Top プロフィール 業務内容 乳ガン闘病 畠山の世界 掲示板

今月の読み物


2005.H17.8.9・・・が最初

目 次

{No1}2005年8月9日

私は、戦争を知らない子供です。昭和38年に産まれた赤ん坊も、42歳になります。
私が、家族から見聞きした「戦争」「戦後」を、まとめてみました。今月は、この4編です。

{No2}2005年10月7日

私が、ひかれる女性に、なんか共通点があるなーと生年月日を追ってみましたら・・・
昭和27年生まれ(近辺)であることを発見しました。なんでだ?。
お一人お一人の好きな箇所を羅列してみたいと思います。

{No3}2005年11月18日

『いぶし銀X』

『あこがれ』

{No4}2005年12月26日

『 私 が 弱 い と き こ そ 、 私 は 強 い 』



{No1}2005年8月9日

・・・
■【みんな働いていた】
・・・・・・・・・

昭和23年5月、3女である叔母が誕生したことにより、わが家:畠山正二郎家は、本家より、正式に分家しました〜って、新戸籍法のな せる技なのですが。畠山家は、長男は小間物屋系、二三男は宮大工系の仕事につき、代々脈々と畠山家一本として続く家系でした〜朝廷か らの密使じゃねーかと言う人もいます(笑)。

祖父は、さしもの大工として、また祖母と数々の副業をして、その貧乏苦労を笑い話にし、昭和20年代を生きてきたようです。昭和29 年、父が、高校進学を考えていた時、祖父がはじめて、貧乏の窮状を言ったそうです。父の高校進学の理由は、陸上でオリンピックに出る こと、当然勉学ではありません。

「お前の下には、妹が5人いる。それはお前の責任ではない。高校に行きたいのならば、医者になってくれ。お前が医者になるなら、とう ちゃんはどんな苦労だってする。でも、他の理由で高校に行くのなら、手に職をつけるために、あきらめてくれ。日銭の入る床屋になって くれ」と。父は、いつも豪快に笑いながら「医者になる頭ねーしな」と、たった一人の男の子、長男である宿命を語っていました。

年子である長女も、床屋になりました。それでも、徒弟制度で、住み込みの弟子が当たり前の業界なので、長男長女の収入は、まだあてに はできず、次女は、地元・自宅通勤のクリーニング士になりました。床屋とクリーニングの店を出したのは、昭和36年のこと。渡り職人 として、いろんな技術をちょっとずつかじってきた(身にはついてないので、今なら、確実に訴えられる技術〜苦笑)父と、ひとつ店で顔 剃りなど確実な技術を身につけた叔母(これが、極上の美人)、さらに、テレビも置いて、『理容エース』は、毎日夜中の二時過ぎまで大 繁盛だったそう。

隣の店舗の『エースクリーニング』も、美貌とキップのよさ、もちろん技術も上等で、日銭が稼がれていきました。・・・ってとこに、床 屋である母が嫁に来て、私が昭和38年10月に産まれたとさ〜。

分家になるきっかけとなった3女は、唯一「宮城県古川女子高校」も進学しました。
それは、両親、兄姉の労働の賜物だったに違いありませんが、「入学して、卒業しただけさ〜。毎日学校に電話きて、早引きして、伝票と か書類作りしてた。あと、床屋学校の通信教育もしてたんだよ〜」と、床屋・クリーニング屋に有効活用される見返りも充分。・・・ただ、 姪として見て、ここにわが家の学歴逆差別が存在します。

「高校出たからって、お金稼げないんじゃね」と、叔母はいろんな自信や可能性を奪われていったように思います〜だって高校進学率10 0%になった時代の私ですら、「女に学問はいらない」と、嫁に行った叔母たちの許可を必要としました(3女の後輩になりました!)〜 4女、5女は、高校進学せず、床屋になりました。彼女たちの3女をいつもバカにする言動が、私は、あまり好きではありませんでした。

事業は、急展開で発展していき、住み込みのお弟子さんたちや、従業員さんたちと、「あなた、誰?」という人で、昼間は30人以上が、 ご飯を食べていました。時々、片手で茶碗を持っていると「戦争でやられだ(負傷した)のが〜」と、躾?されました。カレーもいつも、 大人用に辛くて、給食のカレーを食べて「この世に、こんなうまいものがあるのか」と思ったほどです。

小学校5年からは、放課後も休日も遊ばず、祖母とご飯をつくってたと思います。叔母たちは、近くに嫁に行き、いとこたちは、わが家に 帰ってきたりしてましたから。「大人になったら、一人暮らしして、誰にも邪魔されない時間で生きよう」と思ったりもしました。

でも、今、思うのです〜去年から一人暮らし始めたこともあるだろうけど。 なんだか、みんな、わさわさと働いていたなあ。お金とか生きがいとかじゃなく、とにかく、働いていたなあと。あの中で育ったことは、 とても幸せな時間だったなと。

夏になると・・・祖母が、庭にゴザを敷いて、女だけの暑気払いをします。
「おなごわらすが、酒なんてダメでがす」も、その日だけはOK。コップに3センチほど継がれたビールに、白砂糖をちょっとだけいれて、 ニコニコ飲みます。まぜられない、祖父や父や、男の従業員さんは、『鉄管ビールだ〜』と、クリーニング工場の太い水道の蛇口から、水 をガブガブと飲んでいました。みんな、ナイスな笑顔でした。

本家も、伯父と伯母だけになり、祖父母も父も逝き、叔母たちとも疎遠になり、うちも私だけになりました。<父は、糖尿の合併症のため、 オリンピックを狙った足を切断と言い渡された数日後に、急逝しました。足と一緒にいたかったのでしょう>

あの、みんなが一生懸命働いてた時代を『戦後』とするならば〜働くということさえも〜とても、とても、さびしくなりました。


・・・
■【田尻のおばあさん】
・・・・・・・・・

その遺影の青年は、昭和18年に亡くなったと言う。
私の叔母の嫁ぎ先、叔母の連れ合いの長兄にあたる人。義叔父が産まれた時分に出征したから、義叔父も幼すぎてよくわからないと聞く。 『田尻のおばあさん』とは、その二人の母親、叔母の姑だ。

わが家で、出征した人、戦死した人はほとんどいない〜父方祖父の次兄が、南方沖に向かう途中、爆撃にあい戦死?したことすら、「海で 死んだ」=「海水浴で死んだ」と伝えられた、呑気なうちなので〜猛おんちゃん、ごめんなさい。平成になり、家系調査して、やっと戦死 の事実を知りました。

本家とうち、もう一つの畠山家、次兄の一人娘は、小樽に在住らしいですが、音信不通なので(照子さん、ご連絡お待ちしてます)〜。 祖父は、足が悪かったので招集されず。父は、昭和20年でも、5歳。母方祖父はハードな『ぢ』で招集されず。また実家も裕福だったの で、なんかに手を回したらしいですね。

だから、戦争で、大切な誰かを亡くす痛みや苦しみは、ごく近しい人の口から聞くこともなく、私は育ちました。むしろ、戦争に加担しな かったことを、ほこりに思っていました。

安保や学生運動の時も、私はまだ小さすぎて(のちに、あと10年早く産まれてくればと、当時の闘士に言われたものです)、また同世代 である叔母たちもそういうことには、興味がまったくなく。はじめて戦争というものを意識したのは、父がやってた事業が、イランイラク 戦争用の軍服を、作って輸出した時でした。

私は、父の仕事を自慢に思っていますが、いくら業績が厳しかったとはいえ、軍服に手を出すとは・・・と、口をきかない、手伝いをしな いことで反抗していたと思います。20年以上前のことです。

殺される人死んでいく人だって、肌の色の違いはあっても〜日本人だって同じ肌色はいません〜、同じ赤い血なのになあ。私は、今でもそ う思いながら、ニュースを見ています。しかし・・・声高に反戦を語ろうとは思わない。なぜなら、私は、戦争で、愛する人を失った経験 がない。

叔母は、無邪気な人で、悪気はないのですが、『田尻のおばあさん』に、よく言ってました。「死んでもらったおかげで、恩給入って、お ばあさんはいいなあ」と。おばあさんは、決して反論することなく、いつも、遠い目をして笑っていました。母親であるうちの祖母が、叔 母をいくら諌めても、叔母は、おばあさんに、言い続けました。「生きてて、問題おこされるより、よかったって」とも。

『田尻のおばあさん』(うちの祖母も)は、10年前に亡くなりました。
戦争がイヤだとか、恩給の話などせずに。「恩給もらうより、生きていてくれたほうがいい」とも、言わずに。あの微笑みに勝る反戦、戦 後があるかと思います。戦争を知らない私らが、戦争を語るべきじゃない。ならば『田尻のおばあさん』の微笑みを持って、反戦とすべき だと。

ちなみに、恩給は、『田尻のおばあさん』自身の物欲のために、使われることなどは、決してありませんでした。


・・・
■【戦後疎開の闇】
・・・・・・・・・

私は、一生その真実を知ることはないだろう。 母は、大阪で昭和12年に産まれた。祖父は、大阪府の役人で、大阪の地下鉄を開通させた人だ(そうだ)。祖母は、曾根崎の料亭の一人 娘。大阪にいた時は、両親と兄、姉、母、(母の下に弟がいたが、急逝)の5人家族、何不自由なく暮らしていた(そうだ)。

お金はたらふくあったが、終戦後は、お金があっても、物がない時代であり、子供たちに腹いっぱい食べさせたいと考えた祖父は、自分の 実家である、宮城県松島に一時疎開させることを思いついた。祖父は、次男だが、兄である長男一家も東京在住。今のタイミングで戻れば、 松島一裕福と称される実家で、ばっちり優遇されると考えたらしい。

祖父自身は、単身大阪に戻り、大阪の経済がよくなったら、また呼び寄せる。あるいは、自分が、実家の跡を継いでもいいと思ったんだろ う・・・。祖母の着物たちがメインの荷物は、コンテナ2台分だったそうだ。

しかし、兄弟は同じようなことを考えるもので、1日早く、長男一家が戻り、実家に入っていた。大阪で恋愛結婚して、勝手に生きてきた 次男一家を受け入れる場所はない。そして、あてがわれた住まいは、山の奥の防空壕として使われた広い洞穴。祖父は、大阪に戻れず、神 経を病んだ。お嬢さんとして育った祖母が、金シャ・銀シャ・お召しと呼ばれる着物を、食べ物と交換しては、生き延びた。

母が長じてからは、夏は、高城川で、しじみを取り、祖母が売る。冬は、桜エビを取り、祖母が売った。実家は、何の援助もせず、お米を もらいにいった孫である母に、曾祖母は、腐ったご飯を投げ付けたと言う。母は、生きるために、その腐ったご飯をかき集め、洗ってみん なで食べたと。どん底の貧乏をしたと、言う。

これが、産まれてから、ことあるごとに何万回も聞かせられてきた母方のストーリーだ。  戦後疎開はいいとしよう。しかし、コンテナ2台分かかえて戻るのに、サプライズで戻るだろうか。戦後の慌ただしさの中、役所が祖父に そんなに休暇を与えるものだろうか。疎開時期も、都度違う。母が小学2年の夏(終戦直後)だったり、3年になる時だったり(昭和21 年春)だったり。母が作業し、祖母が売る、この事実はあり得るだろう。

しかし、仮にも、母の上の兄姉はなにをしていたのか。祖母が、一番小さな次女だけに労働をさせたとは思えない。精神を病んだ祖父は、 宮城県庁や松島の観光協会などに勤務したと時々、言われる。病んだ精神が癒えたのかは、誰も口にしない。次に登場するのは、昭和31 年秋に、破傷風で亡くなった時。曾祖母が依頼した祈祷士が来たから、医者の手当が遅れたとも聞く。

しかし、その日は、戦後産まれた叔父の運動会で、また母の専門学校の卒業式で、誰にも見取られずに亡くなったとも聞く。曾祖母は、私 が小学校の時に亡くなったが、亡くなるまで、曾祖母だと誰も教えてはくれなかった。するどい眼光の老婆のイメージしかない。曾祖母だ と教えてもらえば、もっと接し方が違うかったのにと、それ以来思っている。

どん底まで突き落とした祖母(曾祖母)の家に、母はなぜ、私を連れていったのか。母の家系の精神状態には、かなりの波がある。私は、 いつまでも過去に住む母と、去年、住まいを別にした。自分で自分の精神状態を守るためだ。母方の人間とは、極力つきあいたくはない。

「おじいさんが、精神を病んで、亡くなる数年間のことを、正直に話すことができるようになれば、お母さんも、お母さんのご兄弟も、や っと楽になるでしょう」。相談した精神科医は、言う。私は、戦後疎開の闇の中に安住している人に、そんな日は来ないと思う。


・・・
■【歴史(事実)は、変えられていく】
・・・・・・・・・

昭和20年夏、もうすぐ戦争が終わるころ、古川町台町(当時)に爆弾が落ちた。
祖父は、足が悪いため招集はされず、さしもの大工をしながら、数少ない男衆として町内のお世話役もしていた。祖母は、1歳になる次女 の世話におわれており、5歳の長男(父)と3歳の長女は、常に、祖父の作業場周辺で遊んでいた。

空襲警報はいきなりで、半鐘を鳴らす余裕も、防空壕に非難する余裕もなかった。祖父は、二人の幼い子供に、作業半纏を投げかけて、そ の上に覆いかぶさった。直後、作業場の真左の民家に爆弾が落ちた。その家には、数日前に、首都圏から縁故疎開してきた人が7〜8人い た。その家の住民ですら、まだその縁故関係、事情を把握しきれてはいなかった。 そして、住民はちょうど不在で、無事だった。はじめての大きな空襲は、本当の古川町民の命を奪いはしなかった。しかし、縁故者ではあ るが身元不明の7〜8人(この人数も推定だ)の命を、消した。空襲直後、祖母と次女は、わりとあっけらかんと登場したらしい。長男と 長女は、恐怖におびえ、祖父にすがりついていた。祖父は、爆撃の音で、左耳が、一生、聞こえなくなっていた。

今から10年前の戦後50年の際、突然、その身元不明者の慰霊祭が行われることになった。直撃された家は、もう代替わりしていて、亡 くなった方々は、本当に身元不明に成り果てていた。一応、当時の状況を知る人が探された。父が、生き証人として名乗り出た。「自分が 話さなければ、耳をつぶしてまで、自分たちを守ってくれた父親のことを伝える人がいない」と。

しかしその申し出は、あっさりと拒絶された。
空襲が落ちた場所周辺は、わが家が引っ越した昭和35年あたりから新住民になっている。戦後のどさくさで、身元不明の骨もまだ地面の 下にあると言う。空襲が落ちた場所が確定されれば、今、骨の上で生活している人が気持ち悪いだろう、が、拒絶の理由だ。空襲が落ちた のは、今や駐車場になっている空き地なのだそうだ。市や県にも、父は談判したが、生きている人の気持ちが大切だと、やんわりと言われ た。父は、泣いた。

歴史というものは、生きている者に都合がいいように、事実でないことにも、変えられてしまう。
この60年の間に、戦争を知らない私たちの見聞でも、どれだけ変えられているのだろうか。
「絶対に、言い続けてくれ」。父は、戦後50年その年、12月に、急逝した。


{No2}2005年10月7日

・・・
■【27(1952)年生まれ・考】
・・・・・・・・・

《桃井かおり ちゅわん  27年4月8日》
かおりちゅわんとは、高校の時からの付き合いです。『ブスのうた』といううたが収録されたアルバムは秀逸です。かおりちゅわんは、い い意味で、私たちを裏切ってくれちゃいます。演技よりも、かおりちゅわんの司会なり歌手での部分を評価します。

『モア・スタンダード』というカヴァー・アルバムでは、元うたの歌手には出せない味を出してます。プリプリの「ダイヤモンド」では、 はじけちゃってるし、KYON×2の「フェイドアウト」では、こんなに卑猥だったのかだし、チェッカーズの「ジュリアにハートブレイ ク」では、こんなに切なく哀しいうただったのかだし、ミポリンの「WAKUWAKUさせて」は、やっと意味がわかった〜みたいな・・ ・実におすすめなのです。

《もたいまさこ さま   27年10月17日》
『猿ぐつわがはずれた日』の著作がいいです。いや、これは読んでもらわないといけない本です。もたいさまもいいけど、タコ社長がいい。

もたいさんの出演作品の中では、「谷口六造商店」のばあさん役・・・。私は、猫好き派じゃないのです・・・。 『猿ぐつわ』の書評を書かせていただいたことを、事務所に通したところ、もたいグッツがドーンと送られてきました。そして、二度目の 乳がんの手術前日には、事務所からドーンと豪華お花の籠盛りが届きました。・・・これは、もたいさまの人柄だけでなく、タコ社長のキ メ細やかな配慮の賜物だと思っています。

単なる1ファンに、この心遣い。私は、シャシャコーポレイションの社外社員になろうと、深く決意しました。 『猿ぐつわ』の中の『悲しい買い物』は、つらい時、朗読すると、なんかがんばれる、すばらしい作品です。ブラボー、もたいさまです。

《松坂慶子 ちゃん   27年7月20日》
慶子ちゃんは、今のどこから見ても同じ幅のじゃなくって(失礼!)、『蒲田行進曲』小夏時代の慶子ちゃんです。いや、今のも、好きで すけど(石原プロ御用達はそろそろ、お辞めくだされい)。

慶子ちゃんは、大女優なので、泣き方は1パターンしかできません。できなくていいのです。『配達されない3通の手紙』の泣き方と『蒲 田行進曲』の泣き方と『愛の水中花』は同じでした。全部泣く設定が違うのに。でも、大女優だからいいのです。許されるのです。

慶子ちゃんは、かおりちゅわんからも、中島みゆきからも「私たちは、双子よね」と言われ、「そうよね〜」となんの考えもなくこたえち ゃいました〜じゃあ、かおりちゅわんと中島は、間接キス状態の双子か!。そういうポワポワンとしたところが、とても慶子ちゃんらしく て、いいところです。願いがひとつ、慶子には、70過ぎて、脱いでもらいたい・・・。

《山口美也子 さん  27年2月3日》
山口さんは、中学生だった私が、大人になったら、なりたい身体のラインをお持ちでした。あのキレイなおねーさんのようになるためには どうしたらいいんだろうと思案したものです。

アンニュイな役柄が多かったと思います。昨今は、トンマで元気なお母さん役が多いような気がしますが・・・。 過日、生山口さんにお会いする機会がありました。ファンというのは、不思議なもんで、「知ってる人いるな〜」と思って会釈しましたら、 アンニュイな笑顔で会釈を返していただき、瞬間「山口さんだ〜」と、焦りました。プライベートな場面でしたので、それ以上お声をかけ るわけにはいきません。走り書きのメモをお帰りになる時にお渡しできたまで、です。

「私は、山口さんのようになりたかったです」と書きました。今でも、なれるならば、なりたい女性です。

《阿川泰子 ねーさん  26年10月16日〜1コ上》
我が、ヤッコねーさん。平仮名ジャズだぎゃなも。「日本沈没」のテレビ版に、女優として出てたがな。
私は、ジャズ好きですが、安心して聴けるジャズボーカリストは、ヤッコねーさんしかおりません。『YOUR SONG』はいいですよ。 これかけながら、ミシンをだだだーっとかけてると、頭の中が空白になります。

ヤッコねーさんには、もっとテレビちゅーか、メディアに出てほしいんですけど、最近はとんとごぶさたで、さびしいかぎりです。

《中島みゆき 27年2月23日》
うちの中島です、30年の付き合いになります。私は、中島のうたとともに、13歳の冬から、中島のうたをバイブルに生きてきました。 中島のうたを定義にして、人生を切っていけば、前に進めるのです。

ただ、乳がんをしてからは、信者ではなく、ファンとしてのいい距離を保てるようになりました。
まあまあ、中島は、ここで書ききれるもんでないので・・・また、いつか。

《とらこ(仮名)ちゃん 27年1月7日》
・・・うちの叔母です。とらちゃんは、カッパがシェーする絵がとてもうまいです。ちゅーか、それしか描けません。
とらちゃんが、小学校6年の秋に、私は生まれました。とらちゃんは、西郷輝彦が大好きで、学校から帰って来ると、私に歌い踊らせまし た。ちょっとでも違うと、ものさしではたきました・・・今でも、西郷さんの曲が流れてくると、条件反射で踊い歌ってしまう。西郷さん の次は、キャロルで、次が、小林旭でした。

もうなんなのっ。とらちゃんは、今、1女2男の母です。でも、母も妻も嫁もやっていないくさく、相変わらず、ゴーイングとらちゃんウ エイしてます。そっかそうか。とらちゃんって、強力な叔母がいたから、27年生まれの気性、学年カラーが好きなのかも、引き寄せられ るのかもしれません。

だれか、恋人と一緒には、うたも演技も堪能することができないちゅーか、したくない女優さんだったり、歌手ですからねえ。ある意味、 みなさん、強い、強い個性をお持ちな、27年生まれなのかも。 失礼しました〜。


{No3}2005年11月18日

・・・
■『いぶし銀X』
・・・・・・・・・

学生の時の教科書は、年代もののワインのようなものである。 現役で学んでいる時は、試験や進級など今今のニーズに対応するだけで、必要性や重要性を思い知ることは少ない。けれど、社会に出て、 激動の時間やらゆるやかな刻を経て、再び手にする。昔わからなかったところも、得意だったところも、みんな熟成された味わいを持ち、 別なイキモノとなって登場する。

私にとって、中二・中三の数学の教科書と担任が作成した数学のプリント集が、まさしく「それ」である。三十歳を過ぎてから、仕事用の 机の前には、二冊の数学の教科書と二冊の(プリント)ファイルと、数学のノートを並べている。仕事で煮詰まった時、眺めてみる。体内 の細胞が、生き返ったように動き出す。

私は、小学校の算数は、あまり好きではなかった。代数が、△や□などの一定しない図形であることに、違和感があった。また、テストの 点数とは関係なく、成績表の評価は、担任の胸三寸だったせいもあるだろう〜百点をとり続けても、授業で発言をしても「ふつう」。親が PTA活動に熱心な、常に五〇点以下の子のほうが「大変よい」・・・これって、どういうわけよ。

しかし、中学の数学は、違った。九〇点を維持しつづけた結果の評価は、「5」。それはどんなことがあっても、ゆるがないものだった。 それと対等に匹敵するものとして、『X』の登場だ。もう△や□ではなく、XやYが、定番で鎮座している。これに私は、弾けた。矢でも 鉄砲でも持ってきやがれ状態になれた。私は、数学という武器を、喜々として手にいれた思いだった。

さて。今の教科書にはないらしいが、私たちの時代には、二進法や十二進法などがあった。教科書にも詳しいが、私は、各進法の早見表を 作成した。しおりサイズのパラパラめくる形態にして、教科書に挟めていた。授業では、そのページが終われば、先に進むが、進法早見表 は、いろんな教科のいろんな場面で活躍した。これが、数学にのめりこむきっかけになったことは否めない。

今から何時間何十何分後は、何時になるとか、遊ぼうと思えば、充分遊べる。二進法は、コンピューターの基礎になっているとと聞いたこ とがある。まだパソコンという言葉もない時代に、私たちは、数学の中で、その初歩を伝授されている。

中一は、教科担任の家庭の事情で、数学はやたら、自習が多かった。そんな時間は、数人のグループで、二十分で各自テスト問題を作り、 アトランダムに渡して二十分で解き、残り十分で答え合わせや、各自の苦手な点を指摘しあった。ダラダラおしゃべりしているより、楽し いのだ。

「答えがあっていることは、重要だが、その答えに行き着くまでの考える過程こそが、貴い」。いつも答えは間違っているヤツの過程の論 理を聞いていると、妙に納得できる。過程的には、まったく間違ってはいないのに、答えになると間違う不思議さもまた、この自主的テス トのお楽しみの一つだった。中一のクラスの年賀状には各々、あけましておめでとうのかわりに、びっしり数学の問題が書かれていた。X には、1か2を入れれば、簡単に解ける問題ではあったが、クラス四十五人が、四十五人分の別の問題を作成して、年賀状を必死に書く姿 は、今想像しても、笑みがこぼれる。

中二は、クラス担任が、数学だった。前出のプリント集は、担任手作りのものだ。教科書もおもしろいが、このプリントも、かなりいけて る。さらに、担任の話術も長けているとなっては、もう、数学の虜にならずにはいられない。授業風景を思い出してみると、数学的会話は、 少なかった。担任が顧問する弦楽部の楽器になぞらえての話だったり、文学の中における数学の話だったり。

当時同じクラスの女子は、今、自分の家の簡単な電気製品の修理や配線もできる。これすら、数学の時間に、数学を通して担任が、私たち に授けた知恵だった。「これは、数学エッセイだ」と遺憾に思われるかもしれない。しかし、まじめに、全部、数学的理論で、人生や生活 を、四十三人の生徒は学んだのだ。

「高校受験に出る問題の九十点は、中二までの学習から出る」。これが、担任のモットーで、定期試験の問題の十点分は、まったく習って いないところから出す。私たちは、担任に負けたくなくって、試験前になると、九十点分の勉強ではなく、十点がどこからだされるか、ヤ マの出し合いをしていた。九十点分は、いまさら勉強しなくても、毎日の授業で頭に入っているからだ。

ゆるがない九十点以上で、「5」評価も、あまりの九十点以上続出で、九十五点に上げられた試験もあったが、うちのクラスは、それでも 「5」評価者は、脱落しなかった。

数学には、明確な答えが存在する。国語のように、「作者のこの時の気持ちを、二〇〇文字で書きなさい」なんて問題はでない〜山口百恵 ちゃんの文章が試験に出て、その回答が発表された時、百恵ちゃんが「そういう考えで書いたのではありません」みたいな事態は、数学で は有り得ない。しかし、答えは、一つであるにかかわらず、その答えに行き着くまでは、いくつもの、いくとおりもの過程が存在する。そ れは、すべて正しい。かつ、すべて、間違っている。オールオアナッシングであり、答えのでないブラックホールなのだ。

三段論法も、置換法(当時は、みんな、「痴漢」法だと思い込んでいた)も、全部中二の時に、文学的たとえの中で学んだ。うちのクラス は、男女でも、とっくみあいのケンカを、よくした。しかし、感情のままではなく、いかに、三段論法を使い、置換法を用い論理だてて、 とっくみあいに至るか。論理的であるということは、ネに持てないものだ。ケンカのあとは、サバサバしている。・・・だから、四〇過ぎ た今でも、中二当時のままで付き合える関係だったりする。数学が、今でも、私たちをつないでいる。

中三のクラスは、楽しくはなかった。むしろ馴染めなかった。しかし、数学の教科担任は、中二の担任であり、プリントも続行されたから、 数学の時間は、素に戻れるというか、楽しかった。楽しく数学しているから、「5」から降りることはない。楽しくなく受験のための数学 の勉強をしているクラスメイトを見るにつけ、数学ってもっと違うんだよと同情の視線を送っていた。だからなおさら、私は、そのクラス から浮いてしまう存在だった。 また、別のクラスに行き、別の数学教師にあたった、中二の仲間は、憤懣やるかたなしで「数学が、数学 的に教育されない」と嘆いていた。

しかしながら、高校の数学には、戸惑った。戸惑うのは当然だ。中学時代の数学のあの教科担任が、高校にいるわけではない。プリントも ない。個人的には愉快な、高校の数学教師は、淡々と教科書通りの数学をこなしてゆく。遊びやゆとりのない数学。数学を持って、数学を 教える。本筋なのだろうが、興味は、どんどん、なくなってゆく。

「お前、中学ん時、数学できたのに、なんで、高校にはいって、これなんだ」。何度、問われても、私には、無意味に思えた。高校時代に、 二つだけ、数学についてのエピソードがある。数学==は、選択科目だ。必修は、数学==Bまで。その数==Bの最終授業の時に、私は、泣き 出してしまった。

算数から数えて、十一年、不本意な時期もあった、興味がもてない時期もあったにせよ、もう、日常の時間表の中から、数学を、授業とし て学ぶことはない。そう思うと、泣けて泣けてしょうがなかった。うちは、女子高校だった。女子高と言ってもホワホワした場所ではなく、 当時、まれにみる男前のバンカラの女子高だった。

数==を選択しなかった、同じ思いのクラスメイトも、続々泣き出してしまった。「しげしちゃん(繁司先生)」は、自分と別れるのが、辛 くて泣き出したと思ったらしく、「僕は、転勤しないから、この学校に、ずっといるから、泣かなくていいから」と言った。違うって、私 たちは、自分たちの青春の中から、数学というものが消えてしまうのが、悲しくて切ないんだって。しげしちゃんの存在は、どうでもいい んだって。

数==も数==Bも、なんで、もっとちゃんと勉強しなかったんだろうと、思うと、すっかり、しゃくりあげ泣きだった〜恋人と別れても、こ んな泣き方しない。もう一つは、囲碁将棋愛好会の立ち上げだった。入会規定は、数学が好きな人。授業で弾けられなかった私は、ここぞ 自分の居場所とかかんに申し込んだ。しかし、門前ばらいをくらってしまった。

なぜか。「あなたは、先を読めないから」。数学が好きであることと、先が読めないことは、囲碁将棋をすることにおいて、なんか関係あ るわけですか。途方に暮れた。この意味を理解できたのは、大人になった、つい最近のことだ。さて。今、私は、バリバリ文系の仕事をし ている。さぞかし、国語がお得意だったでしょうと、問われることもあるが(点数的には、小学校からずっと「5」です)。モットーは、 国語に、100点なし」。

なぜ文系の仕事ができるか。それは、私が、数学的人間だからだ。国語的人間は、文系の仕事はできないと思っている。同業者を見るにつ け、国語的人間の仕上げた仕事には、キレも計算も過程もない。私に言わせりゃ、甘いの一言。明確な答えを先に用意して、その答えに、 行き着くベストな過程を計算し、積み重ね、切り捨てていく。その見極めができなければ、文系の仕事は進んでいかない。

中二のクラスメイトで、土木設計の仕事についた男子も、PTA活動に日々驀進している主婦になった女子も言う。「根本は、数学だ」。 私らは、国語的発想をする人間を、使えないヤツと、言い捨ててしまう。しかしながら、私たちはまた、生き方や金銭にシビアになること に関して、こんな歳になっても、苦手だ。そういうことは、国語的な人間のが、はるかに上手なのだ。

数学的人間は、過程を大切にする。努力=結果ではない。国語的人間は、答えを求める。結果がでない努力は、努力に値しないと立ち回る。 さきほどの、囲碁将棋愛好会の入会断りの意味は、数学が好きなだけではダメという意味だ。もちろん、国語的人間でもダメだ。理数系の 人間、数系人間でも理系人でもなく、理数系=物理学=宇宙を読める人間が、「先を読める」人間になるのだ。

確かに。過程ばかりを大切にして負けても、勝つのを有力視して汚い勝負をしても、それは、囲碁将棋の精神に反するものだろう。当時囲 碁将棋愛好会の代表だった先輩は、今、日本物理学会会員である。・・・しかし、先輩は、四十二歳にもなろうというのに、米をとぐ時に 洗剤を入れ、りんごを食べる時も洗剤で洗い、台所には、まな板も包丁もない、「おいおい!」という日常を送っている。先が、見えない 私は、先輩を救うために、婆やになって家事の代行をしたい思いだ。

私は、物理は、いつも赤点だったが、家事は趣味だ。家事も、ひろい意味で、数学の法則の中で、日々の時間の中に存在しているものだと 思っている。家事は、過程の連続であり、つきつめていくと、果てなどない。答えの出ない、珍しい数学が、家事だ。そのひとつ、『対比』 は、私の生活に欠かせない。

梅干しを漬ける時の塩加減、茄子を漬ける時のミョウバンの配合、消費税の計算・・・そこらに紙とペンを置き、Xを配置し、計算する。 まあまあ、数回やると、目分量とか、経験にもとずいたもので算出できるようになるのだが。『対比』は、きっと私と一生を共にする、数 学だ。『対比』を習っただけでも、いや、『対比』と出会っただけでも、数学に感謝している。すばらしいぜ、数学。

数学的な法則は、いろんな場所やいろんなものに、確実に存在する。人の生き死にの時間や日付を、親族・血縁の中でデータをとってみる と、一定の法則性を見いだすことができる。「1年は、三六五日しかないんだから」と言われると、どうしようもないけれど。カレンダー (日付や曜日)の配置の法則性、電話番号の法則性。占いも一種の数学的法則性の中に在るものではないだろうか。てなことを考え始める と、イマジネーションは、果てなく広がってゆく。

高校のころ「可能性だけの未来」と言っていたことも間違いでないように思えてくる。物理における宇宙ではないが、数学は、未来だと、 私は思う。中学時代の数学の教科書と、プリント集とノートをひろげてみる。理解できないことなどなにもない。あの頃、解けなかった、 理解できなかったことも、今ならば、できる。きっと、未来には、もっともっと、数学を理解することができると信じている。

数学は、ワインと似ている。寝かせることによって、その持ち主にとって大切なものを熟成させていく。管理を怠れば、殺伐たるものにな るだろう。が、怠った過程も楽しむことができるのが、数学とワインの差だ。過去と未来を自由に行き来して、数学は、可能性を再び三度、 確認させる。

きらめく宝石というよりも、いぶし銀のニヒルさをもっている、人生の過程、あるいは、目撃者が、私にとっての数学だ。私と数学は、同 行二人で、未来をゆく。

・・・
■『あこがれ』
・・・・・・・・・

お弁当箱の蓋の裏に、ご飯が一粒ついたまま閉めようとした瞬間、私たちは、呪文のように言う。「お米一粒、教穂(のりお)の命。その米 は、あなたに食べられたいために、この世に産まれてきたんだぞ」。教穂くんは、同級生で、農家の長男である。小学校中学年の時にはも う、自分のすべき農作業を済ませてから、遅刻ギリギリに登校してきた。いつもさっぱりと刈られた坊主頭から湯気をたてて、走ってくる。

教穂くんは、口数が少ない。しかし、米作りについては、小学生ながらアツク語る。「人が生きるってことは、すべて、稲穂が教えてくれ るって意味で、俺の名前はつけられました」。そんな教穂くんを、女子はみんな、尊敬していた。教穂くんが作ってるお米、農家の人が作 っている作物を粗末にしてはいけないと、肝に命じた。それ以来、「お米一粒、教穂の命」を言い続けるようになった〜一粒残すなら、弁 当丸ごと残せ、とも言う女子もいる・・・。

大人になった今日でも、教穂くんやこの意味を知らない人に向かっても言う。そして、教穂くんのが教えてくれた、私たちの農業の最初の 一歩を伝えていたりする。

そういう体験からではないが、私は、農業が大好きだ。わが家の関係者に、農家がいないから、農業の本当のところの苦労などなにも知ら ないから言えるのかもしれないが。「農家の人と結婚したい」。見合いの相手条件にあげるくらい〜商家の子供だからか、冗談だととられ たのか、そんな話はきたことはない。四十歳過ぎた今でも、本気で農家に嫁ぎたいと思ってんだけどなあ。

仕事として、農家をたずねる機会が多い。農家の人は、得てして雄弁ではないが、こちらがトンチンカンで失礼な質問をしても、丁寧に答 えてくださる。客商売は、いろんなお客さんのニーズに応じるため広く浅い、浅知恵を持っている。私は最たるもので、口先三寸、大風呂 敷広げては、「やっちまった」と思うことが多い。

しかし、そんな私にとって、農業は、そんな浅知恵を出すこともできないほど、楽しい謎の多い、興味深いものなのだ。わからないから聞 く。しょうがないなあって笑みをたたえた農家の人が、一から教えてくださる。例えば、梅干し用の赤シソ。タネから成長し、店頭に並ぶ 過程までお聞きした時には、大河ドラマ1年分見たような気がした。

反対に、農家の人から、その農産物に関して質問を受けたりする。自分んち畑にあるから、わざわざ店頭で買ったりはしない。八百屋さん の店頭価格を聞かれることはないが、飲食店でどれくらいの料理価格で出されてるかを問われたりする。シシトウガラシ。居酒屋で串焼き で、串に3つくらいついて、百八十円くらい?と答えた時、農家のおばちゃんは、「そりゃボリ過ぎだ」と大笑いしてくれた。それから、 ハウスに行って、大きなビニールいっぱいシシトウガラシをいれてくれて、「これが、百八十円分の出荷量だ。お土産にもっていきなさい」 と、またとてもいい笑顔で笑った。

「なんでプチトマトっていうか知ってる?」という質問に答えられずにいると、「プチっともいで、口の中で、プチっと食べるから」・・ ・と、真顔で教えてくれたおじちゃんも、心に残っている。農家に仕事に行った帰りは、心の収穫がある。仕事以上に学ぶべきことばかり。 田圃や畑に同行して、おろしたての洋服がドロドロになったことなど問題じゃないくらいのハッピーさが残る。

米作り体験をしている小学校に、仕事に行ったこともある。ある意味、傍観者に過ぎない私だが、参加できるような格好をして行った。「 おばちゃん、その姿はいいけど、腰とか入ってないし、ただ見ててくれる?、邪魔だから」と、小学生に注意を受けた。確かに。小学生が とても手際よく、田圃仕事をこなしていく。小学校1年から、段階を踏んで、学習しているので、6年生は、もうプロだ。農業体験をして いる子供には、責任感が育つと思う。こんな子供が、自分にもいたらと思うと、ますます農家、農業に対する思いが募る。

さて私は、「ササニシキ」や「ひとめぼれ」の生誕地である古川で、産まれ育った。古川の米が、世界中で、この世で、一番うまい米と信 じて疑わなかった。が。私の友人の父上が作るお米は、違った。同じ宮城県内ではあるが、古川でない土地で作られたお米だ。それは、晴 天の霹靂だった。 一粒一粒が自立している。几帳面で律義で、硬筆で書いた楷書の文字のような形であり、味。それは、友人の父上の性 格そのものだ。

土地がうまい米をつくるのではなく、作り手の気持ちが、米の味(性格)を産むということを、このお米から、毎年学ばせてもらっている。 〜しかしながら、友人は三姉妹で、だれも父上の跡は継がない。残念だ。

話は飛ぶ。男女共同参画社会が叫ばれて、久しい。私は、いまさらなんで、と思う。農家を見ればいいのだ。米の収穫期、いくつであろう と男手(小学生だった教穂くんがそうであったように)が、1袋三十キロの米袋を積んでいく。女手は、その他の仕事をテキパキとこなし ていく。誰が、段取りを決めたわけでなく、男として女としてすべき仕事が平等に自然に、長い間わけられているのだ。

1袋の米を持てる持てないで女性差別がどうたらこうたらと、いきりたったりはしない。友人の父上の性格がつまったお米を、友人の母上 がおおらかな気持ちで手配していくように。農業という仕事の上で、男だとか女だとかは、さして意味を持たない。人間としての仕事が、 農業であるように私は思う。

思いやりやいたわりなど、人間が人間としてかかわっていくべき心遣いが、農業には、ちゃんと存在するように、思う。しかし、私が見て いるのは、農家の表面的なものであり、現実は厳しいのだと思う。

一日中農労働しても、女性には、家事労働が、当然としてある(農家の嫁不足は、相変わらずこの一点集約されるのかもしれない)。男性 には、農業における社会的立場、役割がある。それはそれで大変であるのかもしれない。が、農業委員に、女性委員が少ないのは、本当に 平等なのではない事実ではある。

ただ、机上で男女共同参画社会を論ずる前に、一年間農業体験してみて欲しい。確実に違う視点が生まれるはずだ。

さて。農業に限らず、一次産業と呼ばれる仕事につく男性には、嫁不足という問題が、つきまとう。かつて、年間何億円も収入をあげる独 身の漁師さんとお話をしたことがある。そこで、私の生まれ育った「農業」という土地と、彼の生まれ育った「漁業」という土地の違いを 見た思いががした。

シケで何日も漁に出られない時、岸壁で待っていても、魚が自主的にあがってくれることはない。自分が生きるために、波や流れを見極め て、魚群に向かっていく。天候不良であり、かなりの対策をしても、不作。農業は、その結果を受け入れなければならない。漁業が「責め」 の産業であるなら、農業は「待ち」の産業ではないのだろうか。

とにかく待っていなければ。いいことがあるかもしれない。なかったとしても、それを受け入れて、できる範囲で生きていかなければなら ない。農業に従事する男性には、いい意味での奥深さと、悪い意味での消極性を、漁師さんと話は、私にそんなことを思わせた。 

従事したこともない、部外者の私がが言うべきことではない。しかし、農業から、世の中の成り立ちや人間関係見ていくと、学ぶことが限 りなくある。人は、自分だけで生きているとおごってはいけない。生かされている事実を、常に感謝しなければならない。

猫の額というには、猫に失礼なわずかばかりの土地で、私は私なりに野菜を作っている。手をかけたらかけた分だけ、作物は、応えてくれ る。しかし、一晩の天災で、あれ〜って事態になることも、めずらしくはない。本当に、人の思惑やこざかしさなんか見透かされてるなと 思う。わずかばかりの畑でも、私の思いどおりになんかなった年はない。けれど、毎年、いろんなことを畑は、私に教えてくれる。私は、 土や水や太陽、気温や雨量が、とてもとても愛おしくなる。自然の恵みに、感謝する。無駄にはしません、と。

いやなことがあった時、私はトマトの剪定を始める。上に延ばさなければならない茎、雨避けになる葉っぱ、根っこ付近の風通し、思いだ し案じだし、剪定を進めていく。軍手は、樹液でどんどん黄褐色に変色していく。首に巻いたタオルに汗がしみこんでいる。切り取った部 分は、もう生えてはこない。人間の言葉は持たないけど、切られて痛いのかなとか思う。でも、どんどん、頭の中が、今後のトマトがベス トの状態でいられるのかだけになっていく。

気がつくと、西の空が、夕焼け色になっている。剪定した茎や葉っぱが、ゴミ袋一つに収まる。生きてれば、まっ、自分の思いどおりにな らないことばっかりだ。腹を立ててもしょうがない。うん、しょうがない。なんとかなる。なんとかしていくしかないんだよ。いやなこと って、なんだったんだろうと、なんにもなかったと、忘れている。たったそれだけ。トマトの剪定だけでも、そう思える。本当に、農業に 従事できたら、私の人生は、すごく変われるんじゃないのだろうか。

「私は、農業が、大好きだ」。

さてさて。冒頭の教穂くんが、大人になって、農家を継いだのかどうかは、わからない。違う職業を選択していたとしても、きっと、教穂 くんは、農業が今でも好きなんだろうなと、勝手に想像している。

稲穂の実りが、すべてを教えてくれる。


{No4}2005年11月18日

・・・
■ 私 が 弱 い と き こ そ 、 私 は 強 い 』
・・・・・・・・・

右おっぱいがない。象の尻のような、あるいは、パンの耳の底の部分のような跡地が、右乳房だったところに広がっている。病名は、いま さら言わなくても、乳がん。左もやってるけど、温存手術ってやつで残ったから、迷路のような、永久につかない線路のような傷痕が、左 乳房を囲んでる。消化器の医者が手術したから、縦の傷痕。

乳がん患者としては、めったにある傷痕じゃない。
どっかに、傷痕パブちゅーのはないのかしら。デブ専、おば専があるんだから、傷痕がないと、俺はダメですっていう専門もあっていいと 思う。若く見えると言っても、戸籍年齢的には、もう若くはないから、洋服着てのウォータービジネスは、新人としては、無理。だったら 風俗ってーのは、安易すぎる考えだけれど、売れるものがないなら、それを、傷痕売って、生き延びるしかないじゃない。

でも、ダメね。高熱出しての点滴中に、トイレ行こうとして、ぐらっと身体が揺れて、看護婦さんが支えてくれる手すら、はねのけてしま うのだもの。いくらお金のため、生き延びるための仕事だって言いきかせても、見知らぬ男が、この傷痕キレイですねえって、シゲシゲと さわったとしたら、ボコボコに殴りつけてしまいそうだ。

「あたしの傷痕になにすんだ!」って泣いてしまいそうだ。神経が持たないだろうな。まあ、今だってこんなこと想像してるくらいだから、 まともな神経状態と言えるわけもないけどね。売れるものなら、売りたい。でも、私には、もう臓器だって血液だって、売るものがない。

いいわね。つくづく思うわ。もうこれから、『あなたのおっぱいに惚れました。あなたの人格なんか、どうでもいいです』なんてほざく男 は、よってはこないわ。あなた自身の性格や生き方にひかれた男にしか惚れられないなんて、うらやましいわ」。はあ?。何言ってんの?。 そんな理由で、乳がんがうらやましいなら、乳がんかわってあげる。そんな言葉で、私をなぐさめようとするならば、間違ってる。

『あなたの性格なんかどうでもいいです。ただただ、おっぱいに惚れました』。
そんな台詞一度でいいから言われたかったわ。締め付けるのはキライだから、ブラジャーしなかったことに後悔はない。でもね。女の子と して、一度たりとも、フリフリのレースのついたブラジャーでラブリーに包んであげることができなかったことは、乳房に対して申し訳な いと思ってる。

今できるブラジャーといえば、綿一〇〇%の前あき。それって、授乳用にしかないの、簡単に手に入るとすれば。いい?、右乳房はない。 左乳房の乳腺は、放射線治療のために破壊されている。私には、一生授乳する機会がないの。いい?、そんな私が授乳用ブラジャーって、 皮肉じゃない?。それでも、うらやましいて、思える?。

「病歴をかくすと、試用期間のうちの解雇、解雇だけならいいんですけど、違約金とられる場合もありますから、正直に伝えてください。 そして、やる気をみせれば、気持ちは通じますから」。職安のおっさんは言った。そんでもって、段取りよく、面接の日程なんか組んでく れた。仕事がないなんて、ウソだと思った。四十歳過ぎて、病名持ってる私にさえ、十五個も求人先があったもの。

あー、そのうち二つはNG。昔も、面接したことがある。あれね。雇う気はないけど、職安との良好な関係を保ち続けたいから、求人出し てましょうってやつね。昔、面接に行った時も、自転車通勤はダメだとか、化粧はどれくらいしますかとか、仕事には関係ないことばかり 聞くから、とても閉口したわ。こんな面接してる暇なんかないんですって、椅子を蹴っ飛ばしたかった気がしたわ。

雇用保険のビデオでは、相変わらずセレブな衣装を着た杉田かおるが言ってる。「失業保険と、俗に言われますが、これは、国民の皆様か らお預かりした大切な税金の一部なんです」。杉田〜。台詞棒読み。あなた本心からそんなこと思ってないでしょ。仕事だから、お金だか らわりきって、そんなビデオに出てるけど、あなたに雇用保険おりないでしょ。それに、そんなことしてる場合じゃなよね、あなたも。あ あ、あたしもか。

面接にも行った。私の職歴のいったいなにが、ご不満なんですか。十八歳から理容師、三十歳過ぎて新聞社勤務、その後はフリーライター。 3つしか職業は体験してないから、わかりやすくていいんじゃありませんか。履歴書には、あえて病歴なんか、書かなかった。書かないこ とと、正直に伝えないことは、別物よ。病歴は、口頭で伝える。

「理容師に戻られたら・・・」。戻れるのならば、ここに面接には来てないのよ、子供でもわかる質問ね。

病院の受付の面接は、最悪だった。
「乳がんをしまして、手が時々、瞬間バカになるものですから、理容師には戻れないんです。日常生活を送ることに、なんら支障はありま せん。事務系のお仕事であれば、接客には自信がありますし、こちらさまで働かせていただきたいと思った次第です」。精一杯の言葉で、 引きつった笑顔でこたえたわ。

病院、医者ってーのが、一番、病名を持ってる人間に対して、差別心を持ってるのかもね。病院で働かせる人間は、ボロボロになるまで働 かせても、ちょっとやそっとでは倒れない人間って、決めてるのかもしれない。

「手がバカになるなんて、ちゃんとしたリハビリをしなかったのかもしれませんね。わかりました。まず、うちの病院の患者になりましょ う。リハビリして、手がちゃんとなったら、受付にまた応募してください」。はあ?。バカじゃないの?。面接に来た者を、患者としてス カウトしてどうすんの?。さらに言わせてもらうならば、この病院に、リハビリ施設、五百歩譲って、リハビリコーナーさえ、ないでしょ。

理学療法士一人もいないでしょ。ちゅーか、医者もあんた一人でしょ。入り口の診療科目を見たけど、三十以上の専門品目。全部の診療の プロなわけ?。乳腺外科ってあったけどさ。この医院に、マンモグラフィって初期検査機械すらないでしょう。笑わせないでよ。「新聞社 にお勤めでしたか。どうしてまた、フリーになられたんですか」。・・・乳がんになったから。  

「乳がん?。休職って制度もあるけど、給料出ないから。あと、治っても復帰できるかは、その時のスタッフの能力次第だから。とりあえ ず、明日から、来なくていいから。うちの会社、働く女は、いらないの」。あの瞬間から、私の中の「働く」って部分に、ブロックがかか ったんだわ。明日から、来なくていいって、どういうこと?。働く女はいらないって、どういうこと?。ただ、乳がんになっただけなのに、 どういうこと?。

「そうですか。新聞社では、広告局で広告お書きになっていたんですか。フリーになっても、広告がご専門でしたか。そういうすばらしい 才能をお持ちの方を、受付にしとくのはもったいないですな。どうです、受付は、さっきも申しましたように、リハビリの成果が出てから ということで。実は、うちの病院、(経済的に)厳しいんですよ。うちの広告書きませんか。厳しいんで、そんなに多くは出せませんけど ね。もし、その広告の効果があがったら、受付になっていただくことも考えなくはない」。

つくづく、バカ?。フリーで食っていけないから、面接に来てるの。広告書くための着手金出すの?、取材実費出すの?、媒体への仲介料 の他に、原稿への正当報酬払うの?、何カ月か私が、求職しなくてもいいだけの金、ちゃんと出すから、言えてんの?。その広告、お引き 受けしましょう。でも、医院の経済が厳しいからって、値段を下げる義理なんか、ひとつもありませんから。こっちとら、それで食べてん だから。

それで効果があがったら、受付のパート賃金で、広告まで書かせるんでしょ。目が、シメシメって言ってる。言葉丁重だけど、あんたの言 葉には、心がない。きっと、あんたの施す医療にも、心はない。

職歴から、床屋してたのをはぶくと、三十歳までは、なにしてきたんだかになる。新聞社辞めたあとを、書かなければ、闘病だけしてきた ことになる。たった3つの職歴が、面接で問題になるとは、甘くみてた。

「新聞記者が、床屋になることはあっても、床屋が、新聞記者になるなんて、転職聞いたこたーないですな」。職安のおばちゃんが、言っ た。目の前に、一人居ますけど。お言葉ですが、床屋って職業は、そんなに卑下される職業なんでしょうか。手に職があるって、頭つかわ ないと思われてんでしょうか。

床屋も新聞記者も、浅く広く知識を仕入れ、人に接して働く仕事って点においては、まったく同じですけども。「あなた、U字溝、埋めら れますか」。職安のおにいちゃん、顔は笑ってるけど、目が笑ってないんですけど。おにいちゃん、あなたが、埋められるって私に判断下 せるのなら、埋められるのじゃなくって?。

「年齢が、年齢ですし・・・」。職安のおねいちゃん、ありがとう。それ、乳がんだと告知した医者に言ってくれる。「年齢が年齢でもあ るし、若い身体を、素早くがんは蝕むから」。あなたに否定されるくらいの年寄りじゃないの。がんにおいては、なんでもありの「年齢が 年齢」なの。

それから、フリーライターって、よく投稿マニアが使いたがるけど、私は、この街で、たった一人フリーライターで、確定申告してるの。 間違えないでちょうだい。遊びや酔狂で、フリライター名乗ってんじゃないの。そんでも、食えないから、求職活動して、面接してんの。 フリーライターと「フリーター」間違える人、よくいるけど、まったく違うから。ちゃんとバイトに勤しんでる「フリーター」のが、仕事 のないフリーライターよか、全然、偉いから。

フリーライターに有名かどうか求める人いるけど、お金のために名前捨てて書いているフリーライターのが、真実だから。お金よりも自分 の名前売ることに精力そそいでいる、自称フリーライターの書く文章もどきなんか、少なくとも私は、認めないから。「名前が、売れれば、 仕事は後からついてくる」って、だれかに食わせられて、ちんたら作文書いてるヤツ、一番、軽蔑してるから。

「あのさ〜。いちいち、そういうことで、面接で腹立ててたら、仕事なんかつけないわよ。要は、どうもぐりこむかだって。ハイハイ言っ てればいいの」。

ご主人も女将さんもとてもいい人だった。蕎麦屋のバイトは、心地よかった。「風はのれんをパタパタ言わせて」なんかなかったけども、 久しぶりに、全身を使って働くってことが、心地いいと思った。 「うちのバイトの賃金だけじゃ、生活やっていかれないんだからね。自分 の夢かなえるための踏み台だと思っていいから。いつ辞めたっていいんだから。そのかわり、突然来ないっていうのはやめてね。それ、一 番ショックなんだ。ちゃんとした仕事決まったって、ちゃんと言ってくれれば、うちはいいから」。

バイトにそこまで言える女将さんいる?。普通は、いないよ。女将さん、ごめんなさい。私は、両腋のリンパがないんです。体温調節でき ないんです。乳がんする前から、汗は出にくいかったけど、今はまったく自分の意志や環境の変化の範疇以外のものなんです。蕎麦屋のバ イトの二日目、急に暑くなった日だった。脱水になるとヤバイなと思って、水はバカバカ飲んでた。でも、店では、一度もトイレに行かな かった。

部屋に帰ってきた途端、まるでパッキンの壊れた水道みたいに、おしっこが止まらなくなった。3時間トイレにこもって、ただただ流れ続 けるおしっこを出した。腎臓で濾過もされずに、身体の中を駆け抜けただけの、朝から飲んだ水たち。それがひとしきり終わると、身体中 が震え出した。体温調節ができないのだ。

本来なら、病院に行くべき事態だ。でも、二日合わせても、五千円に満たないバイト代の倍はかかるであろう医療費を思うと、自分でなん とかするしかないと、計算した。首から上は、火のように熱い。アイスノンを総動員して、ぐるぐる巻きにした。首から下は、氷のように 冷たい。こんなに気温が高い日なのに、ファンヒーターを焚き、毛布で覆って、じーっとしていた。汗なんか、一滴もにじんでこない。

私は、乳がんなんでしょ?。乳房摘ったら、それで、外壁だけで、終わりなんじゃないの?。いつまで、終わらないの?。両腋のリンパも 切除をしたから、体温調節機能がイカレますなんて、手術前に説明なかった。内臓をいじったわけじゃないから、身体的変化はありません ・・・あるじゃん。体温調節できないってことは、内臓にもキイテんじゃん。うそつき。

主治医をせめても、詮無いこと。主治医を責めたことなんか、私は、一度もない。いつも、自分自身にキレているだけ。手術前に、どうな るか、ちゃんと説明を聞いていたとしても、私は、この状態を選択したはず。それで生きられるなら、それを受け入れると思ったハズ。だ から、自分にキレてるだけ。

「ふーん。それで、蕎麦屋にも行かなくなったんだ。たった二日しか行かなかったんだ。あなたから、蕎麦屋でバイトするって聞いた時、 うれしいと思う反面、絶対に続かないと思ったんだ。当たっちゃった。だって、あなた、ちゃんと働こうって意志みたいなもの、全くない んだもの。病気に、逃げてるちゅーか。自分の身体使って、毎日1円でも稼ぐって根性ないんだもん。無理無理。あなたが、社会に同化し て働けるわけがないわ。

十三社だっけ?、もう面接も終わったんでしょ。面接官は正しいわ。私が、面接官でも、あなたの境遇や体調には同情するけど、落とすわ。 あなたなんかを使っても、会社の役になんか立たないもの。単なる給料泥棒飼うようなものだもの。悪いけど、あなたと話してると、悪循 環の鳴門巻きみたいな気がしてならないから、しばらく話しするのやめましょう」。 友情なんか、そんなものさ。

「そんな身体になったんだから、自分の未来とか夢とか言ってないで・・・男とか結婚とか夢見ないで、実家に帰れ。実家に帰って、親に 詫びて、毎日詫びて過ごせ。親も老いていく。親がいるから、あなたも産まれたわけだし、親のために自分の人生、使え」。とか。

「寝るところと最低限食うものがあれば、心の中でベロ出してても、わかりゃしない。悪魔に魂売り渡す気持ちで、実家に戻って、復活の 時を待てばいいんだ」。とか。

人情ってやつも、そんな程度。
実家に帰れるならば、四十歳過ぎてから、家なんか出ない。あの地獄に帰るならば、ここで自分の人生に始末つけたほうが、すっきりする。 私の人生は、親のものなの?。家を出て、仕事が先細ってなくなってしまったことが、死刑囚になるくらい、悪いことなの?。かくして、 みんな、離れていった。別れ際に握手求めても、手を出してくれる人もいなくなった。そうね、マイナスの気の中にいる人間なんか、人間 のうちに入らないもの。どうぞ、どうぞ、離れていってください。

働きたくない、わけじゃない。働きたくて働きたくてうずうずしている。
けれども、昔、手術の前のような、病名もらう前のような身体ではなくなったことは、事実。そりゃ、一日いっぱい、この部屋にいるのは、 簡単なこと。地震で壁の内部崩落したボロアパートで、陽の移り変わりをながめて、ぼわんと過ごしたい気持ちも、なくはない。経済が許 すのであればね。自然が、毎日変化していくのを、見つめているのも、人生にとっての刻には、必要。

「貧乏は、こわくない。食えないのが、こわい」。
戦争を体験した世代の人は言う。諭す。でも、私は、戦争は知らない。きっと、戦争を知らないまま、私の人生は過ぎてゆく。食えなくは ない。米も、年内で食べきれるかくらいある。いただいたレトルト食品も、台所のあちこちにある。餓死しようたって、少なくとも、それ らを食べきってからだから、来年の課題になる。第一、慢性の食欲不振で、お米やご飯なんか見たくないもの。

二・三日食べなくても、まったく平気。食べ物は、あるのよ。貧乏は、こわくない?。貧乏になって、水とガスと電気止められたらって話 しよ。生米かじれってか。服や本なんか買わなくっても、人は生きていけるけれど、貧乏の限界ちゅーのはある。食べ物がなくても、水が あれば、とりあえずしばらくは生きていける。その水が止まったら・・・それが、貧乏の怖いとこよ。

昔、水道止められたことがある。貧乏なんかって理由じゃなくて、実家の事業が、倒産しただけの時にね。生活用水は、止めません?。役 所、なにをほざいてんの?。生活用水と工場用水の管が同じだって、わかっていて、メーターに着いてる管ごと抜いていったじゃない。あ れは、合法的に、死ねって言ってると思ったわ。

たった一人、家に残った祖母が、電気も水も止められた中で、プロパンガスで明かりとりながら、住んでたのよ。電話も止められて、どこ にも連絡つけられなくって、泣きながら、家にいた。大正生まれの強い女でも、こわかったって。あの闇がなかったら、こんなにボケなか っただろうって、詫びながら、死んでいったわ。 貧乏って、合法的な差別の中にちゃんと、存在してるのよ。だから、貧乏のが、こわい のよ。

私って、ニートなの?。違うわね。
そうね、仕事のないフリーライターなんか、ニート以下。仕事さえくれば、なんて、呪詛のように言ってしまう分、たちが悪いかもしれな いね。働きたいけど、働きたくない。好きな仕事だけしていたい。好きな仕事の中でなら、どんなイヤなことも我慢できる。パーフェクト な仕事してみせる。体温調節できなくても、ふらふらになっても、仕事はできる。

企業や男に属そうとしたことが、間違ってるのかもしれないね。でも、だれかに、どこかにすがりたい時ってあるじゃない。まあ、すがる 前にひきあげてきちゃったけれど。ニートは、親がしかたなくひきうけてくれる。でも、私には、ひきうけてくれる人もいない。ひきうけ られたら、待ってるものは、おっぱいが、ひとつしかない者は、かたわだと平気で言うような、地獄。

なんで、生きてるだけじゃ、だめ?。
おっぱいがなくなってから、いろんな人に出会ったわ。みんないい人たちだった。みんな、すっぴんの、こんな私だけを見ていてくれる。 ミジンコ以下の心臓しか持ち合わせていない、のろまの私でいいって。ただ、息だけしてるだけで、いいって。ただ、生きてるだけでいい って。

「明日から、来なくていいから」。
あの時に止まった時間は、乳がんの世界へとまっすぐと誘ってくれた。そして、多くの出会いがあった。まるで、神様と仏様にとらえられ た宇宙人のように、生きてきたみたい。越えられない試練は与えないというけど、神様、与え過ぎ。私は、いっぱいいっぱいです。石を放 たなければ、水面に波紋が産まれない。仏様、投げ過ぎ。しょうがねえなあ。

見込まれちまったんだから、言うこと聞かないと、導かれ連れてってもらわないとなあ、未来ってとこに。体温調節できないのも、私とい う人間。おっぱいないのも、私という個性。おっぱいの跡地が、象の尻のようなのも私の素材。これから、売っていくのは、私自身よ。私 自身の人生を売っていくしかない。

買うとこがあるかって?。0ではないはずよ。限りなく0に近いとしても、0ではないと、信じる。0でないと、祈ろう。

はあ。仕事。はあ。この身体。
ううん。明日、考えよう。明日行く、時間の中で。


目次・・このページの先頭


Top プロフィール 業務内容 乳ガン闘病 畠山の世界 掲示板



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送