのが市立病院で、そん なこそ絶対に行きたくない場所だ(後に、その日は土曜日で市立病院は休みだったと判明。実は動転してたってことね)。

で、わが家のホームドクターである外科に、自転車をこいだ。実は、ここも行きたくない病院だった。先代の院長が亡くなったばかりで、 同級生と先輩たる兄が継いでいた。「どっちに見せるのもイヤん」。案外呑気な私。その日は、お兄ちゃんが担当の日だった。エコーを撮 りながら「何かあるのはわかるけど、正常細胞に見えるし、多分、良性だと思うよ」。でも、エコー室を出る時には、夜よりもスーパーボ ールの所在がはっきりしていた。入室退室時に触ってもらった、なじみの看護婦さんも「ある、ある」って言ったくらい。分刻みの成長だ った。

かなりビビっていた。ここの病院は日曜日もやっている(水曜定休)。「午後から、切開しようよ」。お兄ちゃんのお誘いを振り切り、翌 日日曜日の午後に延ばしてもらった。家に帰り、ベソベソに泣いた。そして「もう会えなくなるのかな」と夕方、出たくも会いたくもない 中学のクラス会に出席をした。

六月一日午後四時に、切開は始まった。
切開なんていうから、診察室でチョチョイと切るのかと思ったら、手術室に案内され、手術台に乗せられた。「左手ジャマじゃない?」と 左手首を縛られ、「念のため」と右手も両足も固定され、全身白い布をかけられた。「これって切開?」「(簡単な)手術だって言ったら、 逃げると思ったから。麻酔足りない時、言ってね」。

ヒョエー、騙したな。 病気の話題は避け、世間話で大笑いしながら和気あいあい、約四十分の手術・スーパーボール(腫瘍)取り出しは進 んだ。「ごめん。破ってしまった」。途中で、先輩は言った。なぬうう。ゴム(細胞膜)を破ったら、羊羹(何かの腫瘍細胞)が出たんじゃ ないの?。勘弁してよ。

六月七日土曜夕方、傷の手入れに行った。産まれてこのかた、この病院で聞いたことのない優しい言葉が溢れてた。いつも開け放されてる 診察室のドアが数分ぎっちり閉められたりもした。結果は、もう出ている。最悪の結果ほど速く出る。公的な病理の結果が出るとすれば、 金曜か月曜だもの。

傷の手入れをしながら聞くと、まだ結果は出ていないと言い張る。兄弟で違うだろうと相談してたと言う。先輩のウソは爽やかだった。で も、いつ本当のことを言うのだろうと思ったのも事実。「がんでも、いい。でも、がんの程度は、まず本人たる私に言って欲しい。母には、 情報操作した病状を伝えて欲しい。母を騙して欲しい」と約束させた。

真っすぐに家に帰る気にもならず、(なんか暗示みたいだな)新作ブラジャーの展示会に入り込んでしまった時、母から「すぐ帰って来い」 コールが着た。会場と家の中間に、病院がある。一人で寄っていくと言うと、母は、電話口で泣いていた。・・・やっぱり。午後7時、先 輩と同級生の自宅のリビングに案内された。この家の定番の“サバラン"ケーキとコーヒーを出された瞬間、「ごめん、がんだった」。

それは、診察室で冷酷に、事務的に言えよ。自宅で、サバラン前に、優しく言うなよ。「僕たちの技術とうちの病院の設備では、全摘しか できない。看護婦の教育もできていないから、恵美ちゃんを傷つけると思う。だから、国立仙台病院に行って欲しい」。私は十数年来、パ ニックディスオーダーも患っていた。乗り物に乗れない。たかだか車で1時間とはいえ、仙台は遠い。仙台に行くくらいなら死んだ方がま し、いや、死んでしまう。初診・検査・結果。入院までに最低3回は通わなければならないなんて、できない。 乳がんということよりも、 仙台に行くことの方がショックだった。乳がんなんて、どうでもいいから、移動をなんとかしてよだった。 

また、パニックディスオーダーでカウンセリングを受けていることも、告白しなければ何も進んではいかない。先輩は、それを理解できる 外科医なのか?全摘でもいいから、この病院で手術を受けたいこと、パニックディスオーダーのこと、ボロボロになりながら、私はしゃべ った。「入院の日が、初診にしてやる。僕の車で、恵美ちゃんを運ぶから、心配するな。だから、国立に行ってくれ」。

先輩も泣いていた。母も泣いていた。
先輩の父親・先代の院長は、設備ではなく、腕で治した名医だ。医は話術の人でもあった。余命を出された多くの人が、社会復帰を果たし ている。患者の誰もが敬愛した、カリスマ。先代に「がん。切るから」と言われたら、全摘とか余命とか今後とか聞かずに従う。 先輩、私 にシノゴノ言わせるなんて、修行がまだまだ足りないよ。

遺影の先代は、「おまえは、ここで敗けるのか」と挑戦的に笑っていた。
『入院、手術の後、放射線照射治療。すべてが終わるまでの約2カ月間、古川には帰ってこない』。そう決めた。翌日8日、抜糸に一人で 行った。母には、知らせたくない状況を聞くためでもあった。レベルは、5。手術前日に逃亡し、6カ月後に戻って来た時には手遅れだっ た患者と、非常に似ているケースだということだった。

方針を決めたハズなのに、往生際が悪い。
生検で、今、病巣は何もない。だったら、この先そこに、またがんが現れないこともあるじゃないか。セカンドオピニオンを聞きに行きた いと言った。「死ぬよ」。先輩は、言った。「だったら、国立行きます」。私の往生際の悪さには、根性がなかった。

入院までは、十日ほどあった。私は、もちろん不安だったが、母はそれ以上で、寝込んでしまった。寝込みながら、ありったけの罵詈雑言 を吐いた。一人取り残される不安だったのだと思う。でも、いっぱいいっぱいの私には母の不安はどうすることもできない。口を開けば、 口論になる(襖に穴がある。「黙れ」と私が投げたリモコンの跡だ)。友人や親戚から、心配や激励の電話や手紙が届くことも、母と私を 実はイラつかせた。この家に居ては、私は治らない。母も弱ってしまう。速く国立に行かなければ。

すべての報告をしに、カウンセリングに行った。カウンセラーは、絶句し、泣いた。カウンセリングを受けてすぐ、私はワケノワカラナイ 恋をし、ボロボロになった。祖母が死に、初七日にアキレス腱を激しく断裂し(六十日入院)、転職せざるを得なくなった。転職して2カ 月目、祖母が死んで丸6カ月目に父が急逝した。仕事はメチャおもしろかった。三百六十六日・二十四時間営業。で、次の恋愛は、仕事を 取って失った。だからなおさら働いた。

体調不良。そして、がんの前兆症状によって、天職とも言える仕事を失った。それは、カウンセリングを受けて3年の間に次々に起こった ことだった。乗り物に乗れなくなったため受けたカウンセリングだったけど、そんなことよりも大きなことが次々に起きた。そんな私の心 に、カウンセラーは、寄り添ってくれた。彼女がいなければ、私は生きてはこれなかった。

「何もしなければ、半年先にはいなくなるって。花火みたいに、それもいいかな」。「何言ってんの。生検をした瞬間から毛細血管を伝わ って転移は始まってんの。内臓に飛べば、持ち時間は出る。でも、脳に飛んだら、明日かもしれないし、5年先かもしれない。痛い痛いっ て、生きるんだよ。何百人とそういう人を見てきたの。私が、あなたを殺さない。全摘になって、おっぱい欲しかったら、慶応病院に、私 が連れて行く!」。

普段はポーカーフェイスの彼女が、激しく言って、泣いた。
「怖かったら、怖いって言っていいんだからね。我慢するな。手術の前の晩、タクシーに乗って家に帰って来てもいいんだからね。あなた の(毎週のカウンセリング)時間には誰も入れない。あなたが帰って来るのを待っているから」。そして、彼女の言葉に送り出された。

六月十八日水曜日、入院をした。
手術日は、六月二十七日午後から、術後は放射線照射をし、二十八日に1回の腹に注射(ゾラデクス)を打つと、既に決まっていた。ひと つ違っていたことは、全摘ではなくて、温存、左乳房は残るということだった。「またはイヤだから、ベロっと取ってください」。そう発 言して、主治医を嘆かせた。

「先生は、外科のプロとして一〇〇%技術提供して下さい。私は、患者のプロとして心をなんとかします」。なんてタンカもきった。 コ マイ検査はいろいろあり、初めてのものばかりでその度に、極度の緊張をした。また、やたら見舞客が多かったし、やたらテンション高く ヘラヘラ対応して(不安をごまかしてた)、心が疲れきってしまっていた。 手術前で何もしていないのに、頭痛と嘔吐で、一晩中苦しん だりもした(その晩の当直が、ポケットにマニュアルブックいっぱいの研修医くんで、苦しい以上に怖かった)。

でも、お部屋の人たちがいい人たちで、腹の底からの笑いを日課として和ませてくれた。「傷のないおっぱい撮っておけ」と、写真を撮っ てくれた(これから記録用に乳房の写真を撮り続けている〜必要なら、公開可能)。手術前夜「寝たら、明日だ」と言ったら、部屋中大爆 笑になった。「あんだの手術は、もう大丈夫だ」と。でも、本人は・・・水分をとってはダメと言われたので、手洗いの水滴をなめ、最後 には指先を尿で濡らしなめていた。何やってんだかの極致たる行為でもしてないとやってらんない気持ち。ああ。

ラジオから流れてくる「川の流れのように」を聞きながら、手術室に向かった。切り取られたのは、鳥の胸肉二〇〇gくらいだったらしい。 左乳房は残った。そして、腋の下から続く長い迷路のような線路のような傷跡も残った。手術には、先輩も立ち会ったという。最初に目が 覚めた時、ベットの上に起きて、指をつっこんで吐いていた。ドレーンが抜けて、ベットが血まみれになっていたそうだ。

鎮痛剤を打たれたものの、隣の部屋の規則正しい人工呼吸器の音と壊れた壁時計の妙な針音がカンに触り、「元気になったら、叩きこわし てやる」と思った。次に打たれた鎮痛剤は、筋肉弛緩剤だったのだと思う。痛みは、消えないのに、身体が動かない、どんどん底に引っ張 られて行く。 父も祖父母も弟も、みんな迎えに来て居た。逝きたくない。「お母さん、手握って」。それだけしぼり出すのにどれくらい の時間を要したのか。慌てた母が、手をぎゅっと握ってくれて、私は、生き返れた。

意識が戻って初めて見たのは、「サカキバラ事件」被害者ハセジュンくんの真っ白な体操着姿の新聞。少年Aが逮捕されたらしい。母は、 ドレーンに噴出される血の色と同じ色のイチゴヨーグルトを食べていた。回復室から出て見た空は、吐きそうなくらい青かった。どちらを 下にして寝ていいのかがわからない。痛いより苦しい。左腕は、肘くらいまで薄物を着ているような鈍い痺れた感覚。かゆいんだけど、場 所が特定できない。手は上げられるけど、モノを拾えない(拾えないなら拾わなければいいと、リハビリはなし)。

術後五日目の速い抜糸で、体液噴出。外科病棟で受けるはずの放射線照射が、放射線病棟に転ベット。都度びっくりして泣いた。でも、放 射線病棟に行って、正解だった。放射線室から戻ってくる間に、糞尿まみれになってしまうおばあちゃんがいた。静かに亡くなっていく命 があった。次々に転移が起こる同世代がいた。覚悟が、そこにあった。

一日三〇分のコバルト照射が、私に課せられた仕事。毎日、午後一時半から始まる。
パニックディスオーダーの不適合症状に、、頻尿と頻便がある。どんな整腸剤を飲んでも、一時半までに十六回トイレに走る。二十五回・ 五〇グレイ、とうとう慣れなかった。

腹への注射だけでなく、乳がんの平均薬・ノルバテックスの服用も始まり、素直な私の身体は、顕著な副作用の更年期状態になった。ほて り・のぼせ・大量の汗。そして、物忘れ。模範的と言われた血圧も下がりっぱなしで、立ちくらみと貧血になった。しかし、ひどい乗り物酔 いがめまいと一緒に居座ってもいて、夜遅くまでベットには横になれなかった。

病棟のムードメーカーで(朝はおはようと言いましょう奨励・ご飯残さない運動など)、ヘラヘラ明るく元気良くをモットーにしていたが、 実は精神安定剤をボリボリ食べていた。パニックディスオーダーといえ、生きるためには、放射線から逃げられない。放射線室の戸の前で、 安定剤を食べた。 すぐには効かないし、身体には悪い。それでも、理論では説明できない恐怖が、少しでも楽になるならと、食った。

  ここに来るために、産まれてきた。放射線病棟での約2カ月を『3病棟の夏休み』と呼んでいる。ここでの日々は、今でも進行形で私を支 えている。9月7日日曜日、外泊で誰もいなくなる日を選んで、退院をした。それから平成十一年いっぱいまで、先輩が主治医となっての 地元での治療に入った。朝晩ノルバテックスの服用、二十八日に一回のゾラデクスの腹部注射。  

どんな不調が出ようとも、退院してしばらくは手術前と同じだと錯覚していた。 しかし、ちょっとしたイベントのために、数日がんばったら・・・体温調節ができなくなり(全身を寒いったら暑いったらが駆け巡る)、 先輩の病院に入院するはめになった。この入院は、罰の要素が強く、かつぎ込まれた日こそ点滴があったが、あとの7日間はただ寝てろと いう苛酷なもの。手術前の自分と違うとやっと気が付いたのはこのころだ。

がんのつらさは、家族が一緒に背負ってくれる、それは、間違いだ。退院してすぐ母は、掃除機で私を殴った。時に絶食を命じ、冬にスト ーブで暖をとるのを禁じ、メチャクチャだった。手術して治ったハズなのに、どうして治っていないのだと、イライラをぶつけてくる。家 族という副作用に立ち向かうのが、本当の闘病なのかもしれない。がんは、自分だけの病だ。家族に分かち合ってもらおうなんて、甘い。

平成十年三月十五日午後、感情が底のない場所に落ちて行くのがわかった。ホルモンのバランスの崩れからくるものだという知識はあった。 短い人で数時間で治るが、五年以上寝込む人もいるらしい。電話にも出たくない。病院以外の外出もしたくない。母が仕事から帰って来る 直前まで、布団の中にがいて、間に合わせで夕食を作り、一日が終わる状態。

婦人科に相談に行ったら「2年って治療期間が決まってるんだから、寝てな」と言われた。三晩泣いた。カウンセリングでも、おしゃべり な私が、一言も話せない。温厚なあのカウンセラーも「あたしのこと、嫌い?」と怒るくらい。ただ息をして、生きているだけの時間が、 夏まで続いた。術後1年。たぶんそれがメドになり、立ち上がれたように思う。(治療後)また働きに出たら、ゆっくり家事ができないから と、初めて梅干し漬けに挑戦したりした。

生理は、ゾラデクスのために止まっていた。でも、血が出ていないだけで、オリモノとは違うなにかは出ていた。体重は、ゾラデクス注射 後二週間目で目盛りが変わった。十二s、十二回目のゾラデクスで気が付いた。中学以来五十三sできた私が、どんどん太っていく。トイ レでお尻も拭きにくくなって、膝にも負担がかかって痛い。 太るのは、基礎代謝量が、寝たきり老人並に調整されたため。肝臓代謝量も しかりだ。

過激な運動は、放射線的に禁じられている。約二十五回のゾラデクスの予定。二十五s太ってからでは遅い。減らせないけど、これ以上太 らないでいくことにした。頭髪は抜けなかったけれど、下の毛は抜けた。それと比例するように、性欲もなくなっていった(まあ、性欲が あっても、独身でパートナーなしでは、どうしようもないがな)。

放射線晩期障害でもある宿酔は、時々あったし、強力偏頭痛も最低月1きた。冷えで、内臓の動きが止まる(カイロをしてこたつに入り、 ストーブをバンバンたいて、ガスが出るまでじっとしてる)。平行して、急な水下痢。通常は「ちょっとトイレ」と言える余裕があるものだ が、言えないのが襲う。体内のすべてを出し切るまでコ一時間トイレに立てこもる。トイレ探しの挙動不審、外出なんかできるもんか。いろ んなことが起こりまくってて、ずいぶん驚かなくなっていた。

そして、私は、身の丈を知る。
「がん」と言う現在進行形の病歴を言うだけで、求職は終わる。病人は雇われない。治療費(月五万円弱)は、保険で賄えた。食住は、家事 全部引き受けることで、母と折合いをつけた。母の癇癪や過干渉がイヤでも、母の庇護の元、ご飯が食べられてる現実。どんな不条理も我 慢しなければならないのだ。しかし、自分の自由になる金がない。こういう場合、広告ライターというのは、つぶしがきかない。時々、昔 の同僚が持ってきてくれる仕事で凌ぐ。お情けだろうと、恥だとは思ってはいけない。今時の中学生のこずかいにも劣る収入。付き合いを 切り詰め、今まで無駄にしてきたものを活用し、生活をした。

自分にとって、何が大切なのかがわかったような気がする。多くを望むなら、それだけの努力をしなければならないのだ。下の毛があと数 本になって、体重六十八sになった、平成十一年六月十四日に、最後のゾラデクスを打った。ノルバテックスは、大晦日まで延長になり、 終わった。

私は、それで終わりだと、楽観していた。
左乳房に傷跡はあるけど、時々左手が突然持っているモノを落とすけど、この先は、仕事も見つかり、結婚もして子供も産めるハズ。告知 の時に捨てたハズの欲が、増殖していた。 3病棟(放射線病棟)の戦友たちは、ポロポロかけていた。「明日、見舞いに行く」と約束し た友が、その明日の早朝に亡くなる。明日は、なかったんだ。

『また明日』は言えるけれど、あるのは、今日をちゃんと生きることだけ。その積み重ねが明日になる。でも私は、過信していた。自分だ けは大丈夫、明日があると、奢っていた。

平成十二年八月九日長崎の原爆投下時間ごろ、3年2カ月ぶりに生理が戻った。
同時に目ヤニも出始め、微々たる出血も続いた。左右乳房の高低差も激しかった。右乳首・右乳輪際に微細な凹みを感じた。生理が戻った ということは、乳がんのボタンが再度押されたと、気が付けよ、バカ。翌年1月下旬、血塊の落ちる大量出血が、数日続いた。何もしない のに、体重が六sほど落ちた。

丸4年を目前とした平成十三年五月、右乳首の凹みが、新たなる乳がんだと判明した。血液検査(マーカーチェック)はしていたけど、エ コーは十二年の七月が最後だった。先輩が病院を新築移転したし、敬愛するカウンセラーも仙台で独立した。状況は確かに変わっていたが、 でも、過信の結果だ。告知は、2度目だとストレートだった。でも、奢った心が付いていかなくて、今度は、私が泣いてばかりいた。

母は、怒りまくった。
そして、またしても六月十八日、国立仙台病院外科病棟に入院をした。同じ部屋、ベットだった・・・笑えた。もう「外科医の技術一〇〇 %出せ」なんてゴタクは言えなかった。 私より若い主治医は、再びの温存を勧めた。温存すれば、放射線をかけなければならない。 この 先、寿命まで生きるとして、もう放射線はかけたくなかった。乳房を助けるための放射線は、胃や肺や食道の異変の場合、その許容量を越 えてしまう。

右病巣は、7.5o。スーパーボールのフィット感すらない、自己発見で言い出さなければ見つからない、まだ微細すぎるがん。十分、温存の 範囲ではある。全摘を選択した。六月二十九日午前、手術。術前の麻酔科の医師とのミーティングがよかったからか、左よりすべて、楽だ った。でも。身体の力のバランスの取り方が違うくなっていた。ガス(屁)は、一旦、全摘した右乳房の下に溜まってから、放屁になる。 便も腹圧のかけかたが違う。今まで通りにしていたら、出ない。外科的には外壁工事のみで内臓はいじってないから有り得ないことらしか ったが、リハビリ的には、有りだった。

今まで有ったものがなくなって、圧力関係を再構築しなければならない。身体は、とてもとても頑張っていた。治療法は、また2年間のゾ ラデクスとノルバテックス。先輩の病院で行うことになった。 七月二十七日、退院をした。

入院していたから、楽だっただけで、一人になると、いろいろ驚く。めげる。右乳房がないのに気が付いたのは、8月半ばになってからだ ったし、ないのに右ちくびがかゆくなったりもするし。昼間は傷を傷とし右乳房が不在だと認識できるが、夜、風呂で納得いかなくて、電 気を消してそそくさと入ることもある。左の古傷と右の生傷が、同時に冷えて痛んで息ができなくなる時もある。

『翼をください』を聞いていて、「今、私は乳首が欲しい。そしたら、授乳をしよう、ん?、乳腺がないからできないじゃん、ギョエー」 と驚愕したのは、今年の2月だし。3月末、右手が浮腫んで、どうもこうもならなくなった時、これが一生続くのイヤだって泣いたし(左 の時は、少し早い四十肩ってことですりぬけたんだったよね。あああん)。 バランスがとれないってことで、自転車に乗ることを禁じ手 にしたら、体重の増加は、1年で3sにとどまっている。下の毛は抜けたがまだ許容範囲だ。

元気だと言われる。口達者だから。実は、身体はキツイ。副作用は前回と同じかパワーアップしている。でも、何が起こるか知っているか ら対処法がわかるし、だから、元気に見せられているとこもある。退院してから、月一回新しいカウンセリングを始めた。私より私につい て知っているあのカウンセラーとの関係とは比べようもないが、外科での不安などを聞いてもらっている。

何より、温存でも起きた落ち込みが、全摘の場合のヒドサの事前対策としてお願いした。2度目の乳がんは、初回より怖い。知っているぶ ん、無条件で怖い。『命日症候群』と呼ぶのらしい。この五月から、去年の日付と合うことになった。去年封じ込めた恐怖や不安が突き上 げてきて、しずんでは、泣いてばかりいた。情緒不安定。

前回の底なしの落ち込みとは、別物だった。
何が怖いかって?告知も入院も手術も確かに怖いけれど、たぶんそれは慣れになる。「また、なるんじゃないか」と思いながら生きて行か なければならないこと。私はたぶん、寿命まで生きる。過信ではなく、誰だってそう。その果てのなさに不安いるのが怖い。右一年目の検 査として、マーカーとエコーはクリアした(でも、初回も2回目も、マーカーもエコーも、発見の役には立たなかったんだよね)。あとは 、骨シンチと造影剤を使うCTの検査・・・ 実は、二度目になるまでの4年間もしていない。一度ならしも、二度まで乳がんをしていたら、す べきであろう。

だが、骨に飛んで(転移して)たら。初期なら抗ガン剤の対象になり、ベットに縛り付けられる。効果は、知る限りあまりない。だったら、 末期の骨盤が砂状態になって歩けなくなってから、転移を発見されたほうがいい(なんたって先輩の新病院には、その検査設備がないから、 国立までいかなければならないし、な)。今のところ、検査を受ける気持ちはない。だったら、それと引き換える不安は、受け入れなけれ ばならない。受け入れるしかない。

左が乳がんになった時、その傷跡を邪険にした。右がなった時、左が残っていることが疎ましいと責めた。この一年間、ずうっと、胸帯を きつく締め続けてきた。でも。せっかく私の身体に残っているかわいい左乳房を解放し、大切にしようと思った。 八月、胸帯をはずした。 鎧は要らない。少しづつ落ち着いてきた証しかもしれない。

放射線病棟でのこと、去年の右の告知のこと、去年の入院のこと、書いてきた。が、左を見つけた時のこと、告知された時のことは、今回 初めて書いた。いっぱい思い出してしまった。あれは、お祭りだったのかもしれない。がんは、私の生き方や考え方を変えてくれた。女で ある前に、人間であったと教えてくれた。もちろん、がんにならないほうがいい。でも、私は、がんになってよかったと思う。

治療は、あと1年。この夏は、さすが左右の腋リンパがないと、キツいなと思っている。 まず、この1年を生きることが、目標。それか ら、恋もして、結婚もしたいと思う。チャンスがあったら子供も産みたい(って、来年四〇歳。産むまでには、四十一歳だわ)。

ミジンコの心臓以下の私が、がんになった。 がんは、自分を大切にしろと教えて、守ってくれている気がする。なんとかなる。 片乳を、 左胸を張って、堂々と生きていけ。

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{No2}2003年3月18日更新分

・・・
■【3月のまえおき。】
・・・・・・・・・

3月1日、突然40度を出してしまった畠山です。発熱は、実に、4年ぶり。ええ、熱だけだったのです。とりあえず食べられるし、テレ ビも見られるし。「なんだこれは」。私は、ご幼少のみぎりから(どんな育ちだい!)、一週間に一回は、40度を出す体質でした。縄跳 びが飛べないといっては熱を出し、ひらがなが書けないといっては熱を出し。夏になると、水銀体温計をホッペのそばに近づけただけで、 ピューっと40度を越し、上限まで上がるんでした。そういうのは、きっと知恵熱というのでしょうが、知恵が身につかず、39歳に・・ ・、ヘヘ。

だから熱には、慣れているのです。苦しいのは38度に達するまで。あとはもうご機嫌ヘロヘロ状態になれるもの、普段絶対に言わないお 世辞も言えるのです。40度になったら、40度になったアカツキには、他の症状がないかぎり、もしかしたらベストな体調なのかもしれ ません。変ですか、やっぱ、変ですね。

変と言えば、まだ一般家庭にデジタル体温計が普及しない時代、病院に、壁掛けディスプレイデジタル体温計が入ったのです。入った日に 行ったもんだから、主治医も「シメシメ」と思ったのでしょう。「恵美ちゃん、恵美ちゃん、試してみる?」。数分後、ディスプレイには 『45.3度』と出ていました。人間って、出す時は出せるのだと私は思いました。しかし「これは、間違ってます」と、主治医は叫びまし た。翌日から、その病院で、その大きな体温計を見たことはありません。体温計の値段、高かったでしょうに<低いのは『33.3度』を出 したことも。それも「間違ってます」と言わせました。あん。私って、変温動物・カエルなわけ?>。

「子供が、熱を出し過ぎる」というご家庭があります。そんな時、「熱のプロだった私を見て、よく成長したと思うか、こんな風に育たれ ると困ると思うかで、その熱をどうしようか決まるよね」と、私は、自信を持って答えます。・・・大抵、ソッコーで子供を病院に連れて 行かれますね。もう、悪かったわね。

まあ、そんな『熱』で、私の3月は始まったのでした。 さて。先月は、私と乳がん6年間のラブストーリーを、ざらっとおおくりいたしました(先月読んでない人も、バックナンバーで読めるか ら、大丈夫デス)。 ゆえに、今月からは、その中のポイントポイント・ツボ押さえテーマで、お話しをしたいと思います <リクエストに もお答えする所存ですので、ぶっちゃけて、来てくださいね>。

今月は、『私の告知と、「あなたの」セカンドオピニオン』と『幼なじみ』の二本立てで、いきます。

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・・・
■『私の告知と、「あなたの」セカンドオピニオン』
・・・・・・・・・

「乳がんだ」ってわかった瞬間っていつでしたか。
しこりに触れた瞬間も正しいだろうし、検査の途中だったも正しいだろうし、検査結果を待っているあのイヤな数日間も正しいです。 で も、確定したのは「乳がんです」と、主治医が一言、発声した時からなのです。病名確定とも申します。それでも、それは病名が確定した だけで、ほんの始まりに過ぎないことに、私たちは気がついていません。だって、進行の度合いも乳がんの種類も、その先の医療行為を受 けなければ、本当のところは、わからないのですからね。

私の尊敬する和尚さん(注:普通の、そこらへんにある寺の住職さんで、決してあやしい宗教の人ではない)曰く、「病名が決まった日か ら、人は、病人になるんだよね」。 ごもっとも。いくら自分でわかってても、自分の体内でエライことが起こってると自覚症状が出てて も、病院に行かなければ、勝手に病名はつかないし、病人でもないですよね。

先月読んでくださった方。主治医んちの定番ケーキ・サバランを食えと言われながら「がんだったよ」と、意表をつく告知をされた私が、 その瞬間思ったことデス。6月8日でした。実家の祖母の命日だ。左アキレス腱を神経ごと断裂した日だわ。恋人と円満に別れた日。失業 保険が今日で切れるのね。去年入った保険は、今日で1年と一日目「・・・計画自殺する人みたいだな」。プラスetc.何かがよく起こ る日なのね。過去の6月8日に起こったことみんなブワットふきだしていました。

「がん」と言われて、心の底では、大笑いしていたかもしれません 。必死に説明をする主治医を見ながら、「うちに帰ったら、(懇意に していただいてる)婦人科の先生にチクッテ、そっちから、この乳がんをなかったことにしてもらってやる」と、思っていました。乳がん に対する知識なんて、ゼロでした。みなさんの居住する自治体の乳がんの集団検診はちゃんとしてると思います。私の市は、婦人科メイン の外科サポート的に、病院に自主的に行くつう乳がん検診をしてるのですね。しこりを発見した日も、早朝叔母(他町在住)に「乳がんは、 外科だよ」と言われなきゃ、婦人科に自転車走らせてたと思います、絶対。しこりを、生検(切開手術)するのって、今はあまりやらない っていうのも知らなかったし、・・・液体しこりだったので細胞診もヤバかったとは思うのですがね。

まあまあ、告知です。だから、生検したわけですから、告知時点のおっぱいには、しこり、病巣も、たぶんないわけです。それでも主治医 は「手術をしてくれ。全摘だ」と、説得しようとしてました。 「今、そこに病巣がなければ、また、しこりができた時でいいじゃん」。 無知は、強い。「そういう問題ではないんだ」「じゃあ、どういう問題よ」「念のため、もうこれ以上、がんを広げないために、切開じゃ ない、ちゃんとした手術が必要なんだ」「ふーん、それってさあ、おばあちゃんもおかあさんもそうでしたから、あなたはまだ中学生で発 病してないですけど、念のため、おっぱいとりましょうって言ってんのと同じじゃん」。

無知のたとえは、無茶苦茶デス。「そのたとえは、絶対に違う」と主治医は、静かに言いました。 まあ、母も同席して泣き崩れておりま したし、母には、進行度合いやがんのタチなどは、絶対に言ってくれるなと、主治医と約束していましたから、これ以上この席では、会話 できませんでした。家に帰って、前書の婦人科医に電話をしました。とーっても正直な先生で、声に真実が出てしまう人なのですね。しこ り発見からの経過から「告知」時点の説明まで、一気に申し上げると、「ごめんね。日本では、へそから下の病しか、婦人科は切れないの だよ。僕がなんとかしてあげられなくて、ごめんね。でも、○×病院に行けば、セカンドオピニオンが聞けるし、違う手術法があるかもし れないから」。がーん。やっぱり「乳がんだったんだ」。ここで、私は、初めてセカンドオピニオンなるものを知りました。もちろん、文 字では知っていましたが、自分がその当事者として、セカンドオピニオンが使うなんて想像したことないですから。

翌日、生検の傷のお手入れに行って、ちゃんとした手術をしたほうがいい乳がんの種類であり、たちの悪さも、説明を受けました。 その 上で、セカンドオピニオンを○×病院に聞きに行きたい旨を申しあげました。 ・・・実はね、この○×病院は、医療ミスの裁判を多数抱 えていて、本心では聞きに行きたくない病院のひとつだったのです。主治医は、もちろん、即答で反対しました。それは、昔の医者のよう に、お客さんを奪われるっていう狭い了見の反対ではなかったです。

それでも、行こうと思えば、行けたでしょう。
  結果から申せば、行っても、長年乳がん専門でやっていたドクターが、自分の病院の開院準備で、その時期いなかった。ギリギリそのドク ターに執刀していただいても、切った次の日には、退職なされてた時期だったのです。これは、国立仙台病院に入院してから、○×病院か ら放射線療法のために転院してきた人たちの証言でわかったことで、ある種、行かなくて正解だったです。行かなかった直の理由?梅雨の どしゃぶりで、自転車がこげなかったからです。それが、吉と出ました。

「おっぱい残せないのかな」。お手入れの時に何げなく言ってみたら、主治医がノギスで、乳首と患部を計り始めて、ギリギリなんとかな る距離が出て、全摘ではなくて、温存になったのです、左は。 主治医は、国立までわざわざ出向いて、手術に立ち会ってくれました。だ から、一回目については、主治医自身の中でのセカンドオピニオン出しまくりだったように、私は思っています。これが、私の一回目の告 知とセカンドオピニオンの話です。

二回目の時は、もう、エコーの時点で主治医の顔色が変わりましたので、ソッコーで「乳がん」確定でした。「すぐに、国立に行ってくれ」 と、懇願されましたが、私は行けませんでした。どうしてって、こわかったから。がんだってわかってるのに、検査結果がでるまでの時間 がこわかったから。そして、一回目の時に封じ込めてた「こわい」がフラッシュバックしたから。 近所でマンモがあって、造影剤CTを してくれる個人病院に行って、さっさと検査してもらって、さっさと結果を言ってもらって、なんかさっさと手術まで終わらせたいって思 いました。

ここらへんの話は、もっと詳しく書く機会を設けたいと思いますので、先に行きます。その「さっさとしてくれる」近所の病院で、マンモ などの検査を受けました。微細ながん病巣にもかかわらず、触診で「がん」って出てしまいました。当然です。でも、おびえて待合室にい る母に「違うって」ってウソをつくことに努力しちゃいました。

乳がんの告知って、初回でも二回目でも500万回目でも、初めてと同じですよね。慣れるヤツなんていない。近所の病院からの告知は、 電話ででした。「がんです。電話では詳しくお話しできませんので、明日来てください」。 仮にそうだとして、もうがんだってわかって も、電話であっさりかよ、でした。そして、翌日に説明を受けたのです。が、説明は検査した医者でも、電話告知した医者でもなく、初め て会う(まあ、初めて行った病院ゆえ、みんな初対面ですが)医者でした。その病院では、胃から腸や肺までオールマイティに、専門に切 ってるだけの医者でした。 

その執刀医となる方が、やたら携帯電話で受け答えしながらの、告知・説明でした。質問も途切れます。何聞いていいのか、何が聞きたい のかわからなくなります。告知でどうというより、何がわからないのかわからないような混乱した頭でした。その携帯を、窓から見える田 んぼに捨ててやるっては、ずっと思ってました。 私が泣き出す前に、がん告知に立ち会うなんて初めてじゃないだろうにの体格のいいベ テランナースに、シクシク泣かれてしまって、私は、泣けませんでした。ある意味、そのナースの涙だけが、その病院での唯一の救いでし た。執刀医は、一回目から二回目までの、私とがんとの時間を「無駄だった」と言い捨て、次に「チッ」と舌打ちしました。「こんなヤツ に、私のおっぱい切らせたくない」。それでね、私は、国立仙台病院に戻ることになったのです。

でもね、母は、怒り心頭でした。私は、私のおっぱいを任せられるとこで切ってもらいたい一心。でも、私でない、母は、違います。みな さんの居住地にも、いろんな病院の特性があると思います。私が診てもらった病院は、脳外科以外の救急指定病院です。また、新築したば かりで、きれいです。私が「乳がん手術を断った」ために、もし、交通事故などでそこに運ばれた時、診てもらえないんじゃないかって怒 ったんです、母が。診てもらう人は『母』ってことで。

それでケンカになりまして、叔母の家に避難しました。叔母は、ケッコー、ポアポアした性格なのですけど、「恵美が、国立行きたいって 言うんだから、行かせてやるべ。もしそこで、最悪のことが起きても、恵美自身が選んだことだから、納得できるでしょう。でも、仮にオ ネエさん(母)が、あの病院に義理立てして、最悪なことになったら、みんなが後悔するべ」。そう、ワンワン泣いて、母を説得してくれ ました。

そういうことです(ってどういうことかは、これから書きます)。国立は、個人病院と違いますから、緊急以外、一日中いつでも行ってい い病院ではないです。担当の曜日もあるし、初診と再来もわけてたりします。国立仙台は、ですけど。私は、国立に、初回の時で、3人の 主治医がいました。厳密に言うと誰が主治医だったかわからんです。執刀したテシマ先生、手術後すぐの定期異動で担当になったヤマダ先 生、放射線科で2カ月お世話になったナカムラ先生。一番長い付き合いのナカムラ先生に電話しました。

他の病院で検査したこと、こわくて国立にすぐ行けなかったこと話しました。「無駄じゃなかったさ。がんばったさ。帰っておいで」。  他の病院で検査した、私を責めなかったし、怒らなかった。おだやかな声で、うーん、「夏休みだから、帰っておいでよう」とでも言う父 親のような、そんな「帰っておいで」でした。で、本当は、初診しか診ない曜日に、予約をとっていただきました(これも、6月8日!)。 でも、放射線科は、外科の次の診療科であるので・・・すぐ外科に回されたのですけどね。

乳がんの初診(通常の乳がんの定期診療以外に出た場合も含む)は、当時の外科部長がするのでした。もう、間違いなくがんだっていうの に、「これをがんだってするには、僕には決められないなあ」。連発。 「とりあえず入院してから決めよう。この4年の間の医学の進歩 は目覚ましいからね。新しい先生も入ったし、入院してから決めよう」。100%がんが、99%になっただけで、黒が、かぎりなく黒に 近いグレーになっただけでしたけど、「切ります」としか説明がない黒より、どんなに救われたことか(まあ、そうやって安心させて入院 させて、ズバット。外科部長を『撒き餌の○ニイ』と私たち患者は、呼んでいました。悪い意味じゃなく、敬意を込めて)。

入院して。やっぱ4年の時間では医療体制も違っていて、チームになっていました。新しい主治医は、安田先生(この方についても、今後、 バンバン書きたいと思うので、おぼえといてください)。もう現役の外科医は、私より若いのね。でも、チームの中に、ヤマダ先生もいた ので、安心できましたけどね。で、前主治医&執刀医のテシマ先生も、病棟は違うけど、同じフロアーの中におられました。「今度は、専 門の先生にお任せだ」「えっ、先生の専門って、何だったんですか!」「じゃあねえ〜」。 確かにな、左温存は、縦に傷跡がありまして。 それは全摘の人も、テシマ先生にやってもらった人は、縦傷でして。なるほど。一回目の時に知らないでよかった。くうううう。

  でも、同じフロアーだから、階段とかでチョコチョコ、テシマ先生にお会いしてしまうのですよ(私も、病室には一日いない元気な患者な もんで)。「僕、ちゃんと、左切ったよね。ごめんね、右またなってしまって」「先生のせいじゃないって」「そうじゃなくて。でも、ご めんね」。私こそ、反対側もなって、ごめんよおでした。 だから、のちのち、いろんな治療方針のセカンドオピニオンを、このテシマ先 生に聞くことができて、一種の指針になりました。

また、本当の地元主治医の弟も、先月も書いている通り、外科医でして。しかも、(入院直前にわかったのが)乳がん・大腸がんの遺伝子 学が専門だったのです(しかも、同級生で素直なナイスガイ。「恵美ちゃん、古川に10人の乳がん患者がいて、いくら僕が専門だと言っ ても、9人は大きな病院に行かれるだろう。僕も食べていかなきゃならないから」と、ぢを切ってマス)。ヤスダ先生に聞いてわからない と、テシマ先生に聞きに行って、とどめは、同級生に電話して聞く。そんで、自分で決めてました。

私は、医者ではなく、素人の患者です。だから、医学・専門的なことは、かなり根気よく説明されてもわからない時があります。だから、 別の先生にも聞いてみるのです。そこで解明できることもある。まだ、疑問なら、さらに別の先生に聞く。・・・言っておきますけど、こ れは、病院に入院している際のことであって、先生がヒマそうにしてる時を見計らってのことです。自分(私)の都合で聞くわけじゃあり ませんから。そういう節度は、どんなせっぱずまった時でも、患者として持たなければなりません。

そして、私が、特別、医師に恵まれてたわけでもないのです。ただ、疑問のままにして置かないことが、医師との接点になっただけです。 セカンドオピニオン、サードオピニオン。聞くことは、無数にできます。その中で、自分の納得いく説明を捜し出す努力。いっぱい聞いて も、決めるのは、自分なのです。それでね。これはちょっと悲しいことだけど、手術前にどんなに聞いても、人間の身体って同じものは二 つないわけだから、必ずしも、自分がそうなれるわけじゃないことも覚えていてね。手術前、治療前には、その後の自分がどうなるかなん かわからない。手術も治療もやってみてから、「これは聞かなきゃ」がどんどん生まれ出てくるものです。だから、自分で決めるしかない の。その主治医が、自分の未来にとってどういう人になるかってことは。

さてさて、あなたは、セカンドオピニオンについて、どうお考えですか。納得いかなくても、意味わからなくても、初診してもらった先生 に、義理、立てますか。残念だなあ、自分の命ってさあ、ひとつしかないのだよね。

撒き餌の○ニイこと外科部長が、おっしゃってました。
「危険度でいったら、診察直後の急変よりも、会計して、病院から外に一歩出たとこの交通事故や、そそっかしくて階段から落ちるとかの 危険確率が方が高いのね。がんはね、きのう出来て、今日表面に出ましたという単純なものではないの。長い年月、時間をかけて、ダブリ ングして、作られているものなの。例えば20年くらいかけて、数センチのがんになって、初めて出てくるのね。だから、告知されて、す ぐにどう(手術)して欲しい気持ちはわかるけど、ここで10日くらいの時間があっても、早急に進むものではないのだよ」。

大きな病院だと、ベット待ちをしているだけで、10日たちますよね。不在時(入院時)の仕事の段取りが、10日かかる(そういう問題 でもないと、畠山は思うけどね)とすると、10日は入院できないよね。まあ、すぐに入院しても、いろんな検査や、はたまた手術室の使 用日ジャンケンで主治医が負けると(これは、ウソ)、10日後くらいにしか手術できない場合もあるよね。10日って時間は、短いけど、 長いよ。納得できないまま手術しても、一生、悔いが残るじゃん。だったら、セカンドオピニオン聞きに行こうよ。

データを持っていければ一番いいけど、それで、ちゃんと説明してくれない医者であっても、入院手術予定の関係がくずれてイヤなら、身 体とあなたが聞いたことを、セカンドオピニオン病院に持っていけばいいです。でも、この場合、どの病院にしようかな的な「ドクターシ ョッピング」はやめてくださいね。BS社を利用しているみなさんにはいないと思いますけど。自分のため、自分のおっぱいの未来のため に、前向きに、真摯な気持ちで、聞きに行ってください。

医師や病院には、守秘義務があるので、あなたがセカンドオピニオンを聞きに、別な病院に行ったことは、あなたが話さないかぎり、誰も 知り得ないことなのです。

説明を受けます。ここで、入院を今待機している病院や医師との比較ができます。セカンドオピニオンの病院や医師の方が、自分に向いて いると思ったら、どうぞ変えてください。説明はわかったけど、やっぱ最初の医師の方がいいと感じたら、そっちに戻ってください。そん なことで、患者を差別するような医者にはかからなくて、よろしい。

そんなことで患者の命を粗末にするような医師はいない。どんな名医と呼ばれる、権威と呼ばれる医師に執刀してもらって、温存ならなに ごともなかったかのようなおっぱいで、全部摘出ならきれいで芸術的な傷跡だったとしても、そこに信頼感がなければ、ダメ。寿命より先 に逝ってしまうかけがえのないおっぱいに、愛情を持ってくれる医師でなければ。失礼だけど、その縫い目がヘタクソであっても、私を一 人の人間として、一人の女性として、手術してくれる(だろう)医師でなければ、ダメ。

よく「あの先生(病院)は、乳がんの権威なんだって」と申される方がおりますけど、権威って何ですか。権威が、信頼感を生むわけじゃ ないし、権威っていうメスが切るわけじゃないでしょう。いい医師って、権威じゃない。「あの先生、いいよ」。じわじわ評判がなにもし なくても聞こえてくる医師が、本当の名医なのだと私は、思います。たとえが悪かったら、ごめなさい。権威っていうのはね、政治家の裏 の顔と同じ程度なんだよ。

私の友人は、サードオピニオン以上まで聞きながら、家族が看病するのに便利な病院を選びました。そこには、権威と崇め奉られる昔の技 術しか持たない外科医が、院長でいました。どこで急にそうなったかわからないまま、急遽執刀医が、その院長に変わって、今ではあまり 行われないハルスレット術法をされました。昔の技術。たった15年前の話です。「私は、肩の筋力だけで、生きている」。 本当の権威 ならいい。でも、それを決めるのは、誰?。

私は、医者の中でも外科医は、尊敬しています。緊急手術を要する患者ばかり運ばれてきたら、一日中メスを持ってなきゃならない。 予 後を診るために、極端な話、10日くらい風呂に入らないで、ピータイルの上でも眠れる神経と、微細な病巣まで切り取る繊細な神経を合 わせ持たなければやれないのが、外科医でしょう。ハードさで言えば、27時間とか35時間とか、おむつ(医師本人が)をあててでも手 術してる、心臓外科でしょう。

でも、よく神経持つなあって思うのは、乳腺外科です。精神科医以上の神経を使うのは、間違いないから。きれいに切って縫って当たり前 の世界。お手入れの時、病理の結果や今後の治療方針の説明の時、非常に言葉を選んで、お話ししてくださってるでしょう。私は、都度、 その神経を使った配慮に、涙しました(普段は、ヤスダ先生とは、部活の仲間感覚でしたけどね)。その先生、医師になら抵抗なく、胸を 見せられるでしょう、違うかなあ。ちょっとだけね、恋愛感情とは別次元で、この男性(医師)だけにしか、これから裸見せられないかも って思ったもの。

そういう神経に居る患者と、毎日接しているのだよ、乳腺外科医は。本当に、よくまいらないでやれるって、尊敬する。乳がんって、乳が んという単一の問題じゃないよね。おっぱいとがん別々の問題だよ。告知から入院まで、それを理解できる患者はいないし、入院から手術 までの時間でできる人もいない。手術が終わって、それから、長い時間かけて、その意味を考えていくものではないかな。今から、倍と一 日生きて、手術した身体が、人生で最も普通で永い身体なんだと思う時間。それと、付き合ってくれるのが、乳腺外科医だもの。一生、者。 もしかしたら、夫や恋人よりも近い、理解してくれる存在になる。

だから、自分が納得できる医師に、切ってもらって。近くの病院しかなくても、その中でベストな病院をさがして。ベストな医師をさがし て。そのための10日を、自分に許してやってください。何度も書きます。それは悪ではないです。申し訳なく思うことでもないです。自 分のたったひとつの命と、自分のかけがえのない、おっぱいのためだもの。

私は、『がんばって』って言葉大嫌いだけども、でも、おっぱいと命のためには、がんばってよ。あなたのかわりは、どこにもいないんだ からね。がんばって。

・・・でも、ひとつ、お願いもある。私も二回してるから、告知から入院までの10日に、心に余裕なんてないのは知ってる、よく知って る。知ってる上で、お願いします。セカンドオピニオンは、医療行為として聞いてください。不安な気持ちの一時しのぎのために、電話で 聞くのはやってダメだよ。外科医は、それで食べているプロです。遠くて、また、体力的に行けない場合は、電話でも、どうしたら医療行 為としての相談にのってくださるか、セッティングしてくださいます。自分だけが、特別じゃない。10日もあるのだもの、ちゃんとした 医師ならば、その間にきちんと相談にのってくれるから、指示に従ってね。

あとね、もうひとつのセカンドオピニオンの方法もあるんだ。超前に、和尚さんの言葉を書きました。家族でも友だちでもなく、普段は話 さないけど、でもこの人に話すと、心の交通整理ができる不思議な存在の人、いませんか。その人と話してみるという、セカンドオピニオ ンです。 私の場合は、その和尚さんなのでした。うちの菩提寺の住職さんではないです。いっつも忙しく飛び回ってて、アポイントとっ ても、めったに会えません。でも、二回とも『乳がん』と確定した時には、会えました。

世間話してるうちに、「こだわり」みたいなものが、すうっと消えていって、私は、医療行為の現場に行けました。教会が幼稚園をやって て、自分がそこの卒園生だから、その牧師さんとかと思う、話すといいっていう人もいるでしょう。地域で、普段は話さないけど、ひそか に尊敬してる人でもいい。久しくお会いしてない恩師もいいかもしれない。その時のあなたの 気持ちを、ジャストミートで聞いてくれる 人ならば。

そんなセカンドオピニオンでも、自分の本心が見えたりします。
<あっ、すいません宗教の自由ですけど、この場合、新興宗教系 は、問題をややこしくする可能性があるので、お勧めしません>

これは、初回の時に、カウンセラーが私に送ってくれた言葉です。 「こわい気持ちを、かくすな。手術の前日にこわくて、こわくて、逃げ 出したくなったら、逃げていい。泣きたかったら、大泣きしなさい。我慢しないで、こわいって言おう」。逃げてもね、乳がんも一緒に、 伴走してきちゃうしね。

初回の時、前夜逃げようと思った。でもね、国立仙台病院の夜の一階ロビーって、とても暗くてこわいんだわ。だから、やめたの。あの暗 さの中、逃げるなら、手術室に行くほうがこわくないなって。 二回目の時は、泣いた。そしたら、同じ部屋の「ネエさん」って呼んでた患 者さんが、「みんなで病院の回り走ってくるべ」って。走り疲れて倒れたら、記憶なしで手術室行けるぞって。「ネエさん」は、術後で体 力が落ちてて、走れないのに、そうやって弱虫ヤロウな私の涙を引き受けてくれたの。

あっ、走らなかったよ、もちろん。 「こわい」「手術なんか、ヤダ」って、言って、叫んでいいんだからね。我慢しないでね。いくつだか ら、大人だから、我慢しなくちゃならないことなんて、ないんだからね。ごめん。不安だよね。特に、雨とか強風とか台風とか吹雪とか。 その不安の一時しのぎは・・・そのために、先輩患者がいると思うの。手紙もメールも書けないよね、

生の声で、話したいよね。夜は絶対朝にならないって思うし、雨は止まないって思う、特に、夜は。 畠山は、24時間をそういう電話に さけるわけではないけど、また、独身で子供なしゆえに結婚もしたことがないから、お話しできる人は限られてしまうけど、ごめんね。B S社を通していただければ、お電話で、話すことできます。医者じゃないから、医学的なことは答えられないけど、あなたの話を聞くこと はできます。

ご要望なら「乳がんって、すてたもんじゃないぜ」って、笑かしもします。畠山はね、一回目の時、母が寝たのを確認してから、自分の部 屋で「治る治る、絶対治るう」って踊ってた。バカみたいでしょう。でも、そうすると眠れたのね。二度目の時は、初回の仲間が、フォロ ーしてくれた。村社会って言われても、やったことのない人には、わからないよ。どんなに、自分を理解してくれてる人だって思っても、 乳がんを体験していない人に、今不安などうしようもない気持ちのあなたのことは、わからないよ。病院に来てくれて、握手してくれて、 抱き締めてくれて、つまらない話を夕方までどっぷり聞いてくれて。『乳がん村』の仲間たちは、いっぱい泣いた分、優しいよ。『甘えて いいんだよ。いつかお返しできる時間もあるから』(高校の恩師が、手術前にくれた手紙の中にありました)ひとりぼっちじゃないからね、 畠山も、いるからね。

『私の告知と、「あなたの」セカンドオピニオン』なんて、大上段に構えたタイトル着けちゃいましたが、ちゃんと伝わってるといいので すけど。

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・・・
■『幼なじみ』
・・・・・・・・・

さてさて。毛細血管がもっと細すぎて「脳に爆弾」をかかえてる幼なじみがおります(正式病名は、長くて難しくておぼえられないので、 お許しを)。で、私は「乳がん」です。二人とも、一人っ子の跡取り娘のくせに、独身です。へたをすると「結婚って、生きていればいく つでもできるよねえ」すら、1回だって無理くさいサダメかもです(笑)。

そんな二人が、たまに、ひなたぼっこ媼状態で、お茶を飲みます。そして「私たちの病名って、確かに、タイソウで、みんなビビルけど、 本当にヤバイ病なのか」について話ます。今、インフルエンザで、床の中唸っている人と、茶を飲んでいる私たちは、どっちが大変か。イ ンフルエンザさんでしょう。今、骨折で、ベットから身動き禁止令が出ている人と、ひなたぼっこできてる私たちは、どっちが苦しいか。 骨折さんでしょう。

結論は、ここにきます。
彼女は血管が切れたら、命の危険、もしくは家族(親)に介護をしてもらう逆パターンが生じます。私も、二度がんをやってるとヘラヘラ っと言うと、99%の人に、何とも言えない表情をされます。でもね、『今』二人には、お茶を飲み話ができる『健康』があるわけです。 二人の病には、完治とか治癒とかはないかもしれない。でも、医学の進歩で、そういう日がくる可能性は大きい。

人間は、生まれたからには、もれなくワンセットで死ぬわけです。だから、その寿命の理由が、たまたまその病名になるかならんかだけで はないかと、二人は考えているのです。「今がよければいいさ]主義ではなくて、「今、こうしてお茶を飲める幸せ」主義を、病気からい ただいたとでも言うのでしょうか。 ・・・畠山は、「あんたって、生きることに、執着がないよね」と、よく言われます。当たってるかな って思います。

だからね、彼女に呪文のように言われていることがあります。「普通の女性のように、結婚したり、(年齢的にも)子供を生んだりしてと いう親孝行はできないかもしれない。老境の親に、看病をさせてしまうことになるかもしれない。でも。親より、1分でも長生きする。順 序よく生きていくっていう親孝行はできるから」。

夕暮れの一本道を帰ってゆく(って、徒歩1分)彼女の後姿を見ながら、あー今日もおいしい時間が持ててよかったと思うのです。脳でも がんでも、簡単には死なないぞと思うのです。

  あなたにも、見栄とかそういうものなんか関係ない、痛みを知っている、人の心の痛みを知っている「幼なじみ」はいますか。あなたのそ ばに、どうぞそういう存在の人がいますように。

今月も、すんごくながいのに、最後まで読んでくださってありがとうございました。

その後、熱は・・・。

一応病院に行ったのですね(主治医:啓ちゃんは、通常のがん治療以外で行くと「お前はなあ」って目をする・・・狂犬病の注射をしてな い犬に噛まれた時と、マヌケな交通事故にあった時の、啓ちゃんの目は、実にこわかったデス)。

インフルちゃんではなかったです。咳止めもらって帰ってきました。4年前のインフルちゃんの時も、咳止め飲んで苦しくなったなあと思 いつつ、その時の薬と違うからって、飲みました。たらこれが、プチ臨死体験になりました。胃が痛いが、胃が苦しいになって、アンカを 腹にあて、じいっと夜の中に居たのですが、いろんな人が出て来て、一人一人に「ありがとう」を言いました。長かったような短かったよ うな眠れない夜でした。

母が起きてきたので、朝だったのでしょう。20分くらい寝たらしいのです。夢がもうメチャメチャおもしろくて(内容は忘れました)、 ゲラゲラ笑ってたのです。そしたらね、背中の中央をバンと叩かれたのです。「どっちにすんの」って(畠山の部屋は狭いので、誰かが入 って来てそんなことをしたら、される前にわかります)。目がさめました。さめなかったら、今こうして書いていないでしょうね。さめて よかったあ。布団から跳び起きて、ちょっと吐いて、ちょっとめまいして。 そしたら、完璧な咳、鼻水鼻詰まりなどなど、風邪の症状が 出てきました。知恵熱じゃなくて、風邪だったのですねえ。

乳がんになって、健康になったような気がしてます。昔は、風邪薬や胃薬の新しいのが出ると喜んで飲んでたのに(すいませーん)、今は、 なるべく薬は「乳がん関係」のだけで済ませよう、余計な薬は飲まないって、決めてます。身体がSOS出してるのだから、頭の中で、今 日やらなくていいことをざっと見積もって省いて、寝てる(横になってる)ようにします。一生そんな楽なことはしてられないけど、6月 の治療終了予定までは、それでいくのです。

乳がんになりたての時、言われたな。「義理を欠く。それで離れて行くような人を追わない、いらない」。コレ、案外当たってます。・・ ・まだ畠山のプロフィールなぞは、書いておりませんが・・・今月は、いろいろと久々に「なんだこれは」締め切りに追われています。熱 出したって言ったら、締め切り早められました、鬼っ。 でもここちよい忙しさです。・・・って、キーボード打ち過ぎで、右手が、パン パン(むくみともいふ)。

うーん、畠山の住んでいる古川を含む、大崎地方(仙台から上っておぼえといてねえ)の、春のイベント情報をサービスします。4月4日 から6日までは、岩出山町の「梅まつり」があります(超オススメ)。4月7日から6月27日までの間の3と7のつく日には「古川八百 屋市(やおやまぢ)」が開かれます。4月23日には、あの松島奈○子が、橋田センセイのドラマのために自転車に乗りに来た菜の花畑の ある、三本木町で「大豆坂(まめさか)地蔵様のお祭り」があります。いいっすよお。田舎の春も楽しいので、よかったら、新幹線でビユ ーっと遊びに来てみてくださいね。

って、もう朝5時じゃん。なにが、なるべく寝てますよーだっ。こういう無理が、熱を生む。久しぶりに忙しい、楽しい忙しいは、きっと 乳がんにも、効くのさ。まあ、来月はもうそんな忙しくはないと思うので、ファイトだ、私。もう、連載2回目にして、早くも原稿すべり こみさせて、ごめんね、河村さん(女優なので、顔はぶたないでえ、ヘヘヘ)。

来月号は、『戦友』のお話しを書きたいと思っています。
でも、あなたのリクエストに出来る限り答えたいので、遠慮なく(しつこいな、私)
じゃあ、来月の更新まで、またね。
たくさんの、ありがとうをこめて。


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