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ようこそ、夏休み・No2



{No3}2003年4月15日更新分

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■【4月のまえがき】
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先月は、長過ぎましたね。読むのお疲れになったでしょう。反省しきりです。ナニゴトモ過ぎはいけません。4月ですなあ。毎月一人ツッ コミしてしまう「だから、○月って何なわけ?」。恋でもしてれば、楽しいのかなあ。いいの私には、友情があるもの。って、コレ読んで る友だち、連絡するよーに。畠山は、ちと寂しいゾ。『小稲葉町3−12の花吹雪』を一緒に、堪能しようではないか、皆の衆。

畠山は、30歳まで床屋をしていました。その間も、毎日セッセと書いていました。それが修行になったようです。31歳の時に、左アキ レス腱を神経ごと断裂して、まさかの転職で、初めて外のお勤めに出ました。天職でした。広告代理店で、なぜか、某新聞社の超ローカル 紙面を書く仕事(入社時の「記者と名乗るな」を、今も堅しく守っている)をしてました。お給料を戴きながら、お客様にお金を払って読 んで戴く文章の書き方の修行をさせていただきました。

そいで、初回の乳がんが発覚するちょっと前体調不良で、泣く泣く辞めました。で、現在に至る。デス。今、フリーつーか『プロ』として 書いています。動かざること岩のごとしで売り込みをしない私!?。広告(チラシ)から小説・シナリオまで、書く書く。もし、畠山に書か せてみたいなあということがありましたら、ご注文くださいませ、〜テマエミソデシタ。

今月は、『7時ごろ、まで』と『戦友』の二本です。長いけど、短いです(?)、ご安心をー。 
で、余韻というか、後で、ご自身で考えていただきたいなあという内容ゆえに、後書きは、なしです。

来月、また、お会いしましょう。
god bless you!

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■『午前7時ごろ、まで』
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最初に動き出すのはたぶん、午前4時を少しまわったころ。洗面所からじいさんたちの「ガラガラッペ」が聞こえてくること。夢の中で聞 いているのは、まだ若い患者。「もう、ジジイ。何時だと思ってんだかなあ。洗面所は6時からって書いてあるでしょ、まったく」。毒づ きながら、夢の続きに入ってしまう。次は、きっと、夜勤のナースの仕上げ作業・採血に来る5時少し前。条件反射で、手術側ではない腕 を差し出して、血は抜かれてゆく。このボーっとしている時がいい。意識のある時の大量採血は、己の病名を呪いたくなる。それはそれで 起きてしまう者もいれば、「うひゃひゃひゃ」と、笑いながら爆睡しているツワモノもいる。

ここは、放射線病棟だ。放射線病棟と言えば聞こえはいいけど、がん病棟。「死人」を出したくない、M県内各地の病院から寄越された、 がん患者たちの収容所。ホスピスと違うのは、まだ放射線に希望を抱いている者もいて、余命を信じてはいない者もいること。放射線照射 のために、一日必要な時間は、はやい人で数分、一番長い人でも30分だ。熱くもなく痛くもなく、眩しくもない。ただ肌、患部を露出し て横たわっているのが治療、一日の仕事。コバルト60は、がん細胞を殺す。正常な細胞も殺す。

めまいと貧血と立ちくらみが混ざりあった『宿酔』という症状が如実に起こる。照射以外の23時間と数十分、つぶった目の中で、めまい が起こる。だから、眠くなるギリギリまで起きている。だから、眠りの中に居られる朝は、貴重だ。だから「ガラガラッペ」は困る。わか るけど、困る。

洗面所のわきには、ダスト室がある。洗面器に湯飲み茶碗、歯ブラシに花瓶、サンダルに高そうな電気ポット。主を急に失ったモノたちが、 ごみになる。きのうまで普通に使われていたモノたちが、主に殉死する。外科での死が、お祭りだとしたら、放射線科での死は、確信犯だ。 人は静かに死んでいく。誰かがかすかな嗚咽でももらさないかぎり、静かに消えていく。 夜中、43歳の患者が、死んだ。

6時。「今日は、体重測定の日です」と、病棟放送が流れる。体重計の前が、ゆうべ消えた命の部屋だ。普通の病棟ならば、夜中のうちに 『何もありませんでした』と片付ける。ここでは、半分片付ける。『何かありました。最後の最後までがんばった命がありました』を証明 する。体重を量りながら、ここに居るかぎり大丈夫だって思う。ここの住人とこの部屋は『わたし』が生きて居たことを忘れない。

告知された時、大方の人が『花火になりたい』と願う。ややもして、誓う。「みっともなくてもいい。だれかにたかってたかって、みじめ になったって、生きられるところまで生きてやる」と。「こんな怖いこと(放射線治療)をしているのだから、ただ生きているだけでいい。 ただ息をして生きているだけでいい」。老女が、静かに仲間に言い、効かせる。

『あなたの本日の照射時間は、午後1時半から』。照射の時間は、天変地異が起こってたとしても、毎日同じだ。左のおっぱい跡地を出し て、照射ベットに横たわる。私の病名も、確かに、乳がん。

7時ごろ。レポート用紙を。16分割した紙片が配られる。毎日毎日同じ。集めた枚数が、照射した回数。毎日毎日同じ。放射線病棟こと、 3病棟の一日が動き出す。
「みんな午前中なのに、なぜあなただけ、午後イチなんだろう」
「時間が、30分かかるからじゃないっすか?」
「違います。要危険人物だからです」
「看護婦さん、それはひどい!(笑)」
「じゃあ、落ち着きがないってこと(笑)」
「そうそう。予約時間どおりに照射時間を組んでるのに、この人は逃げそうだからね。そしたら、みなさんに迷惑かけるでしょ」

 病状の重さを考慮して、照射順が組まれていることを、わかっていても誰も口にしない。

「確かに。当たりです、ソレ(笑)」。まもなく夜勤の終わるナースが、軽口をたたいて、ベットデスクの上に、紙片をすべらせる。

エアコンが、気弱な風を吹かせる。今日も雨は降らないだろう。もっとも、4階だから雨音なんて、わからないけど。病の重さ比べなんて しているヒマはない。自分のがんの重さなんか笑い飛ばしてしまえ。それが、束になった『後ろ向きの』プラス思考でも。がんを、入院を、 人生の夏休みだと思え。今日も。ひとりひとりの、そしてみんなの『3病棟の夏休み』が、始まる。

<畠山恵美著「3病棟の夏休み」にて、全文が読めます>

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■『戦友』
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私の、たった一人の戦友は、『須藤玲子』と申します。平成12年4月28日から、39歳〜40歳の時間の中に止まっています。あの夏、 私たちは、あの病院のあの病棟で出会いました。30代も二人だけ、ゾラをやっているのも二人だけ。でも、病院にいる時は、それほどデ ィープな間柄ではなかったかな。

彼女について知っていたのは、夫が1人子供が3人、それだけ。彼女が生きてきた人生も、私が過ごしてきた人生も、そんなものよりも語 らなければならないことばかりだったもの。

ショッキングピンクの靴下を片っぽだけはいて、私は、彼女から余命が出たことを知らされました。すんごくマヌケな状態で、神聖な話を 聞いていることに、情けなかったです。
「余命を聞いた時、やっぱり落ち込んだよ。でもね、不思議なの。どこか遠くに旅行に行くって気分なの。すごく高揚してるの」
「病院変えてよ。まだ何か方法があるから」
「延命はしないって、夫と決めたの」
「私は、決めてない。そんなの許さない。私に、再発かな転移かなって、これから一人で脅えてろって言うの?。あなただけ、いち抜けた するなんて、私が許さない」
「・・・。もういいでしょう。がんばったもん。こわかったもん。もう勘弁してくれたっていいでしょう」。

彼女も泣いて、私も泣いて、もうそれで泣くのは終わりにしようって、決めました。

ちょうどNHKで『あすか』が始まったばかりでね。毎日のシメに有馬稲子さんが「この続きは、また明日」と言うのです。『またあした いいつづければ ほらあした がんにはまけない あしたはつづくよ』。 それをね、私たちの、合言葉にしたの。

  暮れになって、彼女の新年における抱負を聞きました。
「台所に立って、普通に食事をつくりたい」と「箱根駅伝を、全部見る」の二つ。そうなんだよなあ。特別なことなんてないのだよな。家 族以外で、彼女の事実を知っていた人は、「何食べたい」「どこに行きたい」「誰に会いたい」と、特別あるだろうハズな要望を、彼女に たずね始めていてね。まるで、彼女が不在になったら、アレモコレモ叶えてあげた自分に酔う下準備みたいにさあ。台所に彼女が立つ時、 サポートしてやるとかさ、駅伝中のお菓子のさし入れとかさ、そんなことでいいのだと、彼女は言ったよ。

2月になって、私自身がプライベートでいろいろあって、苦境というとこにいたのです。それを聞いた彼女はね、「そんなことされたら、 私は生きていられないわ」と、電話口で泣いてくれました。同情ではなくってね。その言葉が、今でも辛い時の私を支えてくれています。

3月になって、「出された余命以上に、生きてるよね」ってことになって、「じゃあ、『あすか』の最終回まで見られるね」ってことにな って、現実に、最終回を見て「続きは、またいつか」を「続きは、また次の世界で」に変えてね。「私は、あっちで、あすかと舞ちゃんの その後を見てるから、あなたは、演じた女優さんたちの現実のその後を見て来てね」。ごくごく普通の会話。本当に、彼女が、地球儀の中 にあるどこかに行くのだと思えてたね。

・・・私たちは、毎日、「彼女の」お葬式の段取りや、子供たちに残すべきもの、そんなことを話し合っていました。残酷だって思うなら 思っていい。誰かがそういう話し相手になることは、絶対に必要だ。「夕方、車椅子で散歩してるとね、近所に南向きののいいお墓が、ひ とつだけ、サラで空いてるのよ。まるで私に、選んでって言ってるみたいでね」「ふーん。南向きだと、夏は日焼けするよ。暑いし」「私 が、おとなしく入っていると思う?」「ハイハイ、うちにも、来てくださいね」「もちろん、行くわよ」。そんなこと。長男の卒業式にも 出られたしね。そこで、噂で彼女の病を聞き付けた同級生のお母さん方が、「お身体、お悪いのに」とかなんとかオタメゴカシやったらし い。長男の卒業式に母親が出て悪いのか。彼女も、私も怒ったね。 

「ホスピス入ろうと思うの。迷惑かけたくないから」
「キレイなお母さんのままで、逝こうって魂胆だ。ここまで家でがんばったんだから、家ではダメなの?。近くに、痛みを止めてくれるつ ーか、往診してくれる医者いないの。お母さんが、最後までがんばった姿を見せて、わけわかんなくなってから病院に行っていいんじゃな いの。ホスピス反対!」

・・・この提案が正しかったのかは、わからない。
ちょうど介護保険が始まった月で、まだ誰も使っていない医療用具(ベットとかマットとか)を、彼女の住む町では40歳以下には、無償 で貸してくれてたの。私、町民でもないのに、電話でお願いして手配した。往診(モルヒネ)は、彼女が小さいころからかかりつけにして いた医院が引き受けてくれたし。

「ねえ、泊まりがけで、会いに来てくれる?」。
彼女の申し出を、私は、「その日は、俳句会」って、断ったの。それは、一生後悔。その日、遅い桜の開花宣言があったの。「ねえ、お釈 迦さまは、何の樹木の下でお亡くなりになったの」。 これが彼女の最後の問いになったの。

4月28日、この日の午前中から、桜が散り始めたの。咲いてから散るまで、たった2週間だったの。
夜、TVで映画『学校3』が放映されてました。(私、中島みゆき歴27年なんだけど)エンドロールでその主題歌が流れ始めたら、なん だかボロボロ泣き始めてしまってね。悲しくも泣きたくもないのに、泣けるのね。ずううっと泣いてたの。「明日からゴールデンウィーク だから、彼女に会いに行こう」。

かなり悪いけど、家でがんばってますと、彼女のお母さんに聞いていたけど。そう思いながら、泣いてたの。29日、午前8時。 「玲子 の夫です。玲子、きのうの朝、逝きました。27日、わけわからなくなってから、病院に入れて、一日は持ちませんでした。苦しまないで 逝きました」。ああ。私たちに、明日はなかったのだね。「また、明日」を合言葉しても、今日できることを今日して、積み重ねて、明日 になるのだね。きのうの涙は、彼女からのサジェスチョンだったんだって。

「死ぬのはこわくないの。でも、忘れられるのがこわい」。
そうだね、人は、忘れていくイキモノだからね。「でも、あなたが書くものの中では、私は、絶対に死なないの。約束して、私は、あなた の作品の中で生きているって」。

・・・今回、私情な文章です、『戦友』。プロの文章じゃない。申し訳ない。でも、BS社の読者の方々の中にも、「須藤玲子」あなたは、 今から生き続けるのだよ。この前、あなたの夫と、「インターネットの中で生きるって、すごいよね」って話したばかりだよ。彼女はね、 やっぱり、あの南向きのお墓に入ったの。でも、中に居ないことは、家族も私も承知しているの。

うちには毎晩来てます(笑)。あーでもないこーでもないと、寝る前に話します。私が二度目の乳がんの時も、彼女は、ずうっと手を握っ てくれたしね。今年の正月明け、私はちょいと苦しい時期があって、かなり自覚できる自堕落さでした。したら枕元で正座されて「今の畠 山さん、嫌いです」って、突っ込まれて、立ち直れたしね。

『学校3』の主題歌、『瞬きもせず』はあまり売れた曲とはいえないけど、だから、BGMになる確立、BGMで聞ける確立は低いはずな のに、私が人生に戸惑ってる時、ふっと流れてくるの。「うっ、須藤さん、いるですか」って、私は思うの。私は、炭酸系は苦手なのだけ ど・・・彼女が「コーラじゃもう喉を通らないけど、炭酸飲みたいの」と言った時、微炭酸のものが出てるよって教えて、最後まで飲んで た炭酸飲料・・・それをね、苦手な私が、時々欲して飲むようになったのね。この欲するところに、彼女はいるって、思うの。

お釈迦様の樹木は、「菩提寺」からもわかるように、「菩提樹」でした。「菩提寺」の和尚さんがおっしゃってたの。「彼女は、桜になっ て、毎年、あなたのそばに帰ってくるよ」。うちの前には、一本だけ桜があるの。私は、その桜に、彼女の姿を見ています。私は、彼女を 書く。あの夏をともにくぐりぬけた、戦友、須藤玲子を。

♪あのささやかな人生を良くは言わぬ人もあるだろう
あのささやかな人生を無駄となじる人もあるだろう
でも僕は誉める 君の知らぬ君についていくつでも
<中島みゆき:『瞬きもせず』>

あなたにも、きっと戦友がいる。信じてる。

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{No4}2003年5月15日更新分

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■【5月のまえおき】
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洗濯日和のG.W.で、もう洗濯するものがなーい。まあ毎年のこと。5月5日に、一心堂の柏餅を食べて、連休の終了を知る。柏餅は絶対、 古川の一心堂に決まりだね。あんこ玉もオススメだよん。

ってことで、今月もよろしく、畠山です。 先日、地蔵様のおまつりに、早朝行ってきました。近々出産予定の若い友人に安産のお守りを 買おうとしたら・・・早朝過ぎて、まだ準備ラストスパート中の売店のオバちゃんの手がハタと止まり・・・「妊婦(ニンプ)?」「うう ん、でぶ」「ふーん」・・・お守りは売ってもらえましたが、「でぶ」と即答した自分の口が、カナシかったっす。

若い友人が結婚したり、お母さんになったり。なーんかね、うれしいんですよ。なーんかね、ありがとうねなんですよ。 まあそんなこんな で、『欲しい1冊』と『勝者なんて、いない』の2本、始めまーす。

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■『欲しい1冊』
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乳がん本を見て、参考になってますか。少なくとも、乳がん一回の人は、168ページくらいからしか(って187ページでもいいですけ ど)いらない場合、アリアリですよね。 だって自己発見法や病院で初期に行う検査とかでしょ、そこまでは。それって、既に体験してる もん、何をいまさら。『マンモは、死ぬほど痛いんじゃあ〜!。検査技師は容赦ない女性よりも、少しの痛いで挟むのを勘弁のしてくれる 男性を指名って書かんかい!』。なりません?、私はなりました。

そいでも、乳がん本を読めるようになったのは、丸1年を過ぎてからだったと思います。なんか自分がどういう流れで進んできたのかの確 認のために。そうして、2回目なってしまいました。したら、役にたつどころか、こわくて読めない。一応病院に持ち込んだものの・・・ せっかく1ページ目からフル活用できるつーのに、見る気も読む気もしない、のはいったいなんでだったのでしょう。

で、私は考えた。「患者にわかる言葉で書いてないから?」。いや、患者自身が書いた乳がん本もある。私は、それも受け付けなかった。 「患者のプロになり過ぎている」。医療の状況を詳しく突っ込んで書き過ぎて、偽医者状態になってるつーのかな。乳がん本を出している 人、申し訳ありません。だって、そう思ったんだもん。

患者が本当に知りたいことが書いてないのですよね。 例えば、1回目の手術以降『太っちゃダメって言われるのは、どうしてか』。中性脂 肪値が高くなるとか、動きが鈍くなるかなんかだなって考えていました。そんで、太っちゃいました。15キロ・・・。 なんだかんだ言っ ても1回の乳がんで逃げ切る人、逃げ切れた人は、太ってダメじゃないのです(でも無駄肉は落としましょう)。

コレって、二度以降の人に対する注意みたいなのです。二回目が、全摘と決まった時、ちょっとだけラッキーって思いました。だって、痩 せてたら、背中や尻の皮を剥いで、患部をパッチワークしなければならないって聞いていたから。太って、皮は、たくさんあまってる。だ から、他からもってくることはない・・・『ブー』。太り過ぎると、皮が余り過ぎて、ギャザーをよせねばならぬというか、食パンの耳つ ーか、象の尻状態の患部の仕上がりになり、美しくないんだなあ。ガックシ、私の右胸。 医学的には正しくないかもしれないけど、説得力 ありません?。ただ太ってダメよりも。

もう一つ。『むくんで、ダメはどうして』。これは何度でも共通のことです。 むくむと、苦しいですよね。腕をスパッと取ってしまって、 脱水機に入れてえと、マジ思いますよね。市販のサポーターも、自分の腕に合うまでが、たとえ1週間でも、苦しい。初回・左温存の時は、 突然肩が重くなり引力に逆らわなくなりました。むくみとは知らず、気合で翌日、障子貼りをしたら治りました(ずっと、腕を上げてたか ら?)。その後も時々なったけれど、「四十肩」という診断で(正式名称、左肩関節なんとかかんとか炎は覚えられず「四十肩」に甘んじ たっ)、3年ほど過ごした次第。

しかし、二度目、右全摘の時は、ダイレクトに来て、しくしく泣きました。このように比べられなら、わかる。術後8カ目のことです(す ぐ出る人もいれば、20年過ぎて出る人もいるらしい)。マッサージ、暇をみて一日何度も風呂に入れ、湯治しろ・・・そんなこと言われ たって、苦しいのをすぐなんとかして。で、ぢの末端血行促進剤のエスベリベンを出されました。あまり効きませんでした(先生、すまん)。

むくみで悩む(むくみ外来まで行った)仲間に手紙を書きました〜むくんだって、マッサージすればいいじゃん!とかと、ずっと邪険にし てたのに〜。ソッコーで返事くれました。いい人です。ただむくむだけなら、問題はない。むくんでパンパンな時に、微細な皮膚からばい 菌が入ると、ほうかしき炎になる。私たちは、リンパをとっているので、ばい菌が、ダイレクトに心臓直撃の場合もある。危険だ。

ちなみに、彼女の場合、年に3回くらい、鼻水も喉痛もなく、40度以上の熱を出す。その場合、すべての用事をなげうって、抗生物質を 飲み、頭を冷やし、3日寝ていて治すそう。だからか。土いじりする時は軍手をとか、指先のケガに注意とか、日焼けは避けるとか、退院 してからの手引きに記載されてたのは。そんな、ヤバイことになるなんて、説明ないですよね。だから・・・危険性や自己防御がわからな い。

例えればもっとあるんですけどね。そういう日常の、かつ、もう通院の際に聞いても「いまさら、何?」ってこと多くないですか。だから そんなことが載っている乳がん本が、欲しい。多くの乳がん仲間の素朴な質問と、体験にまつわる「私はこーした」つう回答。そしてそし て、せっかくブレストサービス社、我らが『宮内充』先生の医学的根拠と監修。そんなでまとめた、乳がん本があったら、すごくステキだ と思いません?。

確かにHPでも出来ますけど・・・すべての患者がHP読めるってわけじゃないから、本よ、紙の本で販売ってことです。ここは『宮内』 代表に、ドッコイショって立ち上がっていただくべく、お願いしたい人、この指とまってくださーい!。私は、2冊買ちゃうな。河村さん、 予約よろしく。◎この企画パクっても、もう著作権はBS社にありますから、アシカラズ。

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■『勝者なんて、いない』
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歌手のCさんが、乳がん手術をして5年間生存したってことで、テレビ雑誌マスコミ総出まくりしてたころのことです。「Cさんって、が んの勝者なのかしら」。乳がん仲間の一人が私に問いました。5年生存説、10年生存説、その他いろいろともう大丈夫時期説はあります ね。でも、それって、生きている時間だけのカウントですよね。生きている質のものではないです。

Cさんは、温存らしかったので、放射線照射をなさったとのこと。ある時、声も歌詞も出なくなって、パニくったらしいです。それでデビ ュー30数年目にして初めて、ボイストレーニングを受けたとかとか、雑誌に書いてありました。「一人の乳がん患者として5年生きられ たことは、喜ばしいことだと思う。でも、歌手としての彼女は、勝者だろうか」。

私は、そんなふうに答えたと記憶してます。 Cさんを否定してるのではないです。ボイストレーニングは、彼女のこれからの歌に、新し いものを誕生させるってことだから。乳がんになったからこその逆転の発想です。ただ、何年生きたから、何年しか生きられなかったから っていう報道に、どれだけの私の仲間たちが、一喜一憂しているかなのです。 「がんを克服したヒロイン」を作ってくれるなってことで す。

そもそも克服ってなにさ。 インフルエンザを克服した体験談ってないと思うし、水虫からの生還も聞いたことないし。がんだけ特別なんて、おかしくないですか。< ここの箇所、タイトル失念:ある本からの疑似表現です>

告知された瞬間は、打ちのめされた気持ちになるし、未来も夢も見えなくなくなったりするけど、どっこい、生きてるものでしょう。あな たも、そして私も。早期発見、医学の進歩、発想の転換。がんは不治の病でなくなりつつあると思うのです。確かに、乳がんは、身体の表 面に見えるからって意味で、リスクは大きいです。けど、再建もあるし、パットもあるし、もちろん胸帯でがっつり守ることもできる。あ とは、その人なりの生き方の問題になると思うのです。

私は、初回の時『今日をきっちり生きる』と目標を定めました。・・・きっちりの意味は「朝“おはよう”を言う。朝ごはんをしっかり食 べる。夜“おやすみなさい”を言って眠る」。たったこれだけのこと。ムズカシイきっちりではないでしょう?。その積み重ねが、明日に なって、きっと未来になっていくのだろうって思いました。

一度捨てた、あきらめてしまった夢をもう一度手にするのは、そう簡単なことではなかったです。けれど、再び形を変えてでも得ることは できる。それが『今日をきっちり生きる』ってことなのかも。あなたと私は、同じ乳がんですけど、決してすべて同じな乳がんではありま せん。乳がんという種類が同じなだけです。例えば主治医が同じでも、手術方法や縫い目や治療法や副作用が、きっと違います。違ってい てこそ正しいのです。

だから、タレナガシのような報道で、傷つかないでください。誰かの乳がんと自分の乳がんを比べたりしないでください。あなたが充実し て生きてるなと思ってたら、あなたの生き方が正しいのです。自分の乳がんと共存して、上手に生きているのです。私は、左が6年目に入 ります。右がやっと2年目です。

どちらの発見・発病も5月でした。だから、今5月であることが非常に苦痛です。なにも起こらないだろうけど、こわいです。許されるな らば(って、誰に?)、エンエン泣いていたい気分です。口では威勢のいいこと言っていても、今の時期の私の心臓は、ミジンコ以下です。

でもねえ、6年も2年も生きてるんだなあ、これが。泣いてもわめいても、生きられてるんだなあ、これが。命って脆いけれども、命って たくましいのですよ。自分の命ながら、スゲエなあって思う瞬間がたくさん見えるのも、また5月だったりします。久しくカラオケにも行 ってませんが・・・歌手じゃなくってよかったって思います。

私は「ブレスがない」のが特徴の中島みゆきさんのうたを、持ち歌にしてるんですが、「時代」なんて、途中で声がハタリと止まる。素人 だけど、悲しいです。そん時、Cさんのことを思うのです。紅白でうたえなくなって、テレビいっぱいなんともいえない泣き笑顔で映って いた場面を。その翌年に私は乳がんになりました。もし乳がんになってから、あの場面を見たとしたらどうだったかなって、思うのです。

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今月も読んでくださって、ありがとう。

両祖母が逝ったのも、アキレス切ったのも、大失恋も、両乳がん発見も告知も、5月31日と6月8日だったりします。

今年の『「5月31日」は、なんでだか竹野内豊が古川を歩いていて、私と電撃的に恋に陥る。そんでもって、えーいって「6月8日」に これまた電撃的に結婚する』予定になっております。

いえ、私は、竹野内氏の強烈なファンではありません。『笠智衆』氏や『郭泰源』氏(元・西武ライオンズ)のファンです。竹野内氏は、 見ていて美しいですよね、一家に一人欲しい。もう去年から言い続けて、友人・知人は聞く耳持ってくれまっせん。フッフッフ。可能性は 限りなく0に近いけど、0ではないもん(笑)。

もうね、病関係は、この両日にいらない。もう『寿』が来ないと人生プラマイ0にはならんぞと思う次第です。思う決意です。BR> さて、どうだったかは、6月に、ご報告しますね。

実は、かなりこの両日にびびっている畠山なのであります。BR> よろしかったら・・・この1カ月、あなたからのエール・・・どうぞ、よろしくお願い致します。BR> じゃあ、また、来月。

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{No5}2003年6月15日更新分

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■【6月のまえおき】
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梅雨ですね、今月もよろしく、畠山です。
あー、竹野内氏は、なんか沖縄の方で、携帯持って歩いていたみたいですよ。だから、古川には来られなかったみたいです(笑)。うーん、 『寿』はですねえ、左6年・右2年の検査がパスしたということを持ってかえさせていただきたく存じます。・・・でも、正直、5/30 〜6/8は、去年ほどではなかったですけど、こわかったです。でも、それを充分わかっていてくれた人たちに支えられました。もちろん、 そっとしておいてくださった方にも。ホント、おかげさまです。ありがとうございました。

『寿』は、来年は、妻夫木くんで仕切り直ししたいと・・・まだ言うか!って、とこで。 今月は『愛しのゾラちゃん』と『ナカナイデ恋 心よ、って、泣くもんかい』の2本で、いきますわよー。

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■『愛しのゾラちゃん』
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6月16日、私は、ゾラデクスを打ちます。通算50回目。左の治療で25回、今回・右の治療でも25回でしたね。そう、これが、最後 のゾラデクスです。

「手術が終わったら、生理を止める注射すっから」。ゾラに対する事前の説明は、きっとこれだけだったです。「術後に胸が張ったら、傷 痛いし、2−3カ月は生理止めてもらおう、ラッキー」。私も、こんなもんでした。1回目のゾラは、外科から放射線科に転病棟する直前 の、すっごくあわただしい中で、打たれました。「腹?」。肩やお尻はあっても、腹に打つっていうのが、衝撃でしたね。

「で、生理は、いつまで止まってるんですか」「ずっとかも。たぶん、戻ると思うけど」「へっ?」。私が、泣きながら病棟を移ったのに は、こんな最終会話があったからです。今今考えると、治療ですもん、がんとバトルしてくれるのですもん、あたりまえの話です。でも、 ショックだったあ。「たぶん、戻る」は、33歳で『アガル』ってことじゃないっすか。しばらくは、母にも伝えられませんでしたねえ。

「10回打って、あがってしまったよ」。放射線病棟の30代の仲間が言いました。「ゾラって、生理が全盛の30代まで限定だから、命 助かるならしょうがないよ。でも、戻った人もいるから、そん時に考えればいいさ」。「・・・」。身体は、定期的に「生理になろう」と しているのに、ゾラがそれを止めている。それは、すぐにわかりました。1回目のゾラから10日余りで、生理が来るはずだったのが、来 ない。腹は生理痛なのに、下からは、オリモノとは違う何かが出てるのに、生理じゃない。私、生理中は元気になるほうだったですけど、 わけもなく哀しかったです。

都合、国立仙台病院でのゾラは、3回打ちました。3回目の時に「1本の単価が7万8000円くらいで、保険がきいても2万円越すから」 。これも、ガーンでした。でも、なんだかんだ言っても、人間というのは順応性があります。生理が止まって半年、クリスマスのころには、 生理のシステム忘れてましたから(笑)。夢で、茶色い何かを、必死に拭いてる私がいたんです。母にその話をしてるうちに、「あー、も しかしたら生理だったかな、ハハハハハハ」。母は、泣いていました。その日は、7回目を打つ日で、主治医:啓ちゃんにも言ったら、彼 もとてーも悲しい顔をしていました。

左治療の打ち最終回は、6月14日でした。国内3例目かの脳死移植が、古川市立病院で行われていた日です。うちの病院は、市立の近く です。道こんでるし、ヘリコプターバンバン飛んでるし、うるさいなあと思って、打って帰ってきたら、そんなニュースでした。それから、 1年1カ月と27日して、生理が戻ってきました。

右も、ゾラでの治療でいこうと提案されました。でも、毎月の医療費のことを考えると、即答はできませんでした。 「お子さんを、お望みでしょう」。  主治医の方が、一生懸命でした。2年またゾラ打って、1年ちょっとで生理が戻っても、その時私は、41歳。お望みでも、42歳でし か出産できないよー。その前に、相手いないし、よう。でも、その心遣いに、涙が止まりませんでした。

左の時の主治医、デイリーフォローの主治医:啓ちゃん、その弟で同級生の光ちゃん(乳がん・大腸がんの遺伝子治療の研究をしていた) も、みんな「ゾラでいけ」と勧めてくれました<って、国立仙台グループですから、見解は同じ?なんだろーな>。左の時は、左腹側中心に 打ちましたので、右は空いてたのでございます。まあこれまたラッキーと思っていたら、右卵巣がハレてるってことがわかって、因果関係 はないけど、卵巣をそっとしておきたくて、結局また左打ちになりました。左だけで40回は打ってますね。もう打つとこありまへん。腹、 ボコボコです(ウソ)。

50回も打ってるのに、私は、ゾラをちゃんと見たことないのです。すっごく不思議なことですよね、それって。だから、50回目のゾラ は・・・じっくり見せていただきます。また、医療法にひっかからない範囲で、記念に箱とかいただく約束をしています。もち、飾ります。 飾りケースも買いましたもん。

もう、ゾラを打てる年齢ではなくなりつつあるし、打つところもなければ、打つお金もない。だから、本当に最後の最後になるゾラです。 なーんか、とーってもさびしいような気がしますけど、ゾラが生かしてくれてたんだから、私はこの先、ゾラなしでちゃんと生きていかな きゃなーなんて、思っています。

戻るかどうかは微妙ですが、3回目の『初潮』経験できるかもしれませんしね。・・・したら、せっかく出産を想定してくださった先生方 に、子供の顔見せなきゃ、か。かなり私の40代は、いそがしいぞお(笑)。私の腹にある、注射跡50個は、誇るべき勲章です。冬にな って、疼痛が起きたら思い出すことでしょう。愛しのゾラちゃん、本当にありがとう。

<8月更新分くらいから「ウスカワはぐようによくなっていく身体をお知らせできるかもしれません>

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■『ナカナイデ恋心よ、って、泣くもんかい』
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初回・左の時、33歳の私は、独身・30代の患者さんと話がしたくてたまりませんでした。やーっと探していただいて、お話しできた方 は、39歳の方でした。話をさせてもらったくせに、申し訳ないのですが、「さびしい人だな」と思いました。乳がんについては、全部自 分一人の心にしまい込んでいる人でした。彼女も独身の話し相手を求めて求めて、私としゃべるまで数年かかっていました。その間の時間 が、彼女をそうしてしまったのかと、思っています。

すべてのことを「ふっ」と否定的に笑って、「違う」と言います。今自分が肯定していたことまで、即です。「へー、あなた、こんな身体 になっても、まだ結婚しようとか、子供産もうとか希望持ってるわけ、ふっ」。私は、39歳になっても彼女のようなさびしさを持つまい と決めました。彼女と話したのは、それ1回きりです。そして、私は、今39歳です。

ある時、まず「すいません、私、乳がんなんですけど」と、初対面の男性に言っている自分に気がつきました。乳がんは、事実だ。でも・ ・・どうして「すみません」なんだ?。どうしてあやまっているのだろう、わたしは。どうして、この男性にあやまらなければならないの だろう。そう憤りました。

ある時、若手有望漫才師の関係者から、「あなたなら、おっぱい1個で何悪い!と、決めぜりふで笑かせられるのでしょうね」と、妙なほ められ方をしました。その方の言葉に悪意はなかったのでしょう。・・・でも、そこまではまだ、ひらきなおってねえぞ。かなり悲しかっ たです。

ある時、私は高熱でフラフラになって、病院で点滴を受けていました。そんな中でもトイレには行きたくなります。倒れそうになったので す。すかさず婦長さんが支えてくれました。手は胸に。「何するんですか!」。一人で立ってられないつーのに、支えてくれる手をものす ごい勢いで振り払いました。医療関係者に、ふいに触れられてもこういう状態なのに、とーっても大好きな男性でも「やめろー!、さわる なー!」と暴れてしまうだろうなあと、思いました。

近々、私は、恋についてちょっと悩みました。恋をしたのではなく、恋をする前の心構えの段階です。恋をしてからでは、アバタもなんと かで、相手の行為や言葉を良い方に解釈しまくってしまいますからね。恋をしてから、私の人格や言葉遣いを責められても、なんとかでき るけど・・・乳がんやおっぱいのことをヒキアイに出されたら、どうしようもないですから。もちろん、さけて通れる問題でもないですけ ども。

日本人って表現方法がいっぱいあって、その言葉のニュアンスでわかれって『粋さ』がありますね。でも、私は『野暮』でも、アイラブユ ーとアイライクユーという単純な言葉の方がもういいです。イエスかノーでいい。私自身がかなりわかりにくい言葉を多用しているので、 そうじゃない人。言葉で私をやっつけない人(もちろん暴力は問題外)、しごくわかりやすい言葉で私と共に歩いてくれる人。もう「恋心 で泣いてる」場合じゃない。

乳がんになったことも、右乳房がないことも、左乳房には迷路のような長い傷痕があることも、あやまらない、それが私だから。

まあまあ、こんな中途報告の答えを導き出すまで、2カ月くらいかかってしまいました。だから、たぶん、まだしばらく恋はしないと思う のですがね。

私は、記録用におっぱいの写真を定期的に撮っています。いつか発表の場をと考えてはいますけど、日常ではお見せする必要もないですよ ね。ので、しまっています。でも、4歳の甥がそれを見てしまったのです。子供には、まずかったかなと思い、声もかけずに様子を見てお りました。普段は散らかし放題の甥が、写真を元あった場所に丁寧に片付けました。そして、私の肩を支えて「えみー、がんばれよう」と 言いました。

甥は、よくわからなくても、あるがままの私の身体を受けとめたということでしょう。私は、この甥のような気持ちを持ち続けている心が 大人な男性に、恋をしたいですね。

私も、完璧にさびしくないと言ったら、ウソになりますけど、今少なくとも「さびしい39歳」では、ないです。あの時の彼女は、どうし ているでしょう。考え方も、恋も、病も、人それぞれの生き方だけれども。

今月も、お読みいただきありがとうございました。

梅雨寒は、案外、患部にしみいるものですので、暑いけど、温かくする工夫をなさってくださいね。

今月の私の予定は、梅干し作成です。ゾラで生理が止まっているみなさん、今、梅干しを作ると、もれなく美しい色になります。「生理の 時、梅干し漬けると、赤い色つかない」(by畠山さくゑ:祖母)。私は、梅干しで1回目を乗り切らせてもらいました。手間暇かけられ るのも、療養と言う名の暇があるからであって、人生にこんな時間持てるのは、あまりないですもん。

それに、梅干しを漬けられるってことは、この時期、入院していない体調の証しですもん。引き続き、梅シロップや南蛮みそや紫蘇パウダ ーなどの作成に入ります。あと夏畑の作業です。いやあ畑というのもおこがましい土地です。土地がないならプランターでもいいです。ト マトの剪定を終えて、西の空が朱くなると、いろんな「ムカツキ」がどうでもよくなったりして、なかなか心にもいいですよ。

ではでは、来月また、お会いしましょう。もう、梅雨明けてるかな。

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<おまけ:実録・当日のゾラちゃん>

6月16日、私は朝から不機嫌デシタ(理由は、単独体でアレコレあるのですが、それは、またいつか)。 病院の予約は、17:15に取ったものの、どうにもこうにも行きたくない。ただ、ゾラデクス打ってくればいい、この2年の毎月のこと なのに、行きたくない。

少し早めに出て、郵便局と市役所と、ちょっと買い物と家を出たものの、郵便局から戻ってしまって、畳んである布団の上で、涙。そう いえば、1回目の時も、勢いよく自転車で家を出たはいいが、ちょうど中間点の公園前で引き返して、1日遅らせたのデシタ。

これでお仕舞い、と、「このゾラが切れたら(7月中には効力がなくなる?)、あとは自己努力なんだよなあ」、と、ゾラという私の6年 間の相棒との別れと、ゴチャゴチャになって、静かな涙でした。 明日でもいいやと思いつつ、ベソベソになりながら、タクシーで病院に行 きました。

緊張して、腹は水分も固形物もギュルギュル言ってて、出てました。 17:35、診察室5番。貴重品を保存する陳列ケースを出して、 ついでにカメラも。

先生も看護婦さんも、実はノリノリ。まさか、記念写真撮りたいと言うとは思わなかったよう。だって。打ってるとこ見たことないもん。 放射線だって、終了記念写真撮ったら、2回目の時は必要なかったし(選択がなかったともいう)、ドレーンの写真も撮ったけどもう二度 とドレーンのお世話にならない気がしてるし、だからさ。

自分で撮るのは、腹筋を使うのでやめました、当然。先生はピースです。看護婦さん、必死のアングルです。きっと撮られなかったけど、 先生注射器自体離してプラプラの瞬間もあったな。みんな、ニコニコ。 ちゃーんと、いただけるものはいただいてきましたよ。これが、 17:40のことです。

通算50回で、初めて痛くなかったです。まあ、明日になれば、それなりに疼痛がきて、湿布な腹になるのだろうけど、痛くなかったこと に感謝です。 最終回のお金は、友人の本当に、義理じゃなくいただいたお見舞いのお金で支払うことに決めています。前回の時もそうで した。最後のゾラが、一番効くように思います。

あああ、終わってしまったな。治療が終わったわけでも、経過観察が終わったわけでもないけど、終わったな。みなさん、どうもありがと う。

今の私は、笑顔がまだ出ませんが・・・。
私は、みなさんとゾラのために、いっぱい生きるからね。
ありがとー。

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{No6}2003年7月15日更新分

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■【7月のまえおき】
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「今月から、医者代はかからないぞ。シメシメ」と思っていたら、左親指を毒虫に(たぶん)かれてしまって、腫れてビックバーンになっ て通院を余儀なくされた、畠山です。すいません、いろいろ起こしてしまう人生で。治療しても所要時間30分で帰って来れるのですが、 350円の治療費に、往復タクシー。この6年、仲間からの「手袋して(家事)やりなよー」の助言に耳傾けてこなかった私は、猛反省し ました。

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■『放射線とハンコ板』
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医者代よりタクシー代より、ビニール手袋のが安い。健康無事に、ビニール手袋!。ってことで、今月は『放射線室とハンコ板』と『その 人』の2本でいきます。よろしくう。

6年前と、今年の暦の曜日配列は同じだ。
6年前の7月15日も、火曜日だった。私は、午後から、地下にある放射線室で、シュミレーションを受けていた。「温存だから、放射線 ね」。手術前から決まっていたけど、実のところ、放射線って何だった。「お年寄りには、いい電気かけでけっから」とだまして照射する 場合もあると、ナニゲに看護婦さんが言っていた。

「熱くも、痛くも、苦しくもないです。ただ、ここに30分寝てれば終わります」。 売店で立ち読みした本には、照射時間は数分とあっ た。けど、30分?「マズイのか、私」。本にあったのは、リニアック(ライナック)の時間で、私はコバルト60だったのだ。コバルト 60と聞いて、百恵ちゃんの「赤い運命」もそうだったなーと、安心した。いや、あれは安心するドラマじゃなかったけど。

正直、手術の前日よりも緊張していた。私は、パニックディスオーダーも持っているのだ。パニックの前兆にトイレ(小)が近くなる。5 分で3回行って、普通量出せと言われたら出せるくらい、近い。30分、オシメがいるなと思った。でも、ここで逃げたら、逃げても、が んは伴走してくるから、逃げてダメだと。そんなこんなで、16日午後1時半に、第1回目の照射は始まった。1週目が3回。海の日が入 ったので、2週目は4回。3週目から、週5回。何事にも適応が遅い私には、ちょうどいいプログラミングだった。一度遅刻して(トイレ から出れなかった)、技師さんに「いやなら、照射しなくていいよ。退院延びるだけだから」とイケズを言われて泣いた。

  当事者の私より、もっと放射線について知らない母は、「一日に1時間かけたら、早く退院でぎるべっちゃ」と伯母に言ったらしい。「広 島と長崎のこと、思いなさい!」と伯母に叱られたらしい。それを聞いて「そっかー、ヒロシマとナガサキなんだ、放射線って」と私は、 背筋がシャンとなっていく気がした。

広島の日くらい、照射休めばいいのにと思ったけど、治療はみんな予定通り行われていた。長崎の日は、土曜日で休みだった。その日から 私は、めまいとたちくらみと貧血で、午前中病棟から出ては禁止令が出てしまった。

自分の身体が、自分のものでなくなっていくようで、泣いた。
「こんなにこわい想いをしているのだから、生きているだけでいいの」。
同じお部屋のミナカワさんが、くりかえしくりかえし私に言ってくれた。

ちょうど夏休みだった。病院の前にある郵便局では、ラジオ体操のハンコカードを配布していた。看護婦さんが、そのカードにピンクのリ ボンをつけてくれて、私の首にかけた。「これ持って、放射線室行きな。技師さんには、これにハンコ押すように頼んでたから。そしたら、 少しはハリアイが出るでしょう」。臆病くされの私に、目標も持たせてくれた。8月20日になったら、25回・50グレイの照射が終わ る。ハンコカードの空欄が毎日埋まっていく。

放射線室のある地下には、どこにも出ていかれない風が、うなりながら吹いている。4階の病棟からハンコカードを首にさげ、私はその風 を突っ切って、放射線室にたどりつく。8月20日午後1時45分に、照射は終わった。FMラジオの番組に「がんばった、私に」ってリ クエストを書いていて、ちょうど読まれている最中に、終わった。それを聞いて、技師さんも看護婦さんも泣いた。私は、絶対に25回か けきれないと、みなさん予測していたらしい。もちろん私自身も。

コバルト60の機械前で、記念写真を撮った。現像して初めて、機械の上部は丸いものだと気がついた。25日も通ったのに、部屋のもの を見る余裕がなかったのだ。

2年前、右乳房への放射線照射は、お断りした。全摘をした。地下の通路を通ったとしても、放射線室には入らなかった。あの部屋は神聖 な場所だ、入ってはいけない。相変わらず、どこにも行けない風がうなっていた。外科から放射線をかけに行っている人がいた。彼女を見 ているとその一日一日の具合悪くなり方が、私のそれと同じだった。おしゃべりな私が、めずらしく彼女の明日に起きるであろう体調は、 言わなかった。放射線は、体験して初めてわかるものだから。

6年前と同じ暦の曜日配列を追っている。私は、6年生きている。6年いきられた。
そう、そんな6年を生きてきたのだ。

あなたが今、放射線病棟や放射線室に行く時、よかったら、ラジオ体操のハンコカードをお持ちください。ピンクのリボンをつけて。

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■『その人』
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診察室のカーテンを開けると、その人は、唸っていた。レントゲンボ−ドにも机の上にも、沢山のレントゲン写真があった。追いかけるよ うに「母です」と、カーテンが開いた。「お母さんは、(入ってこなくても)いいから」と言うと、母は怒った。「いくつになっても、親は 心配なものですよね。僕もそう言われたら、怒るよ」。その人は、静かな声で言った。

姓しか知らないも同然のその人について、私は二つのことを知っていた。一つは、本当は、この大病院の院長であってもいいの器の人だと いうこと。しかし、院長になってしまうと、一人の医師として医療にかかわれなくなくなるからと、長年、外科部長の道を歩まれていると いうこと。それは、とっくに定年になった検査長から、繰り返し繰り返し聞いていたことだ。

それから、もう一つは、4年前のその人の言動だ。火曜日の外科部長回診で、私の左乳房温存手術の傷跡を「芸術的だ」と絶賛する不思議 なオジさんという姿。オジさんがかがんだ。ドレ−ンを抜いて、ついでに、抜糸もしてしまった。手術日から換算しても早かったようで、 おかげさまで、抜糸跡から体液が噴水して、私的には「キャ−」になった。でも執拗に「芸術的だ」と認めてくれたおかげで、迷路のよう な傷跡も4年の間、自信が持てた。

マンモグラフィを撮って、採血を済ませてまたその人のところに戻った。別室で、細胞針を受けた。空の注射器を、右乳首に刺して、ポン ピングをされた。「紹介状の検査結果に間違いはないと思うけれど、僕には、これを乳がんと認めるなんてできないなあ。う−ん、う−ん、 どうしてかなあ」。どうしてかなって、問われても、患者にはわかりませんて。

「君、初診の状態がカルテにないんだけどどうしてかなあ」 「洋服着て診察受けに来たのは、今日が初めてです」。

4年前は、まだこの病院に所属していた、地元の主治医が入院の段取りをしてくれて、初めて来た日が、入院の日だった。

「君、キムラケイジ君の紹介で、受付飛び越えて来た人だね。思い出した」 「その節は、すみません」 「いや、いいんだよ。そういう入院の仕方があってもいいんだよ」。

さっきの母の件にしてもそう。その人は、私を責めなかった。むしろ、緊張をほぐすような言葉を選んでいるようだった。4年前、そんな いきさつで入院・手術をしたのに、早く検査結果が知りたいだけの理由で別な病院に行き、再びのがんを信じたくなくて戻ってきた私を、 責めなかった。

「先生、そろそろ終わりにしてもよろしいのではないでしょうか」。

年若い看護婦が、声をかけた。考えてみれば、その人は力一杯ポンピングしている。けっこう心臓は、バクバク。

「あと、1分」。 「がんじゃない場合もあると思うよ。僕は、これをがんとは認められないなあ。とりあえず、入院してみましょう」
「左は放射線でつぶしましたよね。その時もうならないって、鎖骨だけチェックしてなさいって言われて、4年きたんです。それなのに、 左に3回目があるって言われました」
「失敬だなあ。僕も中村先生も99%左にはならないように、放射線をかけたんだよ。心配しないで、大丈夫」
「よかった。・・・でも、右、全摘ですかねえ」
「この4年の医学の進歩はめざましいからねえ。入院してから、専門の先生とみんなで相談して決めよう」。

がんを告知した病院での選択は、全摘しかなかった。みんなで相談しようなんて言ってくれなかった。

「それにしても、君はすごいね。前回も今回も自分で発見したんだろ。偉い偉い。動物の本能、嗅覚でさがしたね。こんなの集団検診でも 見つからないよ、すごいなあ」。

とっても悲しい発見だったけど、その人が純粋に誉めてくれることが、うれしかった。

「今日、入院の用意して来たんですけど」
「がんは、長い時間かけてできるものだから、今日明日どうなることはないから。ベット空くまで、家で休養していなさい。それから、お 母さんには、親切にしてあげなさいね。僕も子供に同じこと言われたら、さびしいもの」
「はい。でも、先生、うちはもう母と私だけなんです。検査の結果がおもわしいものでない時、私は自分の命ですから3日泣けば、なんと かなると思うんです。でもその時、母に壊れられたらダメです。普通、家族に言うことを私に言ってください。患者に言う(ぼかした)こ とを母に言ってもらえますか」
「わかった。約束する。でも、お母さんを大切にしてあげなさいね」。

入院して、その人に会えるのは、4年前と変わらず、やっぱり火曜日の外科部長回診の時だけだった。合計6回。厳しい表情で通り過ぎる 時もあったし、「お母さん、元気?」と声をかけてくれることもあった。私の右おっぱいは、やっぱりがんで、全摘は、私が選択したこと だった。

部屋では、その人のことを『まき餌のクニイ』と呼んでいた。
乳線症と診断され、切開摘出して最終お手入れの日に「ごめん、ごめん。がんだった。入院してくれる?」と言われた、 とか、せきが止ま らなくてレントゲンを撮ったら、乳がんが写り、にっこり「入院しましょう」と言われた、    とか。でも、誰も、その人を責めてるわ けではない。いきなり『がん』と言われたら、入院まで持たなかっただろう。『がん、かも』と、そうじゃない可能性1%を残してもらう ことによって、入院までの日々に希望が持てた。

入院をするということは、がんである確率がかなり高いということ。ただの入院だけで済むわけがない。けれどその人は、しこりを「仮に がん」と呼び、「がんとは決められない」と言い続けた。乳房の未来・行方を、みんなで相談して決めようと言ってくれる人だった。個人 病院における100%がんが、99%がんになっただけ。黒が、限りなく黒に近いグレ−になっただけかもしれない。その雲泥の差よ。言葉こそ が、医術の基本なのかもしれない。言い方ひとつ。がんが救われていくような気がした。二度と明けないはずの夜に朝陽が差し込んだよう に思えた。言葉のまき餌こそ、その人の大いなる愛情だ。

夕方、めずらしくその人は、外科西病棟をと歩いていた。

「明日、退院か。暑いうちは、居ればいいのに。ゆっくりしていけばいいのに」。

夏に帰省した娘に語りかける、父親の言葉のようなぬくもりがあった。

<畠山恵美著/『遠雷や、残すものなどなにもない』・余伝より>

あとがき

赤シソのまたいいのが手に入ったもので、いい梅干しが出来そう、いや出来ます(古川市:『旬の店シンフォニー』にて、赤シソ入手。路 地栽培・旬・有機&無農薬野菜と米など売ってます。夏野菜ギフトやってます。ご利用ください)。さー、あとは、梅干し干す、晴れを待 つだけだあ。

ちょっと叫んでいいですか。
私は、とても貧乏してるけど、心まで貧乏はしていない。裏金とか口止め料で私の心まで黙らせられない。私とがんは、そうして6年、生 きてきた」。この意味は、お伝えできる時期を見て、書かせていただこうと思っています。威嚇です。今、私、アンタッチャブルなんです。 このHPが私を守ってくれるハズです。

おかげさまで、左7年目・右3年目に入りました。ミジンコ以下の心臓の私でもです。 また、来月お会いしましょう。

患部の冷えには、気をつけて。

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{No7}2003年8月15日更新分

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■【8月のまえおき】
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地震の渦中にいる、畠山です。テレビは、本当に大変な地区を何度も映します。でもそこは、うちから車で1時間ほどかかる場所だったり します。同じ宮城県だけど。

夜中の地震は、ドンという衝撃だけで、震度5が出ていました。ちょうど気持ちがいっぱいいっぱいが続いてたところに、地震。心の中の 何かが決壊するように、笑いが込み上げてきて、ずうっと笑っていました。「生きてるから、地震にも合うんだよなあ」。

でも、まさか朝もあるとは思いませんでした。うちの玄関は引き戸なのですが、自動ドア状態で、開いていく様を、柱につかまって見てい ました。もう笑えませんでした。

今も、地鳴りはします。ボコボコ言ってます。まあ、震度3くらいのは、慣れて気がつかなくなっています(ポリポリ)。でもね。中3の 時に、宮城県沖地震を体験している者にとっては、なんとかなるっしょです。すいません、それは、畠山の住んでるとこだけかもしれない けど。被災地のみなさんに、お見舞い申し上げます。

では、8月は「畠山『ヌーブラ』を叱る」と『ヨゲン』の2本でいきます。

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■畠山『ヌーブラ』を叱る。
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この夏「ヌーブラ」なるものが流行しておりますが、みなさん、見ましたか。私は、見て、ムカムカしました。なぜって?、あれは、元々、 私たち患者用に、長年研究開発された神聖なものだからです。いわゆる「パット」というものを、手術後のいずれかで見た時、どう思われ ましたか。

私は、初回の時は見せられてません。温存だったからと言う理由でした。パッド屋さんが来る日に、参加したいことを婦長さんに伝えたら、 「あなたは、残っている。残らなかった人の気持ちも考えて」と示唆されました。でも、正直その言葉は、二回目をするまでわからなかっ たと思います。

手術2週間後でしたかね。お部屋の3人で別室に行ったのです。お一人は元々3Aとかで「パットすると、手術してない方が、いる」と笑 っていました。本心はわからないけど。私ともう一人は、Eくらいありました。目の前のパットが不思議な存在に見えました。一番最後に、 2キロのパットを渡されて、あてて、下から触ってみたら、ちょうどそのくらいの重さの感触だったことに気がつきました。その瞬間に、 「こんなウソおっぱいいらない。持って帰れ!。私のおっぱい返せ」と心の中で絶叫していました。

パット屋さんの親しい常連さんつーか、日常生活を送る患者さんも同席していて、パットがいかに必要か、それに助けられてるかを饒舌に お話になってました。パット屋さんが悪いわけでも、全摘が悪いわけでもありません。なぜそこに、おっぱいの形をしたものがあるかわか らなくなったのです。もちろん、3人でヘラヘラ笑って病室まで戻りましたが。

その晩、3人にはなんとも言えない、悔しさや悲しさや喪失感がありました。パット屋さんは、両乳房そろっていて売っていたし。私自身 は、再建を考えたことはありません。それは、再建を否定するものではなく、個々の心の問題ですね。再建して、心が穏やかになる人は、 していいのです。

でも私は、そうなれないと思います。どうしても、同じ細胞で形成される元々のものにこだわってしまいます。あれでなければ、いらない。 パットも同じ考えです。左は残ってますから、洋服選ぶときに、非常にバランス悪いのですけど、でも、右がないのがわからない服を選べ ばいいとしています。

パットはひとつ持っています。買ったのではなく、近所の乳がんの先輩がくださったのです。善意です。でも、できないのです。もちろん。 放射線で左の皮膚が弱くなっているので、木綿100%しか着られない体質になり、ブラジャーの回りに付いてる微細なレースで、まける ってことも大きい原因です。右の膨らみのために、左の皮膚を痛められないという。パット用のブラは、探しましたが、レースのついてな い木綿だけのは、ありませんでしたから。

で、ヌーブラです。温存の人用・部分用を利用したように見えます。サイズも、私が見た限りでは、Eまでありました。「おっぱいが小さ くても、二つそろってるのでしょう。ブラジャー躊躇なくできるのでしょう。暑いからって、部分だけヌーブラ使って、大きく見せたりし なくていいだろうが。機能もそろってる天然のおっぱいでいいだろう」。

そう、安易に使ってるヤツに、叫びたいのですね。 本当の肌触りを求めて、試行錯誤して、研究して、患者はそれに一喜一憂して、それでも、おっぱいが欲しくて、パットというのは、でき てきたと思うのです。

それを知らず、ファッションや性的な目的や、『二つそろってることに感謝しない』目的で、ヌーブラが流行っているとしたら、私たちの 病に対する冒涜じゃないかと思うのです。流行のものだから、来年パワーアップしてまた売り出されるか、「あの人は今」的に紹介されて いくとかでしょう。秋になったら、投売りワゴンで見ることになるのでしょう。

そんなもので、乳がんを語られること、流されていくことが、なんだか悲しく思えるのです。私の反応が、過多だということもわかってい ます。でも、あなたは、どう思いますか。おっぱいがあった時、私は、自分のおっぱいを、女の子らしいブラジャーで飾ってあげることを しなかった。ノーブラは、それなりに信念持ってやってたけど。

乳がんになるなら、かわいいブラジャーをしてあげればよかった、「ごめんね」と、おっぱいに謝ったのですよ。しないけど買ってたブラ ジャーは、大切にしてくださる方にさしあげました。一応木綿のは、ひとつあります。授乳用です・・・残酷なことに。あなたの回りで、 ヌーブラに依存している女性がいたら、言ってやってください。「二つあるのに、贅沢だ」よと。

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■『ヨゲン』
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私のとても若い友人に、サヨちゃんがいます。サヨちゃんは、今高校1年生です。サヨちゃんとのつきあいは、きっと彼女が生まれた時、 実際に接するようになったのは、3歳くらいの時でしょうか。サヨちゃんのちは「レコードショップ7」というレコード屋さんです。今は CDを売ってますけど。小さなサヨちゃんは、いつもレジカウンターの中で、ちいさくなっていました。お客にちょっと声をかけられただ けでも、すぐに泣いてしまうような幼子でした。

そんなサヨちゃんが、お姉ちゃんやっていた卓球クラブについて行くようになり、また、見よう見まねで卓球を始めました。卓球台よりも 小さいサヨちゃんは、どんどん上手になっていきました。お姉ちゃんと対等に卓球ができるようになるまでは、そんなに時間がかからなか ったと思います。お店の中では、相変わらず人見知りの激しい泣き虫さんでしたけど、卓球の上達とともに、私としゃべってくれるように なりました。

卓球という魔法が、サヨちゃんを変身させていくようでした。サヨちゃんのコーチは、お父さんです。凝り性のお父さんは、自宅を改造し て卓球ルームを作りました。週2回の卓球クラブ以外は、そこで毎日特訓です。サヨちゃんの練習方針は『自分が納得するまで』。たった 10分でも、その日の自分がOKを出せば、おしまいです。でも納得できなければ、寝ないでも練習をし続けました。

当時宮城県には、全国的に有名な「もう一人」の卓球少女がいました。彼女には、大人も太刀打ちできません。芸能人とかそういう人との 対戦を、今でもよくテレビでやっています。あの少女です。サヨちゃんは、その卓球少女と唯一、県内で対戦できる相手と申しますか、卓 球少女の母上に認められた存在でした。時に、サヨちゃんが負かしてしまうこともありましたす〜これは、卓球少女の母上にニラマレルの で、ごくごく内輪の話ですが。

サヨちゃんは弾けました。クラスの男子に「サヨのバカ」と言われた時です。いつもなら無条件で泣いてしまうハズなのに「そうですうう、 サヨはバカですう」と言い返したのです。男子もクラスのみんなも、サヨちゃんのお母さんもびっくりしました。私は「ヤルじゃん」と思 いました。

ブレストサービスで、なんでサヨちゃんの話なのか、いぶかるでしょう。私、乳がん2回とも、自己発見と称しておりますが、実は違いま す。発見してくれたのは、サヨちゃんだったのです。初回の時は、2年生だったのかな。お店に行くと、もうなんだかんだと私を遊んでく れるようになっていました。暮れ、突然「くさいよ」と言い始めました。お母さんは、そんなこと言うものじゃないと、謝ってくださいま したが、サヨちゃんは私に毎日「くさい」と申します。当時つけていたバラの香水の匂いかとかがせても「違う」。うっかり芳香剤の上に 置いてしまったコートの臭いかも「違う」。

もう、脇の下のにおいまでかいでもらいましたが、全部「違う」と言うのです。その時間は、半年ほどでした。初回の告知を受けて、入院 することをお店に伝えに行くと、サヨちゃんは「だから言ったでしょう」と言いました。手術して、放射線治療して、退院して来たら、「 もう、くさくない」と。

二回目は、サヨちゃんは中2にあがる時でした。卓球留学で中国地方の学校に行くことになったと電話で話していると、突然「くさいかも」 。私ちょっと身体がカタクなってしまいました。たぶんその日から、念入りにおっぱいを触るようになったと思います。2カ月後、それは 二回目の告知になりました。サヨちゃんの「くさい」は、がんのにおいをききわけしたものだと確信しました。

サヨちゃんは、この春から、関西の高校に進学して、卓球に精進しています。この夏のインターハイにも出場しました。あの卓球少女は、 世界ランクにも入るようになりましたが。サヨちゃんは、きっとマラソン的な才能なのだと、私は信じています。サヨちゃんは、まだ本気 で走っていない。準備運動の段階です。だから、本気出した時、世界に居るはずです。私は、世界に居るサヨちゃんの記事を書くことを約 束しました。それまで病気を完全に治すと。サヨちゃんの記事は、誰よりも私のが一番になると。

先日、とある検査でひっかかってしまいました。MRIを受けて、結果は数日中に出ます。乳がんという部位ではないけど、正直、かなり ビビッテいます。でも。インターハイに出場することの報告で電話をくれたサヨちゃんに聞きました。「ねえ、くさいかな、私」。すこし はにかんでる口調で「ううん、ぜんぜん、くさくない。大丈夫」。サヨちゃんが、くさくないと言うなら、結果は、マズイものは出ない。 私は、今、それを信じています。

あなたの近くにいる、卓球に『静かなる』情熱を燃やしている高校生は、・・・サヨちゃんかもしれません。サヨちゃんの未来にエールを、 私はおしみなく、おくり続けたいと思います。

あとがき

7月は、結局、ずうっと怒っていたような気がします。トドメの31日、午後8時過ぎの郵便局。毎年応募を続けているコンクール作品の ために、消印をもらいにいきました。なんでそんな時間かって?。怒ること、メゲルことばかりで、気持ちが敗けていたから、書けなかっ たのです。父が亡くなった時も、失恋した時も、乳がんの病室でも書いていたのにです。

「あんた、敗けたままでいいの?」。・・・よくない。
30日の午後10時過ぎから書き始めて、31日の午後2時までに、50枚の作品を書きました。推敲というよりは、校正に近いことしか できなかったけど、作品は直球です。ホームランか、3ストライクしかないでしょう。そんな作品で、発表は、暮れです。

で、怒ったこと・・・。うちの街の本局は、しばらく前から、経費節減のために夜勤を廃止し、当然「夜間窓口」も廃止になったそうです。 そんなの、どこで知らせたんだよー、聞いたことないもんね。裁判所とか困るだろう!、ガルー。「最終トラック出たから、明日の日付に 消印直したんですよね」。 プチッ。

「今日の今出すから、今日の消印でしょうが、いつ着くかはどうでもいい。私の作品は、質じゃなく、消印で落とされるのかー!」。ガル ー。・・・私、口悪いけど、喧嘩の時は、黙るタイプなんですよね、信じられないでしょうけど。すみません、いい大人が、幼稚園児でも しないことをして(夜8時に、郵便局で吠える幼稚園児は、ほぼいないと思う・・・)。もうしません、反省してます。ギリギリじゃなく て、余裕を持って、消印をいただくことを、お誓い申すうう。

あー、怒るって、身体に一番よくないんだよなあ、今月は、よくないことばっかだったなと反省していたとこに、一通のメールが。「もう、 8月です。ニコニコでいきましょう」。それで、ほっこりしたのは言うまでもありません。怒っても1カ月、笑っても1カ月。ならば、ニ コニコで過ごそうと、あらためてキモニメイジタ畠山です。

夏らしくない夏(って、東北?)ですが、
どうぞ、お身体、ご自愛のほどを。 また、来月。

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{No8}2003年9月16日更新分

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■【9月のまえおき】
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モノオモウ、秋にきっと居るはずの畠山です。原稿を書いてる時点の今、更新時期の気温や気候をさっぱり予測できません。えー、朝は、 半袖のパジャマの上に、フリース着て、起きます。午後になると、短パンに半袖に、割烹着・・・。自分でも、このファッションセンスは、 ピ−コさんに叱っていただきたくなってます。叱っていただくのは、気候デス。うちの甥っこたちも、めでたく5歳と4歳になりました。

今までは、「えみー」と呼び捨てにさせてたのですが、私も来月、めでたく40歳になるハズなので、ちょっと躾しました。「えみちゃん って呼んで」「ヤダ」「じゃあ、オバちゃんでいいよ」「えみーは、オバちゃんじゃないよ、えみーだよ」。よしっ。「わかった、これか らは、私を、うずぐすいおねえさんとお呼び」「OK」。うずぐすいは、ちょっと「うぐいす」に文字配列が似てますけど、違います。「 美しい」のなまったものです。先日、あまりにもうるさいので、怒りづけました。したら、「このー、うずぐすい・くそ・ばばあ」とヤツ らは切り返してきました。・・・うづぐすいが、きちんと入ってたため、追加では怒れませんでした。

というわけで、今月は、『今』『千差万別』の2本でいきます。

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■『今』
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最近、自分が「乳がん」というところから、離れているかもしれないと思っています。ゾラデクスが終わり3カ月、ノルバテックスも今月 終了予定。8月には結局、外科には顔を出しませんでした。本当に、素直に、副作用が出てしまっていました。左の時は、初めてだったか ら、起こる副作用に、いちいち一憂して、布団の中で泣いて過ごした時間の方が長かったと思えます。

けれど、今回、右の治療の2年に関しては、確かに苦しいものではありました。が、何が起こるか、どうすればいいか対処法がわかってい たから、なんか、あーっという間に過ぎてしまったように思います。どこか2回目は、他人事のように過ぎてしまった気もします。一昨年 の今ごろ、私は「リターン」と「遠雷や、残すものなどなにもない」という、二つの小説を書いていました。

約7日間で書きました。告知の時点で、小説にしようと思ってなかったけど、書かないと前には進めないぞと思ったのは事実です。何を書 き出すかわからないけど、全部見ておこうと思いました。心の中に余裕は、これっぽっちもないのに、それを全部記憶している私がいまし た。

左の時、鬼のようにまじめにノルバテックスを朝晩服用していたのですが、右もなってしまった。弱い私が、あたった先は、ノルバテック スでした。飲む飲まないは、自分の未来にかかってくることなのに、「記憶が飛ぶから」と、屁理屈こねて、飲むことを拒否していました。 小説を書くというのは、恰好の言い訳でした。

幸いにして「遠雷」のほうでは、『北海道東北文学賞』なるものをいただきました。掲載誌は、創刊以来初めての完売になりました。 「 リターン」は、去年、シナリオにして、NHKオーディオドラマシナリオコンクールの審査員奨励賞をいただきました。もともとが小説ゆ えに、選評の中で無理を指摘されちゃったのですけどね。あの夏に、私が生んだ二人の子供は、親である私を、どこかに置き去りにしたま ま、先に行ってしまったように思えます。

きっとそういうことが、この2年の私の中のハリにもなって、時間がタッタと過ぎていくことになったのかもしれません。でも、受賞した 時に思ったのは、うれしいということよりも、乳がんから一回離れてみないと、本当に自分になにが起こったのかがわからなくなるという ことでした。でも、その距離の取り方がわからないままの2年でもありました。

市の健康診断で心電図をとった時、7年目にして初めて、左の傷痕の上に置かれた吸盤が痛くて、移動してもらいました。7月までは、微 妙に高かった血圧も、「絵にかいたような理想的範囲」に戻りつつあります。体重も、根性悪くなるほど、少しずつ落ちています(デブに 慣れると、痩せるのがこわくなるのかしら)。

初回の時は、ゆっくりと回復していった身体が、今回は、スピード出してというか、順調にというか、毎日、薄皮を剥ぐように、楽なほう に変化しています。お風呂に入れば、間違いなく右おっぱいはありません。間違いなく6年前とは違う時間を生きているわけで、2年前と も少しづつ違う現実は、あるわけですけれど。

うっかり、乳がんである自分を忘れている時も増えてきました。もちろん、本当に忘れているわけではないのですが。漠然と、未来の時間 について考えては、実はため息をつきます。・・・そこに、「乳がん」から離れている自分がいます。乳がんを得て、多くのことを学び、 泣きながらもいろんなことをつかみとってきた時間があったはずなのに、過去よりも前だけを見て、「なにもないかもしれない」とため息 ついているのです。

6年なにやってきたのさ、と追い詰めてしまうこともあります。未来の私は、かなり強気です。優しくないのです。今日を健康に生きられ れば、それ以上望む必要はないのに。なーんにもないまま、40歳が来ちゃうのか、って思ったりします。40歳は、私の目標でした。そ こまであと1カ月っていう、デットスポットにはまってしまっているのでしょうかね。でも、この時期が、カラッポに一度なるチャンスな のかもしれません。

「動揺は、深く深く沈めて。それでも、浮かび上がってくる言葉を文字にすればいい。読者に、動揺はいらない」。 2つの作品を読んでくださった感想の一つです。これからも書いていくとして、乳がんという題材から離れ、良い距離を保てたとわかった 時〜いつになるかはわかりませんけど〜、きっと、2つの作品とは別な乳がんの心情・光景がある小説が書けると思っています。きっとそ れが、なーんにもない中で、唯一あるものかなって、少しだけ思っています。・・・未来って、可能性ばかりだから、おもしろいのかもし れないのにね。

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■『千差万別』
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この夏(って、夏は、あったんだろうか)、私は「乳がん」ではないことでの通院と検査が続きました。それで、いろんな医療にあって、 その上、「ドクハラ」にもあってしまいました。いやあ、患者で、病院内のウサをはらそうとする「お医者サマ」って、本当にいるんです ね。「こんつきしょう。オメエみだいなヤズに診でもらわなくても、結構だ。バカにすんでねえぞ」と啖呵きりそうになりました。

うちの市は、検査機器を、分担して置いてある(のではないだろうかと思われる)ので、その検査のMRIは、そこの病院にしかなかった のです。だから、初診の際、診察室のドアノブに触った時点で、ドクハラは始まっていました。けど、外科の主治医と専門医から「お願い だから、我慢して、MRIだけとってこい」との指令を受けてたので、ほぼキレかかっていたのですが、我慢しました。

ホント、我慢しました。クレーム係のオヤジには電話しちゃったけど。クレーム係は、「このクレーム、匿名にしますか、実名にしますか」 って聞いたので、「そんなことされたのは、私だけでしょう。匿名にしたってわかるっ!」、絶叫しました。狭い町ですから、その病院の 隅々に、友人やら知人が、職員としてもいます。「あんだあ、うちの病院に来たら、モルモットだよ」。毎日、そんな環境で働いてる友人 を抱き締めたくなりました。

MRIは直前まで、びびってたわりには、技師さんが親切で、検査自体はスルスルと消化できたのですが、後がいけませんでした。「会計 に持って行って」と、厚紙を渡されたなーと、廊下でよくみると、剥き出しのカルテでした。ハハハハハ。普通、クリアファイルで簡単な プロテクトするでしょうが、フツー。皆様の情報公開病院だから、しねえんだと、そんなこと。

確かにな、そう書かなければ、保険の対象にならないことは知っている。そんな文字を見るのは、3回目だったしね。でもさー、剥き出し のカルテの表紙に、「○○○(悪性の疑い)」。慣れてるとはいえ、めまいしました。初回の患者さんなら、卒倒したでしょうね(でも、 倒れても、絶対助けてくれない病院なので、誰も倒れません)。そんな情報公開なんて、いらないよ。

MRIの結果と、とりあえずの今後の治療指針を聞きに、これもイヤイヤ行きました。クレーム係がしっかり伝えてくれたおかげで、『ド クハラ』の手法が変わっていました。「あなたの意思です」の連呼。病状も治療も「私の意思」ってことは、これから医学部行けってこと ですかねっ。患者丸投げってことです。 結局、結果がよくわからなかったので、またもや剥き出しのカルテを、外のコンビニでコピーさ せていただきました。

だって、それ以外、自分の身体を守る方法が見つからなかったのだもん。その病(外科のジャンルではない)は、ここしばらくフォローし ていただいてた専門医のところに、直行しました。しかし、そこでも「うちでは、ちょっと。畠山さん、むね(乳がん)2回やってるし」。 それは、初診の時に、ご存じでしょう、センセイ!。結局、乳がんを理由に、その病院からも捨てられてしまいました。

昔、軍医だったオジイちゃん先生がやってる病院に行って、やたら怒鳴られながら診察してもらったけど、あれ不快じゃなかったんだよね。 こわかったけど。傷や病気に対して、真正面から闘えって言葉だったと子供心に思ってました。そして、そんなに丈夫な身体ではなかった けど、かかりつけの先生は、ごくごく普通に私を診療してくれた人生がありました。

そして、乳がん。乳がんになって、こんなにドクターに甘やかされていいのかと思うほど親切にしていただきました。最初は苦手だなと思 ったドクターだって、大好きになりました。乳がんで知り合ったドクターは、もちろん病棟には乳がん以外のドクターもいて、でも、みな さん、腰が低くて、「そんなに優しくしても、給料は上がらないよー」ってほどいい人ばっかりでした。

私、考えました。もしかしたら、いいドクターにしか出会ってこなかったラッキーな人生だったかも、と。実は、「ドクハラ」をする医者 ばっかりが本当ではないかと。でも。この事態を、私以上に、思いっきり怒ってくださったドクターがおりました。宮内先生です。医療に 信用も持てないまま、治療はできません。「あれ、乳がんでは生きられたのに、単純なことで、生きられないのか、私」と、ほーんとうに、 ひとりぼっちになってしまった時に、宮内先生が救ってくださいました。

「私は、宮内先生の患者じゃないのに。優しくしてくださって、ありがとうございますう」と、わんわん泣きました。

ドクハラをした医者は、8月でその病院を辞めたので・・・あなたの町に行ったら気をつけてください。だから、報復とかはしません(苦 笑)。ああ、二度と行かねえよ。

宮内先生のおかげで、実は、私が出会ってきたドクターの方が正しかったのだと、確信を持つことできました。そして、新しいドクターと の出会いと、また、希望との出会いがあったことをお伝えします。

あとがき

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さて。今月は、この後に、プラス(内容は、マイナス?)をつけます。どなたか、ご教示いただけたら、そういう思いです。
ではでは、来月、また、お会いしましょう。

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■『プラス』
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できなかったことを、しなかったことを、語ってもどうしようもありません。でも、7月更新分の「この言葉が私を守ってくれる」の意味 をお伝えしなければなりませんね。

9月29日、S市民会館で行われる県対がん協会のイベントで、私は、講演をしているハズでした。まだ春彼岸の時期に、秋彼岸より後で ある9月29日の予定を打診されました。明日とか来週とか、せいぜい1カ月先くらいまでなら、お答えできると思います。しかし、毎日 をきちんきちんと生きることき明日につなげている病を持っている私は、半年先の予定は「予定は入っていませんが、お約束もできません」。

それでも最初の担当の方は、非常に熱心でした。昨年の春の小説の受賞記事を読んで「絶対に、来年は、この人に講演をやってもらうと決 めてました」とのこと。それはとてもとても小さな記事で、(元新聞書きの私にはわかりますが)隙間が出たから書いてみましたという程 度のやる気のない記事だったのに。

もう何年も、一日に何十枚と文章を書いています。署名記事でもなければ、私が書いたなどということは、誰にもわかってもらえません。 でも、好きだから、どんなことがあっても、書いているわけです。時に受賞などもするのですが、それが仕事にむすびつくわけでもなく、 一過性のお祭りのような疲労になることも知ってます。 だから。去年の記事を覚えてもらえてたことが、すごくうれしかったのです。

半年先の予定を組んでみてもいいかなと思えたのです。 幸いにして(?)、小学校2000人、中学校1500人、高校1300人のマン モス校に在籍してましたので、大勢の人の前でお話しすることには、躊躇はありません。お話しする内容は、9月になってから決めるとし て、とりあえず、9月のその日まで、健康でいられる努力をしようと思いました。

ところが、5月になって、担当の人が変わると、状況も変わってました。理由はわかりません。「講演する候補者は、4人。選考結果は、 6月末までに知らせる」と言うのです。「あれ?」。担当が変わって以来、不愉快なことは多々ありました。するにせよできないにせよ、 選考結果がでてから「文句を言うのは、1回」。新しい担当の人は、おそろしく、私を見ていなかったので。

「去年も体験談だったので、二年続けられないのですよね。だから、いりません」。6月早々、そんな電話が来ました。『いりません』だ と!。体験談を続けられないのは、候補以前にわかっていたはず。勝手に候補に選んで、勝手に落として、いりませんはねえだろう。講演 は、私から頼んだわけじゃねえわい。去年は、落語家さんで、確か胃がん。胃がんと、乳がんの体験は、絶対に違います。

『いりません』って言葉に、私は、自分のがんを冒涜されたと憤っています。冒涜した相手が、仮にもがん患者の標となる、対がん協会っ ていうのも。うちの県だけだと思います、そんな対がん協会。講演できなかったことは、きっと身分相応ではなかったんだと、早めに気持 ち入れ替えました。でも「いりません」は残りました。

数日後、「いりません」さんが、うちの玄関先に、菓子折りを置いていこうとしました。誰であろうと、いわれのないものはいただかない 主義です。おっかけて、返しました。「菓子折りをつっかえした」行為が、対がん協会への戦線布告ととられたようです。・・・菓子折り なんかより、人間「ごめんなさい」だろう、ごめんなさい。言葉だろ。

7月1日、エライさんが詫びに来ました。「予定を聞いた時点で、講演契約は成立してる」と、茶封筒を、差し出しました。金額は、10 万円。講演も何もしてないのに、受け取れないと押し問答してるうちに、金額は、5万円になり、商品券ならいいのかまでになりました。 私も、ちょこっと「もらっちゃおうかな」と思ったのは、正直なとこです。

その日は、帰ってもらいました。しかし翌日。正午から協会中の電話を「せーの!」でかけてると思われるほどの電話攻勢2時間。気がつ くと、玄関前に、昨日の人が立ってるし。修羅場は数々体験してる私でも、さすがに、この異常な事態に、恐怖をおぼえました。だって、 電話は鳴らされっぱなしだから、電話で助け呼べないし、昼間はあんまり人がいない地帯だから、外に向かっても叫べない。その翌日も、 また玄関の前に立たれました。

私は、今も、セールスの男の人が玄関前に立っただけで、身体が動かなくなります。戦線布告になったらしい、菓子折りはね、私が受け取 ったってことで、領収書切られてるんです。そして、それは、既に3つの茶封筒に入っている計15万円と商品券は、この時点で、私名義 の領収書が切られてるってことを提示する事実です。

一人で対応しても、こわいだけ。話し合いの場所を、市の施設にして、職員の方に立ち会ってもらいました。対がん協会は、顧問弁護士ま で出してきて「あくまでも、お金は受け取ってもらいます」です。市の助言としては、「人権擁護委員に委ねる」。・・・「いらない」は、 顧問弁護士と人権擁護委員まで出るのか・・・。

それが、7月下旬のことです。結局、答えは、今だ、何もまだ出てないのです。対がん協会からは、1回だけ来客中に電話いただいただけ です。こちらから連絡するにも、私は「ごめんなさいって、言ってください」しか持ち合わせていないので、できません。それは、道です れ違った時、肩が触れ合った時、するっと出る「ごめんなさい」のような人間として普通の言葉なのですけど。対がん協会の、私に不愉快 な思いをさせた人に、そう言ってもらえば、済む問題です。対がん協会はね、「ごめんなさい」は言ってはダメなんだって。

言う時は、会議しなきゃならないんだって。あのお金は、口止め料だったのでしょう。これを書いていても、身体が震えます。いろんな恐 怖が、ストレスとなって、私の中に存在します。でも、口止め料にしてはいけないと思いました。いろんなところに相談して、電話代も半 端じゃないくらいきました(お母さん、ごめんなさい)。「受け取っていい」「受け取ってダメ」同じくらいの答え、アドヴァイスです。

資料を送った実費820円は、実費なので、いただきました。でも、確実に言えるのは、私は、今現在、1円もいただいてません。今、領 収書があったとしても、1円もいただいてません。それが、7月の意味であり、現在でもあります。

たった一人のがん患者の気持ちをコナゴナにして、なにが宮城県対がん協会だ。私は、おまえんとこの検診は、絶対受けない。自分の身は、 うちの主治医たちに守ってもらう。でも、最初に、多くの人の中から私を見つけだしてくれて、半年先も生きている自分を考えさせてくれ たことは、深く感謝します。

9月29日月曜日、仙台市民会館で、盛大に講演会は開かれます。和尚さんの法話のようです。それには、罪がないので、どうぞ、お近く の人は、行ってみてください。

この件について、畠山は、壊れてるので、意味不明な箇所は、お許しのほどを。さー、対がん協会さん、どう処理しますか?。さー、みな さん、私は、どうしたらいいと思われますか。

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{No9}2003年10月15日更新分

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■【10月のまえおき】
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ごきげんいかがでいらっしゃいますか。畠山です。今月もおつきあいくださいね。そろそろ、傷に寒さや冷えがシノビコムころではないで しょうか。みなさん、いかがなさっていますか。私は、真綿党です。ハイ、「マワタで首をしめる」(こんな例えか・・・)のアレです。

近所にお布団屋さんがあります。アヤシイとこじゃなくって、日本最古のリサイクル、布団の打ち直しもしてくれる、昔ながらの布団屋さ ん。みちこちゃんちです。そこで教えていただいたのです。真綿って書いても、実は、絹。それで、布団にするわた(みちこちゃんちは、 木綿わたです)を、仕上げにおおいます。いや、とっても薄いA4サイズくらいの1枚なんです。それをのばしてひろげて、あの大きな布 団をおおうんですねー。

で、それを、ガーゼのハンカチにくるんで、皮膚に直接あたってもOKなようにして、パットにするんです。いいですよおお。薄いから、 服のシルエットにひびかないし、とにかく冷えから守ってくれますしね。乳がんにならなければ、こういう使い方を一生知らなかったと思 うと、んー、もったいないですっ。

高いと思うでしょ?。1枚100円なんですね。2枚買って来て、洗いたがいに使うんですね(手洗いか、ネットに入れてね)。布団だっ て、何年も使うでしょ。このパットというか、真綿は、ガーゼさえとりかえれば、何年も使えますから、お得です。あなたの町の、普通の 布団屋さんにも、あります。布団を作っている、昔ながらの布団屋さんですよ、くれぐれも。アヤシイとこでは売ってませんからね。

みちこちゃんには、遠くの人にも売ってくれるように言っておきます。ご利用ください(宣伝かよ。でも、店名出してないもんね)。では、 今月は『仲間』と『ゆっくりでいい〜倍の時間をかけて』の2本でいきまーす。

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■『仲間』
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あなたは、乳がん仲間を、お持ちですか。 「仲間なんて、入院中だけのこと。退院して、病院のドアを一歩出たら、中でのことは、全部忘れる」。否定はしません。基本的に、外科 は、交通事故とかで唸りながら運ばれて手術したとか以外、つまり乳がんとかは、ピンピンして自分で入院用品を抱えて、入院しに来ます。 手術当日と翌日くらいは、ウーっと身体が辛いけど、毎日毎日、バカスカ良くなっていきます。だから、告知された時「もうだめだ」とか 思った自分が不思議でだったり、病理の結果を言い渡される時「そうそう、がんだったんでした」と思い出す(畠山はそうでした)なあん てことあったりします。

でもね。入院中は、まだ、闘病とか始まっていないのですよ。ドクターとナースのいるところで、安心していられる休暇みたいなものなん ですよ。これから起こることなんて、予想もしない。それでいいし、それがないと、いかんと思います。退院、病院のドアを一歩出てから が、闘いになるということを、忘れないでください。ひとりぼっちで闘わなければならないということを。ご自宅のご商売が、病院じゃな いかぎり、家には、ドクターもナースもいませんからね。『乳がん』本は、「大丈夫だ」と背中をポンとたたいてはくれませんからね。

そんな時の仲間なのです。ベストでいえば、同じ時期に同じ病院に入院していた人、欲をいえば、同世代か同じ治療法をしてる人。朝、な んとなく傷が痛いとします。病院に走るってものでないけど、それってどんどん不安になりますから。「あれー、あなたも痛い。今日は、 曇ってるから、みんな痛いんだね」。入院中に、朝、なんとなく交わしていた言葉を、電話で聞くだけで、もう、傷が痛いは「あー大丈夫」 になります。

薬もしかり。辛いのは一緒。思いっきり「ノルバテックスのばかやろう」とか一緒に叫べます。どちらかの病状が進んでしまった場合、心 は、複雑です。でも、その時に、乳がんに対する本音を言えるのも、お互いに学ぶべきことあるのも、乳がん同士だからこそです。また。 私自身は、『患者会』というものはお勧めしませんけど・・・『患者会』のいいところは、同じ手術日の人や同じ年齢の人に、全国的に知 り合えるってことです。

お勧めしないけど、ちょっとだけ『患者会』にいたことがあります。だから、仲間はできました。同じ手術日だった方とは、毎年「私たち の新しい誕生日に」(私は二つありますが・・・)って、カード交換してます。ともすると家族すら忘れている、私たちの人生において大 切な日を、自らの意思で、生きることを選択した日を、一緒に祝える仲間がいるって、ステキじゃないですか。たとえば、私たちの左は、 6月に「6歳」になったのです。

また、同じ年齢、同級生とは、各々の得意分野(?)の疑問大会ができます。同級生というのが肝心です。地方が違っても、生きてきた時 代が同じですから(一つ下とかは、実は、合わない)。「むくみ」にぶちあたった時、4年間彼女の「むくみ」に親切をでなかった私に、 彼女は、ソッコーで、ドクターも口を割らないアレコレを教えてくれました。私は4年間の非情を心から反省しました。いいよね、同級生。 もちろん、私の例でなくっていいんですよ。いろんなご縁で、つながってゆく仲間はいるってことなのです。

   私には、一人、心にひっかかっている仲間がいます。2回目の入院の時、お向かいのベットにいらした人です。『ネーサン』とお呼びして いました。「1回乳がんをしたら、もうならない」と信じてたネーサンからしたら、今自分がしてる同じ治療を、して4年後に、もう片方 が乳がんになって入院してきた私を、コワイと思ったでしょう。でも、手術の前の晩、泣きじゃくる私を、ネーサンはとっても励ましてく れました。本当に感謝しています。

ただ、長い入院生活の最後に、言葉の行き違いが起こって、結局「サヨナラ」も「またね」も言わずに、退院しました。私は、ネーサンに 「ごめんなさい」と「ありがとう」を言わなければならないと今でも思っています。時々、仲間が、病院で見たよ、元気そうだったよと知 らせてくれるので、「ネーサン、キツイ治療、がんばったね」と思います。とにかく「ネーサン、生きていてね」と思うのです。ネーサン が、このHPを読んでいてくれるといいなあ。

乳がん仲間は、仲良し倶楽部ではありません。でも、お互いに、生きる力を交換できる友です。ものわかりのいい患者になんてならなくっ ていい。ドクターに嫌われるくらい聞いていい。その情報は、自分だけのものではなく、みんなで分かち合えるものだから。

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■『ゆっくりでいい〜倍の時間をかけて』
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三十代に入って、アキレス腱の手術から始まり、左乳がん、右乳がんの手術・治療ってな具合に、私の人生は、他人から見ると、病気だけ 見ても忙しいと思われてるようです。身長が150センチしかないと言うと「もっと大きいかと思ってた!」と言われます。声もでかいし、 態度もでかいので、2メーターはあると思われてるのでしょう。

いっつもセカセカしてて、走っていて、急いでいるが、私のイメージらしいです。締切まで24時間しかなくっても、100枚の原稿を間 に合わせちまうとこが、間に合ってしまうとこが、自分でも、いやんだくなるくらいだから、強ち、このイメージは、間違ってはいません。

でも、私は、とってものろまなのです。理解し会得するまで、かなりの時間を要します。小さい時は、都度、知恵熱などを出し、うーん、 縄跳びができない、知恵熱出す、飛べる。そういうような、のろさです。だから、二十歳、成人式の時に『倍かかるだろうな』と悟りまし た。四十歳で初めて、自分で自分のことを大人と呼べるようになるかなって。

友だちが、ステキな恋をしても、結婚をしても、お母さんになっても、さしてうらやましくなかったのは、「大人でない自分には、まだ無 理だ」という認識で見ていたからかもしれません。文章を書いていますが、ジャンルを決めずに、なんでも勉強なんでも修行とトライして きたのも、四十歳で「小説家」(ただし、畠山流の)あるいは、「ルポライター」になれたらという目標があったからです。

夢じゃなく、目標です。夢は消えるけど、目標は達成するものです。あと10日余りで、私は、四十歳になります。

これからが、私の、大人としての人生の始まりです。のろまってことを隠さないし、飲み込みが悪いってことも、天然だから態度がでかそ うに見えることも、全部隠さない。 私生活のほうは、何が起こるかわからないってことで「お楽しみ」で、ただ健康であることを念頭で行 ければって思います。

書いていく私は。やりますよ、期待していてくださいね、みなさん。・・・って、しか言えないのかよ(恐縮)。私の文章には、的確なイ ラストを描く、あるいは違う視覚表現をしてくれる、相棒がおります。もう二十年以上のつきあいになります。「いくつになったからって あきらめなければならない夢なんてない。可能性ばかりの未来だ」と語りあってきました。

相棒は、教師と妻と母をやっています。だから、彼女に自由な時間が生まれるまで、私は、文字だけで勝負していこうと思っています。つ まり、乳がんのOK年数を越し、オバアサンになるまで、彼女を待つこと。その作品をもって、二人で勝ちたい。だから、大人になった私 は、文字だけで読ませる世界を確立して待ちます。

それから・・・二十歳の時は、乳がんになるって、ミジンコも想像してなかったので、「乳がんになれた」おかげでやってみたい企画がで きました。これを読んでくださってるみなさんの中で、ご協力をいただけたらと思います。あなたの傷痕を写真に撮らせてください。そし て、発見した時、告知の時、手術の時、治療の時、なんでもいいから、「今」思う自分と乳がんのことを聞かせてください。 私たちの傷痕 は、ひとりひとり違います。思いもまた違います。

私たちの傷痕は、美しいと思います。ケロイドになってようと、縫い目がヘタッピイだとしても、そこに存在する傷痕は、神々しく、尊敬 されていい、勲章です。おっぱいは確かに、ない。でも、私たちと一緒に生きて居るおっぱいを、あなたも持っているはずです。全国の「あ なた」のところに行って(パニックディスオーダーをも飼っている私には、辛いことだけど)、私は、「あなた」について知りたいと思っ ています。

そして、それを1冊の本にまとめられたらと思います。傷痕は、顔になると思います。 私も、定期的に傷痕写真撮っています(時々、ア ングルがヘタで、パンツが写っていて、爆笑したり・・・)写真はヘタかも。だから、乳がんをした「あなた」の中で、私は『傷痕を撮っ てみたい』という方がいらっしゃいましたら、ぜひ相棒になってください。全国の「あなた」のところに、一緒に旅して、会いに行きませ んか。一緒に、私たちのおっぱいを作品にしませんか。

それが、乳がんを得て、私の文章のジャンルが増えたものです。乳がんのおかげだなと思います。ものすごく美しい傷痕を見せてくれた、 戦友:須藤玲子のおかげでもあります。 私が、三十代で出会った、乳がんが、私にとって必要なものであることを、実証するのが・・・ 10月末から始まる、私の四十代なのです。

33歳の時、乳がんになって、いろんなことをあきらめそうになった時、女優のもたいまさこさんが書かれた『猿ぐつわがはずれた日』( 幻冬社文庫)を読んで、「なーんだ、四十代になってからでも、いいじゃんか」。そう立ち上がれました。よかったら、読んでみてくださ い。キツイ時、その中の『悲しい買い物』を朗読してみてください。

自分が生きられて居る今を抱き締めたくなりますから。三十代にいる、独身の「あなた」、ふぁいと。

・・・
■<あとがき>
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私は、ホスト系かガテン系の両極が好みです。 宇崎さん、的場さん、岸谷さん、いいですねえ。目がするどくって、いいでーす。 中條き よしサマ、カールスモーキー石井さん(テッペーちゃん、そうさ、私は、米米初期ファンさ)・・・あやしくって、いい。

でも、ここ数年は、竹野内氏と妻夫木氏を指定してますけどね。したら・・・竹野内氏が、ヤンキーやるっていうじゃないっすか。そうそ う、ソレソレ。一挙両得でいいじゃないですか。今年の、秋から冬は、とても幸せな時間が送れそうですわん。

・・・でもね。永遠の理想は、「笠智衆」氏なのですよ。
『老いという職業持てり早蕨忌』

すてきな出会いがありますように。じゃあ、また。
God bless you!。

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{No10}2003年11月18日更新分

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■【11月のまえおき】
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40歳になってしまいましたー。不惑です、不惑。いやあ、ワクワクすることが多い、惑ってばかりの40代になりそうですけど。 急に 「いきなり」寒くなって、傷、大丈夫ですか?。でも逆に、傷痛が「寒いから、無理すんなよー」とエールをおくってくれてたりしてって、 思いませんか。

さて。私の高校の恩師が「そこむし兵伍郎」(学研M文庫)という時代小説を出しました。よろしかったら、読んでみてください。なんで 宣伝してるかって?。別な恩師に、書名聞かれた時に「うーん、むっつり助平みたいなタイトルでした」って言ってしまったからでーす。 この恩師のデビュー作のことも、10年以上「カワソ〜」って言って

たら、「ワカソ〜、だ」と注意されたばっかりなのに、記憶力の冴えない、近ごろの畠山です。 今月は、『もしも』と『生きていく、コトバ』の2本です。よろしくう。

・・・
■『もしも』
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「乳がん」になっていなかったら。このごろ、ちょっと考える機会がありました。 2回です、左右ですからね。初期の自己発見で、今生きられていると言ってもね。いつかここにも書いたように、おっぱいに傷があること (左)、おっぱいがないこと(右)、それが見えてしまう現実がたまらなくって、電気を消してお風呂に入ることもあります。薬の副作用 は、キツかったし、毎月の医療費も、キツかった。

1回の乳がんで逃げ切れるっていう妙な自信があって、1回目の怖さを、どこか茶化して、封印していました。それが、2回目の告知の時 に、いっせいに噴出して、むちゃくちゃ怖かったです。33歳で乳がんになって、積極的治療が、この6月まで、39歳まででした。30 代の6年って長いですよね。友人が、普通にできるようなことができない。うらやましくって、見ないふりしていたような気もします。

それが、40代も生きていけるための「我慢」だとしても、こんな「我慢」なんかするより、楽になりたいと思ったことも、当然ありまし た。でもね、「もしも、乳がんにならなかったら」。そんな人生は、「つまらない」と、私は言います。33歳で、乳がんにならなかった ら、私は、今よりもっともっとイヤなヤツになってた、絶対。

乳がんは、私を、一人の人間にしてくれました。おっぱいを失っても、私は女性です。でも女性である前に、一人の人間であると、昔から 信じてきたことを実証できたように思えます。がん病棟「3病棟」で、多くの出会いがありました。生年月日も血液型も学歴も身の上話も、 何も重要と、必要としなかった。ただただ「がん」が怖いと泣いている、なーんにも持たない、ただそこに存在する一人の人間で、いいん です。だれも、叱らない。暖かいまなざしで、存在を認めてくれる。

私は、すっぴんですっぱだかでもいいんだと、知りました。がんにならなかったら、まず、この出会いもなかったし、こういうことを知る こともなかったわけですよね。それから、私は、がんになって健康になりました。がんになる前は、仕事優先だったせいで、病気で倒れな いよう予防に、市販の薬をバコバコ飲んでました。ドリンク・一日3本飲んでた時期もあります。夏なんかは、取材途中で薬局見つけたら 飲む状態だったかな。そんなの身体の調子は良くっても、絶対健康とは言わない。

がんになって、市販の薬を飲むことがまずなくなりました〜風邪はね、病院のは強くて、風邪以上に具合悪くなるので、市販のお湯に溶か すタイプを飲んでますけど。痛み止めも下痢止めも、2週間分を、主治医が処方してくれます。これを、自己管理で、約半年以上かけて消 化します。主治医は、私を信じてくれています。

頭が痛いときは、身体をなるべく休めるようにして、治す努力をまずします。「頭にトブ可能性がないわけじゃないからさ、2日続けて、 痛み止め飲むようなら、CTしよう」と主治医のサゼスチョン。だから、2日以内に、気合で、治すんです。下痢の時は、トイレにコ1時 間こもります。悪い物を出さねばならないと身体が言ってるから下痢はおきるのです。脱水症状にならないよう(ぬるま湯)、貧血で倒れ ないよう(保冷剤)、準備してからです。下痢止め服用加減は、うーん、文章にはできないかも。

どちらの薬も、ひじょうに原始的な、作用の穏やかな薬です。原始的ということは、薬価も安く、病院はもうからない。でも私には、それ で効くんです。たまーにもらう(膀胱炎の時なんかね)抗生物質なんて、単価1円単位。新しい抗生物質は、1回飲むだけで「勘弁してく ださい」となるからです。乳がんにならなかったら、薬大好き子さんは治らなかったでしょう。それは、将来的に、乳がんにはならなくっ ても、別の病を呼び寄せたように思っています。

「乳がんにならなかったら」、私は、乳がんについて書くことも、書かれたものを読むこともなかったでしょう(時々、書いてて、ツラク なりますけど)。そう、ここで、書くことは、あり得なかった。みなさんと、お会いすることもなかったわけです。この先OK期間を過ぎ ても、私は、「乳がんしました」(冷やし中華始めましたみたいだな)で、生きていくのですけれども、怖さも、一緒に生きていくのです けれども。

もしもであっても「乳がんをしなかったら」じゃなくって、私は、「乳がんしたおかげ」で、なんとかまっとうなもっとうな道を、生きて いかれるんじゃないかなって、思うのです。・・・ひとつだけ、残念なのは・・・授乳を体験することができなかったなー。それは、「乳 がんしなくっても」、可能性低いんじゃないかと、悪友たちは申しますけど(笑)。

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■『生きていく、コトバ』
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10月、私は、30代最後の最後の大仕事、ある手術を受けました(乳がん・その他のがんじゃないです。詳しくは、来月以降お伝えしま すね。まだ自己昇華しきれてないので。ごめんなさい)。入院する5日前、近所の人から「がんばってこいよー。今度ので、最後にすんだ ぞ」と励ましてもらってました。

「この人(私)は、男になるために、全部とるんだおん。手術も慣れてるから、怖くねえんだおん」。私の家族が言いました。私は、怒り よりも、見知らぬ他人に出会ったように、家族を見ました。家族は、過去のの乳がんの時も私に言いました。「あんだは、自分の身体、切 って切って、ダルマになって、保険金で生きていくんだおんね」。私たちは、自分の意思で「好んで」おっぱいを摘出しなのではないです よね。

保険金で億万長者になるより、自分のおっぱいあったほうがよかったですよね。家族は、他人にバカにされないように、負けん気を起こさ せるために言ったと、言い訳をします。私の心は、氷になるだけです。夫に、傷痕を「汚い」と言われ、子供が成人したら離婚を考えてる という記事を読んだことがあります(BS社のHPにも掲載されてます)。私は、家族に、この記事の意見を求めました。「汚いって、普 通言うんじゃない」。私と家族は、夫婦でないから、離婚はできませんが、許せないと思いました。家族って、いったい、どういうものな のでしょうね。

右を全摘すると決まった時、叔母は「かだわになんのがわー」と泣きました。かだわは、差別用語です。でも、腹はたちませんでした。こ れから、他人にそう言われることもあるだろう。でも、こうして泣いてくれる人がいる限り、私はがんばれると思いました。全摘した後。 見舞いに来た同級生の男子が言いました。「おめえなんか、37年満足に2つ活用してこなかったんだから、1つで充分だあ」。とてもあ りがたかったです、変な話。この男子とは、中学からのつきあいです。

おっぱいがいくつあろうと、彼は、私をそんなことではくくらないんだとわかったからです。中途半端に大人になってから知り合った男の 人に、「あなたは、どうあっても、あなただ」とかなんとか言われたら、かえって立ち直れなかったような気がします。「1つで充分」。 最初に言ったのが、ヤツでよかった。同じころ、また別の男子も言いました。

「俺は、やっぱ、おっぱいが2つある女が好きだ。それと、オマエと友だちでいるってことは、別問題だからな」。これも、心にしみまし た。私の問題を、男子たちは、ちゃんと直視してくれてる。がんってわかった時、「オマエの葬式では、泣かないからな。でも、線香をく さるほどあげてやる」と言い、泣き崩れた男子もいましたけどね(もー、妻が気にするだろう、妻が)。

「死なないの?」。退院したばかりの私に聞いた女子の同級生もいました。「あなただって、死ぬよ」と返したら、とても不思議そうな顔 は、怒りの表情でした。人間は、産まれたからには、もれなく死ぬのです。その日がいつかは、わからない。がんだからって、死ぬわけで なく、その時が来たから消えるだけのことです。まあ、基本的に彼女は同級生であり、友人ではないということです。

私が友人と呼ぶのは、他人が聞いたら「なんだ、それ」ってひどい言葉でも、私の心に響く言葉、生きていく言葉を発してくれる人です。 同級生が多いですが、年齢に関係なく、みんないてくれます。だから、弱虫の私でも、生きていられるのじゃないかって思います。前出の 叔母ですけどね。時々、すげえなあってこと言うんです。手術が終わった度に、「あんだの目が、とっても美しくなってる。いがったなあ よかったなあ)、悪いどごとってしまって」。

私も、つい他の患者さんの目を見てしまいます。手術前は、不安だし怖いし、心細いし、だからって、目がきたないってわけではないけれ ど・・・でも、手術が終わると、本当に、みんな目が澄んで美しくなるのです。たくさん泣いて、今の自分を受け入れて生きていこうとい う決意の、目じゃないかって思います。それを、何を考えてるふうでもなく、サラリと言う叔母は、なかなかすごい(って、歯医者の予約 も、普段は自分ではできない人なんですけどね)。

家族は、何を言っても許される。それは違います。私は、家族と生きていくのは、言葉の面だけでも、キツイということがわかってきまし た。外科で切った傷は、時間が経てば、よくなるでしょう。でも、言葉で切られた傷に、薬はありません。私は、私を生かしてくれる「生 きてく、コトバ」に助けられながら生きていこう。遅ればせながら思っています。まずは、今回の手術の回復からですけれど。

<あとがき>

正月に、男子の42歳の厄払いの同期会があります。「行く?」「行けそう?」などと、今、連絡の取り合いをしています。彼の名前はM くん。T北大学を出て、某金融関係にお勤めしています。昔から、とーってもおとなしい人で、授業中の発言なんて、聞いたことありませ ん。品行方正・実直真面目が服着て歩いてる見本のようで、盆暮れ正月、GWなど長い休みは必ず帰省して、飲み会の出席率もきっと10 0%。昔よりしゃべるようにはなったけど、でも、しゃべらないかも。

なかなか嫁も来ず、まあ、独身の私も、心配しておりました。しかし、去年結婚していたことが、この同期会の連絡網の中で、発覚したの です!。私は、素直に、よかったよかった(どこのおばあちゃんだっ!)と思ったのですが、男子がうろたえました。「畠山、どうすんの や。あとがないべ、あとが」。私は、Mくんに友情以上の気持ち持ったことないっ、バカヤロウどもめが。

「TやAが、独身でいるさー」「ヤツラを、人質には出せん」。あん、なんですか、私と結婚する人は、人質なんですか?。でもね、この 同期会、迷ってるんです。あこがれの、Oくん(とっても美しい少年でした)も来るのかしら。こんなオバちゃんになった私を見ないで〜。 少女だった私だけを、記憶にとどめておいて〜。ええ、Oくんが、ザビエルな頭で、油ギッシュなオヤジになってたら、私も打ちのめされ るわけね。

どうしようかな、行こうかな、よそうかな。ダイエットは、間に合いそうにないし・・・。
じゃあ、また、来月。


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