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ようこそ、夏休み・No3



{No11}2003年12月16日更新分

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■【12がつのまえおき】
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『♪人恋しと鳴け、12月』になりました。初雪が、いきなり吹雪になりました。日差しがあるのに、底から冷える。やっぱ、今年は、冬 も変ですね。って、さっぱり12月だという実感もないまま、1月に始まる新企画の取材に忙殺されてる畠山です(新企画ゆえに、掲載日 も未定。頼むぞ、Y新聞県内版)。久々に、現場復帰で、楽しいです。

・・・でもね、新年の記事って(交通事故とか火事とか以外)、クリスマス前に書くんです。そうね、新年2週目くらいまで。だから、本 当に元旦が来ると、「えっ!、また来たの?」ってなります。 畠山は、フリーになってしまいましたが、この忙しい時期に、自分の書い た新聞を読む記者は、いません、ハハハハハハ。マスコミから離れたかったら、マスコミの中に入るべきかも。

で。あちこちで「年賀状」の声ききますが、書いてない、それ以前に買ってない(笑)。うちのもよりの局の、郵便窓口のH子ちゃんは、 とーってもかわいいんです。今年は、数年ぶりで、書こうかなあ。って、売ってるのか、まだ?。

今月は、『唯』と『ミヤウチ・SP』の二本です。よろしく!。

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■『唯』
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冬のにおいがすると、私は「ちゃんちゃんこ」の手縫いを始めます。まあ「ちゃんちゃんこ」と言っても、広幅のキルティングを利用した、 ごく簡単なものです。題して「合格ちゃんちゃんこ」。いとこの大学受験の時からなので、かれこれ20年くらい作っています。同居して いる家族じゃないから、「夜食作りました」とかでは応援はしてあげられないけど、エールな気持ちを伝えたい。

仕上げの際、「受かれ!」って気持ちを込めて、背中に、ちょいと刺しゅうをします。最初の5年くらいは、いとこたちの大学受験ラッシ ュだったもので、数は作りましたが、結果は「第二希望なら絶対。」でした。大学ですからね、第二希望でも、進学するのに、まあ、ダメ じゃない〜大学受験は、共通一次までだった私には、よくわかりませんが。 「第一希望は、実力だからね。第二こそ、私の応援すっとご だがらね」と渡すと、「おう、実力で入ってみせる」・・・ほぼ、第二に行きましたね。ハハハ(涙)。

作り方は、最初のころは、ミシンでダダダーてなもんでしたが、なんだか、イズイ。出来上がりが、大河ドラマのカミシモみたい(別に、 江戸を斬るのカミシモでもいいですけど)になりまして、試行錯誤しながら、現在のオール手縫いに至りました。肩にあたる部分が優しい のです。刺しゅうは、当然、最初からかわらずです。

いとこから、縫う相手も変遷していきました。知り合いの子供から、最近では友人の子供になってきました。病院でお世話になった、看護 学生ちゃんたち用に、「就職合格」(?)用も縫いました。で、おかげさまで、みんなの実力のおかげで、ここ10年では、ほぼ99%の 合格率になりました。あとの1%ですか?。今は、推薦入学制度もありますし、ギリギリ補欠もあるので、ハイ。縁起いいですよ。みなさ ん、いかがですか(笑)。

さて。先月も書きましたが、10月、40歳になる直前に、手術をしました。つまり、30代で、4回も手術しました(縫い目数えたら、 平均寿命数になったかも)。そうすると、世間的には、とーってもかわいそうな人らしく、「これは宗教じゃないのよ」とキラキラした宗 教目で、私を救いたいと申される人も来るようになりました。いつも言ってるように、他人の宗教は否定はしません。

でも、私は、自分はそれを持てないと思っています。念仏何万回唱えたら、幸せになれるっていうなら、言ってやろうか。ならないから、 人間なんだろーが。一応話は聞くんです。それでお断りすることにしてるのです。でも、です。今回のは、強烈だった。「生きられればい いです」と言う私に、「生きるだけでいいの?。人から頼りにされたくないの?。必要とされて、感謝されなきゃ、生きてるって言えない わよ」と。

バンザーイでした。結果的に、感謝されたら、それは素敵なことだろうけど、そう思いながら、誰かと毎日接しているわけじゃないもん。 見返りを求めて、感謝されることを求めて、誰かを救いたいというのは、私の中では、あり得ない。いっぱい病気して、いっぱいの人に助 けてもらいました。ほんでも、なかなか「私は、生きていく!」という覚悟もできないまま生きてる私にとって、ただ「生きられている」 ことが、唯一の恩返しなのです、今は。「生きられればいい」じゃ、ダメっすか?。

それがあって、幾日か後に、友人の長女が、沖縄・修学旅行のお土産を持って来てくれました。「あー、後餞別かしら」と、かつては自分 もやったことを想定しながら、ほーんとにちょっと、オバちゃんの気持ちを渡そうとしたら、彼女は怒りました。「そんなの欲しくて、買 ってきたんじゃない」。友人と私は、ぽかーんとなりました。母たる友人には、カトちゃんのキーホルダーのみ。

私には、魔よけのシーサーキーホルダーに、ちんすこう・・・。「高校受験の時、ちゃんちゃんこ、贈ってもらったさー」「えー、やった っけ」。鳥頭な私は、ちゃんちゃんこは合格をいのって作りますけど、誰にあげたかは、忘れるんですう〜やったつもりで、あげてない子 もいる・・・ごめんよお。

「あの布が、沖縄ティストだったでしょ」。ハイハイ、あの年は、ちゅらさんの年でした。「ずうっと、なにかお礼したいと思ってたけど、 沖縄着いたら、ちゃんちゃんこにあった風景がいっぱいあって、あー、えみちゃんにお土産買おうと、と思ったんだ」。シーサーは、彼女 なりの私の病気への威嚇なのでしょう。

「親の私には、カトちゃんだけで、あんだには2個も買ってきたんだから、もらって。ところで、ちんすこう、うちには買ってこなかった から、食べていい?」と、友人はニコニコしていました。後餞別は、「煎餅は、別腹」の意味で受け取ってもらいました。高2の彼女は、 私を、友人と同じく「えみちゃん」と呼ぶことになり、メールアドレスも教えてくれました。もう、確実に私の若い友人の一人です。いや、 私が、彼女の友人に加えていただきました。私、彼女から学びました。いやあ、すっごくうれしかった。

時々、「高校受験に作ってもらったのが、ボロボロしてきたから、大学受験用に作って」ってオーダーくる時も、うれしいなあって思うし、 いまや立派なナースになった学生ちゃんも、「冬は、寒いので着てます」とのこと。なんか、そういうことなんだと思う。気持ちって。

ここ数年は、受験用にだけでなく、2歳までの新しい命たちにも、ちいさなちゃんちゃんこを縫います。それは「産まれて来てくれて、あ りがとう」の意味です。きっと記憶には残らないだろうけど・・・あなたたちが、受験生になるまで、オバちゃんは、生きてて、また縫う からねの意志表示かも。今期は、受験生がいないので、ゆーっくりの時間をかけて、ちいさな「ちゃんちゃんこ」を作ります。それが、宗 教という言葉遊びよりも、私の身体に効くはずだから。

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■『ミヤウチ・SP』
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11月27日木曜日、朝、あなたは、何してましたか。キャー。それは、残念なことをしましたね。「動く、宮内充」を見過ごしたのです ね。・・・って?。

宮内先生(代表?社長?、どれがいいですか)と私との出会いは、平成15年になってからです。14年の暮れから、遅ればせながら、イ ンターネットを始めた私は、BS社のHPの中に、自分がかつて新聞に書いたものを発見しました。(著作権の関係とやらで)原文とは違 うくなっていて、こりゃあ、書いた本人が「全部載せて、いいっすよ」と挨拶すべきかと、メールしたのがきっかけです。

「ブレストサービスの、宮内です」。一番最初のメールは、とてもとてもさわやかでした。手編みのベストを着た、若き日の三浦友和が、 緑鮮やかな山の中を颯爽と自転車こいでいるような、さわやかさ(って、どんなだ!)。世の中には、こんなさわやかな人も、いや、医者 もいるもんなのねーと思いました、とても強烈に。

縁(と事情があって)、2月から「ようこそ 夏休み」を担当させていただくことになりました。でも、4月までは、メールのやりとりだ け。いや、1回だけ、時間外のBS社に電話したら、やたら暗い声で「はい」と男の人が出たので、ソッコー切りました。でも、4月に、 今後の原稿の打ち合わせで電話した時、どうしても先生としゃべらなくてはいけなり・・・「緊張だわ。困るわ」。出てきたのは、「はい」 男さんでした。

双方の電話の調子が悪くて、先生の低い声が、なかなか聞き取れません。「・・・で、できますか?」。プチ。内容はわからないが、私の ライター魂に、果たし状突き付けられたと思いました。「プロだから、当然でしょう!」(本心は、喧嘩上等!)。あのさわやかなメール の「宮内デス」は、いったい誰なの?。 翌日私は、BS社の看板娘Kさんに問いました。「先生、きのう、かなり機嫌悪かったんだべか。 それとも、私が怒らせたんだべか。先生って、いつも、あんな風にしゃべるの?」。答えは、「特に変わったことは・・・」。 

そうか、メールの人と実物は違うのか?。
私は、宮城県にいますので、先生の直接の患者じゃないですし、BS社に行ったこともないので(恐縮)、さらに口は達者だが、人見知り (ウソと言わないで)なので、約2カ月くらい、K嬢を介しての連絡でした。じゃあ、どこでまた先生とつながったかと申しますと、6月 あたりの先生の原稿です。『知事の退職金と、自分の医療への貢献度』(正式タイトル失念)を読んだ時、「あっ、先生、ハジケタ」と思 ったのです。勤務医と、社長業のギャップが、ハジケタと。

この夏については、しつこいくらい書いてますけど、地域医療に全く信頼が持てないっていうか、医療が信じられなくなっていました。で、 こともあろうに、先生に、こんなんですけどと、チクリ・ぐちメールをバンバン出しました。いやあ、直の患者でもなく、会ったことない 私に、「べらんめえ・宮内」は、たくさんのエールを贈ってくださいました。言葉数の多さじゃなくて、それは、心でした。

宮内先生は、マジで、乳がんに向かい合おうとしている。勤務医のが、絶対に楽なのに、あえて、違う角度から、BS社を通して、乳がん の患者に寄り添おうとしている。切るのも治療だけど、BS社、そして、先生の存在そのものが、治療だなと思います。私は、めったに褒 めないし、社交辞令も好きじゃないので、そう思わなかったら書きません。

でも。「さわやか宮内」「ボソボソ宮内」「べらんめえ・宮内」は、私の頭の中で、なかなか同一人物にはならなかったのです。「花まる マーケットに、出ます」。そうお知らせをいただいた時(お知らせいただいただけでもうれしかったし)、「これで動く、宮内充が見られ る」と小躍りしました。

「僕だって、動くさやァ」と、ナイスな返信をいただいたりして。いやあ、当日まで、ドキドキ。当日の朝なんて、こっ早くから目覚めち ゃって、遠足に行く子供みたい。新聞の番組欄を見て「キャ!」って叫んだもん・・・。いやあ、「動く宮内が、出た!」。あれ?、どっ かで見たことあるわ。世の中には、3人似てる人がいると申しますよね。HPの肖像写真の先生じゃなくって・・・ベガルタ仙台の清水( 元)監督(J2降格、無念)?、私の元上司の千田部長?。えー!!!、そんな状態で、ございました。

以下は、番組終了後に、先生にさしあげたメールです。先生に「そのまま原稿にしたい」とおっしゃっていただいたので、そのまま出し ます。

『・・・先生だって、超早起きなのにいいいいいいいい。拝見しました。なった者の立場から言えば、「そんなこと常識だろう!」。と、 先生が出てくるまでのVTRで思いました。手のひらで、のの字と言ってて、指先が映ったりねー。国営放送の健康番組よりタチが悪いつ ーか、それだけかい!なんですけど。私は、島○ちゃんの患者にはなりたくないなあ。女性同士の方が、容赦なく「我慢」を強いると思いま した。なんでて、彼女が、専門医で、先生が、コンサルタントなんですか?。どう考えても、先生のが、医師の先輩じゃないですか。

そのために、会社立ち上げてるのに。どう考えても、先生が、スタジオでしゃべるべき!。そこも、白い巨塔なんですかね。病院に行って みようって、大きな病院に、入るVTRは、変だよ。と、実質、発見や検査に必要ないVTR、多すぎ。芸能人の体験談は、お涙ちょうだ いで、辟易だけど・・・。「2000円でできます」とか「4000円くらいです」じゃないでしょ。自分の身体なんだから。

レポーターも、自分は絶対にならないと信じてるから、「女性にとって、大切な部分」とかなんとか・・・、説得力がなかったですううう う。ヤッくんは、超やる気なさげ。

で。動く先生、しゃべる先生は、頭の中、つながったように思います。スタジオでみたかった。コンサルタントなら、どういうアドバイス をするとこなのか、説明してくれても、テロップでも、欲しかったなあ。インターネット検索で見るだろうけど。って、先生。緊張してま した?、ムッとしてました?、普通ですか。BS社内は、キレイですねえ。って、どうして、先生に、ふれない、畠山!。と、頭の中で、 反芻しながら、また、メールします。 でも、先生に「会えて」よかったー。*しかし、○田ちゃんは、中途半端過ぎ。木曜日 なら、宮内先生も、出られたのに。早見優のとなりで・・・。』

(ちなみに、島○ちゃんとは、スタジオでコメントしていた、どっかの大学の女医さんです。読んでたら、ごめんなさい。悪意も敵意もあ りません)

見たみなさんも、いろいろな感想ございましたでしょう。本当は、宮内先生が、スタジオでコメントするべきだったと思うでしょう?。  でも、まあ、15分くらいの1コーナーじゃなくって、BS社的「プ○ロジェクトX」風ドキュメントは、いつか必ず作られると思います。 私はその日を待ちます。そこで先生に、「語る、語る」をやっていただければと思います。BS社は、それだけ価値のある、宮内先生の会 社なんだからね!。読んでる?、TB○。

BS社という船は、まだ漕ぎ出したばかりです。先生の理想や理念が、全部表現されてるわけではないと思うし、これからなんだと思いま す。だから、私は、先生のこれからを、ずっと見ていこうと、決めました。先生のいろんな様は、まだ、頭の中で一致しないけど・・・「 畠山、ジャマ(怒)!」と足蹴にされても、しぶとく、先生の脚にしがみついていこうと思ってますけど、どうでしょう、先生。やっぱ、 早見優ちゃんのが、いいですか?(笑)。

あとがき

今年を振り返りましょうか。もちろん、これを、新年に読んでくださってるあなたには、去年のことですけど。また手術?で明けて、結局 手術になって、でも、すこぶるその手術が正解だったという、やっぱ手術な年でした。その中で、40歳にもなりましたし。この手術につ いては、年末のテーマでは重いかなと、今月ははずしました。期待してくださった方、ごめんなさい。

いろんな人に出会って、いろんな気持ちをいただいて、なーんか、「こんな私でも、生きてていいんだなー」と思えた年でした。今、私の 周囲、特に家庭(独身なので、拡大解釈はしないでね)は、シビアな状況です。 それでも、それが、これから生きていく訓練なんだろう なと思います。

来年は、姪が一人増えるはずです(甥だったら、ごめんよお)。
まけずに(?)、恋でもしてみたいかなと思う畠山デシタ。
今年は、大変お世話になりました。
佳い年、とってください。
じゃあ、またね。

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{No12}2004年1月27日更新分

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■【1月のまえおき】
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業務連絡。『宮城県古川女子高校・衛生看護科・閉科式』は、2月18日(水)午後古女体育館で行われます。関係者の参加自由です。記 念碑の寄付の受付も、まだOKです。来ませう。待っています。〜地域医療に37年貢献した科のラストを、同窓生みんなで、飾りましょ う。

さて。明けました・・・って、もう目前に2月ですね。今月は、BS社の都合で更新が、ちょっぴり遅くなったみたいです。決して、畠山 が、「書けません」と逃げてたわけではありません。ハハハ。「もう、書かないんですね」とメールをいただきましたが、違います。先月 書いたじゃないですか、宮内代表に足蹴にされても書くって、ハハハハ。でも、最初に出した原稿と、今の気分では、ちょいと違うくなっ たので、書き直ししたんですけど、これって、ズルですか?。

元日に、この23年で一番、会いたかった人に会いました。大人にはなっていたけど、変わっていませんでした。男のかえはいるかもしれ ない。けど、友だちと、ある時間を共有した『先輩』のかわりは、いない。強く、そう思いました。

「元日に、今年分のいいこと、みんな使ってしまった」と嘆いていたら、仲良しのお茶屋さんの奥さんが、「元日から会えて、うれしいこ とから始まったんだから、今年は、いいことばかりだよ」と。なるほど、なるほど。 じゃあ、どんな、いいことが、今年待ってるのかしら ・・・、楽しみ、楽しみ!(・・・そうそう、Y新聞県版、新企画も初日一号とりました。で、隔週レギュラーだそうです・・・ご報告で した)。

ってことで、今月は、『親愛なる、ソニアリキエル様』と『ババア』の、妙にミスマッチなタイトルな2本で、行きます!。よろしく!。

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■『親愛なる、ソニアリキエル様』
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なんにも思い出すことなどなかった20代に、私が、読んでいたのが、森瑶子さんの作品です。文庫本になってるのは、たぶん全部読んで います(ハードカバーは揃える財力はなかったんで)。でも、一番、お金がなかった時(今の貧乏状態とは、別)、毎月1冊づつ出た全集 を揃えました。

森さんは、自分のことを「モリヨーコ」と表現します。私の中で「森瑶子」が「モリヨーコ」に変わったのは「PAIN」という小品を読 んだ時でした。彼女のデビュー作というか代表作といわれる「情事」は、実はまだ読んでいません。それは、私自身が、ちゃんと大人の女 性になってから読もうと決めているからです。

夏帽子をかぶって、近くの海まで散歩に出掛けるように、モリヨーコが逝って、今年で11年になります。63歳のモリヨーコの作品も読 みたかったなと思う反面、彼女が最後に残した言葉「泣かないで」を、私も、この7年かみしめてきたように思います。

さて、モリヨーコの作品の中に、「ソニアリキエル」というブランドがよく登場します<私は、ブランドマニアでは、ありません。ブラン ドはグンゼの下着くらいしか興味がない・・・ハハハ>〜同様に「エリックサティ」の音楽もありますが〜。暮れに出た『婦人公論』の表 紙の「岸恵子」さんを見た方、みなさんの中にもおられると思います。あのニットが、ソニアの作品なのです。岸さんの生き方が、ソニア の作品性を高めていることは、多々あるでしょう。

ソニアの作品って、ちょっと間違うと、下品になるんです。自己節制している岸さんって、すごいなあ。さてさて。私は、乳がんをしてか ら、ニットは着なくなりました。右全摘をしてからは、前開きのシャツしか着なくなりました。ニットのかぶりものなんて、身体の線が出 るものなんて、避けて生きています。

じゃあ、再建まではいかなくても、パットを入れればとおっしゃる方もいると思われますが、それは、私のポリシーじゃないのです。それ については、このHPの中で、何度か書いてきたと思います。「大人の女になれたら、ソニアを着るはずだったんだよな」。岸さんを見て、 乳がん前の想いが、フツフツと蘇ってきました。

まあ、この田舎で、ソニアは売ってませんし、また、持ってても着るような機会は今は少しもないのですが・・・。だから「親愛なる、ソ ニアリキエル様」。右おっぱいがなくても、左おっぱいの形がいびつでも、身体のラインがすべらかでなくても、あなたの作品を、私は着 ることができるでしょうか。

インターネットで、あなたの会社の連絡先を探してみましたが、見つけかねてしまいました。だから、ここに書きます(日本では、O社が ライセンス契約してるまではわかったんですが)。ニットには、こだわりません。あなたの作品が着たいのです。できれば、木綿100% の素材でお願いしたいです。化繊を着ると、肌が負けてしまうのです。あなたは、こんな東洋の国の、一人の乳がん患者のために、洋服を 作ったりはしないのでしょうか。

もちろん、今の私には、あなたの作品を買うべき、充分なお金は持っていません。それ以上に、まだあなたの作品を着こなせる大人にもな ってはいません。それでも、いつの日か、あなたの作品が着られる日が、来ることを切望しています。以前、あなたのインポートもので、 素顔用の口紅を買いました。もうちょっとしかないけど、大切に使っています。去年の暮れに、それをあなたが見ていたかのように、クリ スマス用の口紅のパレットが、当たりました。

雑誌のプレゼント欄にある、あなたの時計・バック・スカーフなどなど、当たりました。だから、ニットへの希望も捨ててはダメな気がす るのです。あなたの作品を、着るかたちで、所有したいのです。あなたが描くシャープなデザイン画のような体系ではないし(きっとなれ ないかな。そこまで痩せると、かなり心配だもん)、せっかくの黒髪をフラッパーなパーマにするつもりもないけれど。

モリヨーコが、あなたのニットを着て、「オーソバージュ」をつけて(この香りもまだ私には、強いみたいです。持ってますが)、特別な 人に会いに行った時の思いを、私も共有してみたいです。少しは、大人に近づけるかしら。おっぱいがないままの身体にも、フィットする デザインを描いていただけませんか。

ソニア、あなたが、このHPを読むことは、すごく厳しいと思うけど、可能性は0ではないと、私は、信じています。1本の糸が、身体を おおう形になり、一枚の布が、身体を引き出させる、そんな魔法をかけてください。きっと、私、自分に自信が持てるんじゃないかと思い ます。モリヨーコは生きていたら、なんて言うかしら。・・・きっと、ただ、ほほ笑んでるだけだろうなー。

◎ O社は、ジャンポールゴルチエというブランドも所有しています。私のいとこ(24歳)が、池袋のショップにいます。お近くの方、 行ってあげてくださいな。最後に、・・・宣伝デシタ。

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■『ババア』
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5年ぶりに、年賀状を書いてみる気分になりました。喪中欠礼を出すまでもないが、書けない年もあったし、「大晦日の翌日に、新しい気 持ちでがんばりますなんて、言えない」と書かなかったこともあります。その代わり、年が明けたら、寒中見舞いと称して、お一人お一人 にお便りを書いてはいました。

5年ぶりだと、誰に出していいのか、どう書けばいいのか忘れたなと苦笑しながら(普段、メールや電話でチョクチョクの方はごめんなさ い)なんとか、暮れに投函しました。特に、宛て先不明で戻ってくることもなく・・・薮入りの日、宛て先不明でも転居先不明でもない、 見たこともないような判子の押された一枚の年賀状が戻ってきました。

7年前、3病棟の同じお部屋で、一緒だった、超仲良しのおばあちゃんに出した年賀状でした。 すぐご自宅に電話しました。「12月13 日に亡くなりました。子宮がんって診断されて、10年、放射線かけて、6年でした」。大正4年生まれの八十八歳。薮入りの日は、五・ 七日にあたり、友人にサヨナラを告げる日だと、私は思っています。

「ババア、やりやがったな」と思いました。 あの夏、3病棟4階407号室は、33歳の私が入っても、平均年齢80歳にしか下げられな い部屋でした。でも、おばあさん大好きの私には、願ってもない部屋でした。「ババア」と「ねっちゃ(姉ちゃん)」は、隣同士のベット で、カーテンは開けっ放しで、仲良く寝てました。早朝にたたき起こされるのもしょっちゅう。自分んちに電話してくれと起こすのです。

朝の4時は、お嫁さんだって寝てるに決まってるつーの。6時くらいまで、なんとか待たせて、かけました。また、お風呂も一緒に入って ました。シャンプーも背中をこするのも当たり前のことでした。そうそう、洗濯物も一緒に回してた。他のおばあちゃんたちには、「本当 の孫のようだ」と泣かれました。でも、自然なことです。

「ババア」は、放射線をかけると、すぐ、便意をもよおします。でも我慢して、病棟には、いつもウンコまみれで帰ってきました。若いナ ースに「ごめんなあ」と詫びながら、始末してもらっていました。私、生きるってことの本質を「ババア」から学びました。ウンコまみれ になっても、人は、生きなければならない。そんなことは、生きて行くことで、なんら、恥ずることではないと。

私が、トイレで下痢と貧血を起こした時、ババアは、トイレのタイルにペターっと座って、「ねっちゃ、オレいるからなー」と1時間以上 も声をかけてくれました。本来、そこでパニックの発作を起こす私が、なんとか乗り切れたのは、「ババア」のおかげでした。「ババア」 は、尿漏れ用に、私のナイト用のナプキンを欲しがり、私は、ウンコ漏らし対策に、ババアのオムツが欲しくて、交換したこともありまし た。お互い、使うことはなかったけれど。

私たちは、他人だったけど、でも、いつかどこかの世界で、祖母と孫だったと思います。私の二人の祖母も、「ババア」と同じ年生まれで したから、祖母たちが「ババア」を遣わしてくれたのかもしれません。お盆休みの外泊が許された「ババア」は、一人部屋に残る私を心配 して、遅れて帰って、さっさと戻って来ました。私たちは、毎晩、ニコニコ笑いながら、寝ました。私は、眠れなくって、「ババア」のと っても可愛い寝姿を見ながら、横になってました。こういう年とりたいと思いました。

放射線をかけて、6年。それは、「ババア」の年齢からして充分に生きられたことでしょうか。同じ部屋のもう一人の同じ年のおばあちゃ んは、8カ月で逝きました。それは、とても無念だったし、悲しかった。でも、「ババア」には、「お疲れ!」なんです。82歳で、放射 線に命託した勇気。

退院してから、電話では話すことがあったけど、一度も会わないままでした。ここ3年は、入退院を繰り返していて、ご家族の負担も大き くて、こちらからの電話は控えていました。「ババア」は、あんなに強気で明るかった「ババア」は、この3年「すまないな」を繰り返し ていたそうです。時々「ねっちゃ、いたよな。なにしてんべな」と思い出してくれてたそうです。

「ババア、会いにいかずに、ごめんなあ。私は、もう一回、乳がんやって、この前も手術したんだ。ごめん、ババア」。「ババア」。もし あの世というやつがあったら、3病棟のみんなと待っててね。みんなに迷惑かけちゃ、ダメだよ。私が行ったら、また仲良く遊ぼうね。っ て、まだまだ行かないけどさー。

・・・そして「ババア」は、私に、最後にお年玉をくれました。その年賀状は、私が出した50枚の中で、唯一(切手シートだけど)当た りだったんです。「ババア」が、エヘっと笑った顔が、見えました。「ババア」、ありがとう。そして、出会えてよかったよ。ありがとう。

あとがき

で、同期会は、行きませんでした。これも「更新されてないんだけど」に、おまけのように問われました。「いい出会い、ありましたか」 と。たぶん行っても、なかったでーす。同級生には、手を出しませーん(但し、同じ中学に限る)。友情はあふれてるが、愛はないっ!。 って、家にいるから、途中で呼んでねって頼んでたのに、誰も、電話くれなかった。グスン。翌日「なんで、来なかったの?」と電話くれ たのも、翌々日に東京に帰る前に寄ってくれたのも、男同士の友情たる男子でした。

あこがれのO君が来てなかったと教えてくれたのも男子だったわ。「モテモテ?」。違います、きっぱり。モテモテなんて、昔もなかった さー。男子は、間違いなく、私も「男子」だと思ってるねー。して、ぼちぼち、特に仲良しじゃなかった男子が、実家通して「なんんで、 来なかったの?」と言ってきたりして。だから、当日、呼びなさーい!。

でも、生きていれば、会えるから。みんな、もう40歳なんだから、充分自愛して、健康でいてね。健康じゃなかったり、元気じゃなかっ たりしたら、畠山が、バカ話してやっから、電話ちょーだいね。メールでもいいよん。かくして、やはり、愛は、他でひろってこないとマ ズイらしい(苦笑)。

赤灰色の地吹雪が、まるで空へと昇っていくような、古川から・・・また、来月、お会いしましょう。

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{No13}2004年2月20日更新分

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■【2月のまえおき】
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「おかげさまで、『ようこそ、夏休み』も、1年になりました」。「如月」ですねえ。これを、「きさらぎ」と即読でき、しかも、2月の ことだとわかる世代って、どこらへんまでなのでしょうか。連日、−10度台の朝らしい、古川です。違うのー!。百葉箱がさー、何にも ない〇大崎の農事試験場に移ったのさー、だから、野っ原だからさー、冷えるに凍てるに決まってるって!(そのかわり、夏は、輻射熱で ムチャムチャ高温)。−10度なら、洗濯機の水も凍るさー、凍んないんだもん、そんな最低気温、有り得なーい。

テレビ局って、宮城県の場合、仙台がほとんどなんですが、朝のお天気おねーさんの彩子ちゃんも、お天気おじさん(しかし、私より年下) の齋藤さんも、本当の最低気温、マチバの最低気温、言おうよ。なんなら、夕方のニュースの林さ〜んでもいいです。

って、放射冷却になる朝のちょっと前の時間、夜中の2〜4時が、ほどよい寒さで、実は大好きな畠山でした。水道の水も、優しいよ。 さて。今月は『譲』と『ちよのさん』の、放射線科:2題でいきます。よろしく!。

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■『譲』
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いつも彼は、3病棟4階にいた。彼と出会うまで、『放射線医師』という職業があることさえ思ってもみなかった。事実、彼と出会ってか らだって、それがどういう仕事なのか。例えば、外科のように切ったハッタするわけでなく、内科のように「お薬、出しておきましょうね」 と流すわけでない、放射線医師という仕事は、わからない。

飄々として、言葉を多様しない彼は、おじいさんに見えた・・・現実には、出会った時は、まだ50代であっただろうに。彼は、言葉で、 放射線治療というものの説明を、ほとんどしなかった。「照射が終了しても、あまりかわりはありませんよ」と、聞き取れない声で、ボソ ボソと言った。

ボソボソとはしゃべるものの、放射線治療前の「放射線室」でのシュミレーションの時は、技師にテキパキと、何かを告げていた。彼は、 ほとんど3病棟のナースステーションにいた。午前中の外来診察や午後の放射線にまつわる他の仕事も絶対にあったのに、彼が、いつもい た記憶しかない。

夜も、きっと、家に帰ってただろう。でも、何日もナースステーション内にいたことを、みんな知っている。最後の最後に闘って逝く命を 見守るために、彼はいた。一度だけ、彼が定時に帰る姿を見た。傘を軽くスイングさせながら、中央玄関に向かって歩いていた。ちょっと 誰だかわからなかった。「先生!」。「アッ。さようなら」。彼は、はにかみながら小さくあいさつをした。その晩は、なんだか、心細か った。

私が下痢をした時、彼は「それは、君の性格だな」と言った。廊下をスタスタと進んでいったかと思ったのに、踵をかえして戻ってきて「 元気?」と、彼は聞いた。「はい」。「じゃあね〜」。用事はなかったらしい。でも、きっと、私は、険しい表情をしていたのかもしれな い。「いっぱいしゃべってる時は、案外緊張してる。他人から見たら、イライラしてくる細かい作業を無言でやってる時ほど、リラックス している。なかなか、理解してもらえないね」と、彼は、私を評した。

彼は、放射線照射で、起こりうる身体の変化を、最初から説明することはなかった〜説明が、なんの意味をも持たないことを、今なえば、 わかる。だからこそ、彼はただ、一人一人のことをちゃんと見ていた。抗がん剤投与の時、彼は、朝から、その患者さんのそばにいた。何 をしゃべるわけでなく、なんとなくそばにいた。投与が始まると、手をしばらく握ってくれていた。

私たちは、自分たちが、生きるためにこの3病棟に来て、生きるためのキツイ治療を自ら選択したことの『憤り』を、すべて、彼のせいに した。彼は、甘んじて、それを許していた。医者というのは、職業であり、すべからく人間でしかないのだけれども、彼は、私たちにとっ て、『神』だ。放射線治療というものが、戦後の医療で、まだまだ解明されていないことが多い医療だという中で、彼は、プロの放射線医 師だ。

彼は、この3月で、国立仙台病院を、退職する。彼を支えてきた多くのナースも、技師も、私たち生きられている患者も、そして、先に逝 った患者たちも、今、途方に暮れている。「私たちは、これから、何を『正しい』として進んでいけばいいのですか」。それでも、彼には 彼自身の人生がある。私たちのために、長い間我慢してきた家族がいる。もう、彼自身の思うままに生きていいんじゃないかと思う。

でも。退院する時「左乳房は、繊維質になって、かたくなるから」と、彼は言った。私は、心の中で、彼に、飛び蹴りをして、首をしめて いた。最初に、かわらないって言ったのに。あれから6回目の冬にいる。そして、彼が、あの3病棟から、永久に不在になる報を愕然と、 聞いている。

「なにもかわらない」。そう、なにもかわらなかった。着られる服の種類とか、行動に制限があるとか、それは、放射線をかけなくても、 人にはいろんな理由で有りえることだ。「なにもかわらない」。人は、少しずつかわっていくから、「なにもかわらない」でいられるのだ。 がんを得ていようと、病ひとつしたことのない身体であろうと、人間は、同じだ。そして、また、誰一人同じでは、ない。

3月までに、彼に会いに行きたいなあと思う。けれど、きっと行けないとも知っている。いつか、どこかで、そう「病院」ではないところ で、会えるような気がする。『彼』は、私の、放射線科の主治医、『中村先生』です。

<一月末に、某週刊誌に掲載したものの原文を、付記します。>

◎『私が出会った名医』

放射線病棟と言っても、そこはまぎれもなく「がん病棟」だった。たった7年前のこと。県内のあちこちの病院から、状態のマズイ者が集 められていた。放射線と抗がん剤に最後の希望を託して、そこにいた。

「中村オジイ」は、プロの放射線医師だ。きっとオジイと呼ばれるより若かったと思うが、鼻毛だけでなく、耳毛も「すごく」て、より年 よりにみせていた。言葉数も少ないし、いつも飄々としている。でも、彼が何日も家に帰らない時は、どこかの病室で最後の闘いをしてい る証しだった。

放射線も抗がんも、ドラマや闘病記で描かれるよりきつい。それをしなければ明日はないと理論では知ってるのに、心をぶつける敵は、中 村先生だった。「中村のバカ」と私たちは言った。先に旅だって逝く者は「あっちで指力鍛えてるから、あなたが来る時、オジイも一緒に 連れてきてね。耳毛抜くべし」と。 確実に聞こえてるハズなのに、中村先生は、言うことを許してくれた。

私が二度目の乳がんの時、告知された病院で「今までの治療は無駄」と言われた時も、電話口でオジイは「無駄じゃないさ。がんばったさ。 帰っておいで」と言ってくれた。私は、躊躇なく、オジイのいる病院に帰った。オジイは、3月で定年になる。放射線医師は、開業もでき ないし、これからどうするのかなと思う。でも、あの病院に、オジイがいなくなったら、私はどうしたらいいんだろうとも思う。大きな病 院の医師が去る時、初めて人望の厚さを知る。

オジイの鼻毛も耳毛も放射線のせい。定年したら、どうぞ念入りに抜いてください。そして、カルテの文字が読めないので、ペン習字でも 習ってください。私たちは、あなたの「放射線病棟にいつもいるからね」に、命を支えてもらっていたのです。今度は、病院でないところ で、会いましょう!。

◎病棟に、この週刊誌を送ったら、なんか『彼』もニコニコしててくださったそうです。・・・だって、みんなからのラブレターだもん。

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■『ちよのさん』
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重大な知らせを、突然聞く時って、私は、かなりトンマな状態でいます。戦友の余命を聞いた時は、ショッキングピンクの靴下を、左足だ けに履きかけていました。「母が、さっき、逝きました。穏やかに、逝きました」。朝一番の電話を、私は、爽やかに元気良く受け取った ように思います。

ちよのさんと知り合って、丸6カ月目の寒い朝でした。ちよのさんが、放射線をかけ、抗がん剤の投与を受けて8カ月、退院してから3カ 月目の旅立ちでした。82歳。私には、姉とも慕う医師がおります。「老人の8カ月というのは、あなたたち30代の3〜4年にも匹敵す るから、生きられたほうじゃないかな」。私は、彼女の言葉をかみしめて生きていますが、この言葉だけは、6年たった今でも、許せない 唯一の言葉です。

「誰にとっても、いくつであっても、8カ月は、8カ月。8カ月で終わってしまう命なら、あんなに辛い治療なんてしないでよかったんだ」。 ちよのさんのベットは、私の左斜め前でした。4人部屋ですからね。礼儀正しく、腰が低くて、上品な、きれいなおばあちゃまでした。若 いころから、いろんな病気をなさったと、他の病室の患者さんから聞いたけれど、ちよのさんは、私に、それを、語ることはありませんで した。

こんな若輩、情けない私を「恵美ちゃん、これはどうしたらいいの?」と、日々たててくださいました。私が絶対に間違ってることを言っ ても「そうね、そうね、きっとそうだわ」とおっしゃってくださいました。ちよのさんは、ちょっとオチャメです。「私、牛乳は飲めない のよ」と言いつつ、森永・カル〇スを毎日グビグビ飲んでました・・・まぎれもなく、それは、牛乳。誰がふきこんだかしらないけれど、 白血球の減少をおさえるためには、カルシュウムを含んだ飲料が良いと・・・、ちよのさん、素直なんです。

放射線照射と抗がん剤の副作用が、ダイレクトに出てしまった日、私は、一つの求人広告を見つけました。元の職場の求人でした。元上司 に電話をかけ、秋になったら、退院したら、もっと頑張るから、もう一回働かせてくださいと懇願しました。否。あの職場のハードさは、 たぶん、今の私にも無理です。でも、待っていてくれる職場があれば、今起こってる副作用はなかったことにできる。

がんになんかならなかったことにできる。上司は「今、君がしなければならないことは、がんを治すことだ」と言いました。めまいと立ち くらみする中、私は、しばらく、公衆電話の前で泣いていました。しゃくりあげながら、部屋に戻りました。涙が先で、泣いている理由も 言えませんでした。

「こんなに、こわい思いをしているんだから、生きてるだけでいいんだ」。ちよのさんが、重い声で言いました。「だって、ちよのさんは、 結婚もして、子供も産んで、社会にも貢献して、80歳まで生きてきたんじゃない。私なんて、待ってる人もいなければ、何も未来なんて 見えないもん」。

「息してるだけでいいの。息して、生きているだけでいいから、生きるの。何もしなくていいから、生きていなさい」。ちよのさんは、一 晩中、この言葉繰り返してくれました。この6年、「もうダメだ」ってことのほうが多かったように思います。でも、必ず、ちよのさんの 「生きてるだけでいい」が、私を生かしてくれているのだと思います。

・・・ちよのさんが退院して1カ月しかたっていない、世の中は、クリスマスでうかれてるころ。「もうなくなったおっぱいの跡に、また おっぱいができたの。家族には、言えない」。ちよのさんから電話がきました。私はウソをつきました。「それは、放射線の後遺症の湿疹 だよ、大丈夫」。がんのばかやろう、と思いました。

私たちが、まだ同じ病室にいた夏。ちよのさんが、外泊から戻った時のことです。ちよのさんの旦那さんは、長いこと自宅で闘病なされて いました。結婚生活も、とっくに金婚式も過ぎていました。「ちよ。ちよ、だべ。帰ってきたのか」。意識はないはずなのに、そうはっき り言ったのだそうです。「ちよ、って、私の名前は、ちよの、なのにねえ。でも、結婚してから、初めて名前を呼んでくれたんだよ」と、 うれし涙を流しながら、毎日毎日、話してくれました。

その旦那さんは、ちよのさんが逝って、丸1週間後に、逝きました。私は、みごとだと思いました。あれから、6年が過ぎ、先日七回忌も 無事に済んだとご連絡をいただきました。ちよのさんにとっての、8カ月が、本当に、充分なものであったかの答えは、私は出せないまま で、います。

あとがき

先月書きました、ソニアについて「あなたは、立派な大人の女性だと思うので、着たらいかがですか」というリアクションいただきました。 んー。無理。16万8000円のカーディガンを、普段着で着られますか?。3点いくらじゃない、高級クリーニング店に、当たり前のよ うに出せますか?。無理だ。

冬物バーゲンも最終戦になってきたので、奇跡的に残っていた花柄刺しゅうのついたジーンズ(4900円が、1900円だっ)を、購入 しました。畠山、実は、ジーンズ縫製仕上げ業の子〜父の事業だった〜でもあるので、ジ−パンに金を払うのは、かなり抵抗がある。ショ ップの人が、中途半端うんちくを言うと、シーンズの成り立ちから「そこに座って、お聞き!」と言いたくなる。やったことはないが。

いや、そのジーンズがね、裾がね、16センチもつめなければならなかったんですねー。アームカバー作れますねって、長さですね。そう いうヤツが、ソニアを着る日は、来るのでせうか?。うーん。同じ会社(ジャンポール・ゴルチエ池袋店勤務)のいとこ(「サクライ」と 申します、よろしくとのこと)にも、「担当の人に、HP読んでもらってね」と頼んだが、まだ連絡は来ない(って、待ってれば、来るの か!)。

いや、岸恵子さんくらいになるまで、待ってます、ソニア☆。。
…なんか、冬眠から脱出しないといかんな。じゃあ、また、来月。

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{No14}2004年3月15日更新分

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■【まえおき】
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他の部所のがんは「人生ありかも」と思っていた33歳に、突然、乳がんがきた。びっくりした。もっとびっくりしたのは、退院の時もら った保険の診断書だった。「病名:乳癌。発祥の理由:不明」。いつしこりに触れたかも、その前の体調の変化も、告知からの毎日も、全 部言えるのに、発祥の理由は「不明」だってよ。こっちが、びっくりだぜ。 人間は、3日で立ち直るそうです。どんな悲しさも喜びも、4日目には日常になってしまうそう。私も、やっぱ3日は悩んだけど、4日目 にはちゃんと腹がへってました。 『悪い人に来ちゃったわね。私は、あんたのことを全部見て、全部書いてやる。もう全部ネタにする。覚悟しいや、がん」。6年経ても、 私は私の身体に日々起こることを見ています、語っています。書いています。だから、キレイゴトじゃない、ぶっちゃけトークをしましょ う。あっ、私、畠山恵美と申します。よろしく。

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■【3月のまえおき】
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「桜」は、あなたにとって、別れの花ですか、出会いの花ですか。私の町では、入学式前後に、梅も桃も海棠も、「桜」も一斉に咲きます。 だから、出会いの光景にある花なんです。今年、私の母校の古川女子高校は、最後の入学生を迎えます。「桜」がそれを、きれいに彩るで しょう・・・って、うちの校花は「白梅」〜百花の先駆けをなす〜でした。

今年の卒業式では、最後に「さくら」を歌ったそう。同窓会長が感激してました。・・・ダメだろう。それは、宮城三女高がコーラスした 歌だろう。どなたか「しらうめ」って歌、古女高コーラス部に作ってくださーい。

乳がんや病に対する心についてのポイントは、また書く機会もあると思うので、駆け足調で、イソガシイ文章ですが。 今月は、昨年秋の手術についての2本です。よろしく。

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■『手術』
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平成15年10月18日、午後2時過ぎ、私の身体から、右卵巣が、卵管ごと根こそぎ全摘された。そして、私は、健康を手に入れた。

入院は、手術前日だった。本来ならば、各種検査をしながら、病状の可能性などを聞く機会が、手術まで数回設けられる。しかし、車で4 0分弱とはいえ、PD(パニック発作)の持病をかかえる私を、医師が思んばかって、初診から、手術前日までの通院はなかった。手術に 必要な血液検査も、乳がんの主治医である地元の外科でやってもらった。

だから、術前の説明は、たたみかけるように厳しいものになった。一晩での理解は、私には、難しいものだった。なんでもそうだが、摘出 した臓器を病理に回さないと、正式な病名は出ない。ある程度の原因もわからない。「良性の腫瘍であって欲しい。しかし、単純な原発の 卵巣がんまでならば、なんとかなるでしょう」。

ここまでは、私も予想はしていた。原発の卵巣がんなら、抗がん剤の投与になる。なんとかならんでも、6カ月の時間はある。医師は続け た。「でもね、胸(乳がん)から飛んだ、卵巣がんだと」。青い色鉛筆で、紙に、グルグルと何かを書きながら、言った。「ちょっと、待 て、乳がん」。どこまでも追いかけてくる「乳がん」という言葉に、呆然とした。

そして、きっと、ヘラヘラと笑いながら、深刻な説明を聞いていたと思う。「病巣が、子宮に癒着してたら、子宮も摘出します」・・・「 えっ?」。「子宮を助けようとして、病巣を残せば、病気が進む。無理にはがそうとすれば、大出血になる」。理屈はとてもわかったが、 えっ?」だった。

新しい個人病院なので、基本的に個室だ。一人で食べた夕飯の味の記憶は、白黒の写真だ。未来への刻が止まったから、か。もうすぐ消灯 という時間になって、私は、泣き出した。本当ならば、家族に言うべき「悲しみ」だったかもしれない。でも、私には、それを分かち合え る家族はいない。乳がんになって7年、そうして生きてきた。

泣きながら、病院の近所に住んでいる友人に電話した。彼女は、ものの3分で来てくれた。完全看護で消灯時には、患者以外は、外に出す 病院だが、特例で面会延長をしてもらった。彼女は、ずっと私の手を握り「頑張れ、頑張れ」と泣いていた。その手の温かさが、なんとか、 その晩を乗り切らせた。

当日の朝、30年ぶりに、浣腸をした。私は、浣腸が大嫌いだ。でも、それが、婦人科の術前のお約束なら、しかたない。しかたなくはな かった。トイレで「まぐれだ」。腹痛と理解しきれない不安とで、パニックの発作が出た。車椅子で病室のベットに運ばれた。医師は、外 来をほっぽりなげて、病室に来た。「昨夜、こわいことをいっぱい言って、ごめんね。何も、来週手術したっていいよ」「来週まで、ここ に置いてもらえますか」「いや、一度家に戻ってもらう」「じゃあ、ダメです。今日、手術してください」。

家族や身内の反対を無視して、私は、生きるために、手術をしに来た。家に戻ったら、二度と、この病院には戻ってこられない。「じゃあ、 卵巣だけ、とる」「いえ、子宮もヤバかったら、やっちゃってください」「いや、卵巣だけ」「いいがら!、チピタピ切るのヤですから、 やってください!」。

仮に、子宮も摘出したら、家族や身内は、私を人間とは、見ない〜そういう人種もいる。でも、生きられるのならば、腹の傷が毎日少しず つ治っていくように、心をたくましくしていけばいい。最低10日余りの入院でなんとかする。たぶん1分はかからないで、その結論を出 した。卵巣がんの診断が出たら、それはその時から、考えればいい。

血縁との関係がまずいことを、医師もナースたちも理解してくれていた。すべては、私の意志で決めることを約束してくれていた。家族と 身内が、お祭り状態で到着した時、私は、抜け殻のようになっていた。術後の説明は「泣く身内より、理論のわかる他人入れてくれ」と言 われていた。でも、唯一この状況を判断できるいとこが「何もしゃべらないでいいから」と、来てくれてた。

挨拶もせず、言葉も発せず、ベットで点滴をしている私を、無礼だと、いとこ以外は言った。あの極限の状況で、挨拶も会話もできる女が いたら、それこそ女ではない。病院側の配慮で、病室から出された身内一行は、食事に行った。そして、午後一の手術時間まで戻っては来 なかった〜戻って来たのは、手術がほぼ終わるころ。「身内の許可なく、手術した!」と激怒したらしい。

私を手術室まで見送ってくれたのは、子供の学芸会を抜け出して来てくれた、昨夜の友人だった。もし、これがこの世で見る最後の光景な ら、彼女(そして手術まで支えてくれた友人たちの心)でよかったと思った。手術は、一時間ほどで終わったらしい。癒着もなく、卵巣を 卵管ごと摘出して、「あっさりと拍子抜けするくらい」(主治医)で、終わったという。いとこの話によると、男の人の握りこぶしくらい の卵巣だったらしい。ほとんどが筋肉質で、水分は少し。「やばい」と思ったのは、事実だ。

家族が説明してくれたのは、二度の乳がんの時と同じで、見たままで、医師の所見ではなかった。麻酔から覚めた時、乳がんの時より楽だ なと思った。下半身は動かせないし、切った傷は確かに痛かったけど、「腹が、楽」だった。乳がんの時はジャマに思えた、排尿管も、バ ンバン出てるのがわかって、むしろ快適だった。なにより、腹の中の切り取られた部分が、痛まないのが、不思議だった。

きっと、切るよりも痛い状態が、今までだったと思った。1週間後、病理などを聞いた。13×10×6(センチ)大の卵巣が、子宮の下 に入り込んで、子宮を持ち上げていた。大きさは昨今としても、それは、中学くらいからの状態とのこと〜発病した日は、実は、明確にわ かっている。

子宮にブリッチしてれば、そりゃ、ホルモン分泌も正常ではないなと、ここで思った。先に、卵巣をやっつけてれば、乳がんしなかったか なとも、ちょっと思った。でも、乳がんしていなかったら、今日の私はない。この順番でよかったんだと、すぐに思いなおした。左の卵巣 は、健全で、子宮もやっと定位置に平らにおさまった。「畠山くん、子供産めるよ」が、主治医の開口一番だった。

「長い間、痛かったね、辛かったね」と、主治医はいたわりの言葉をかけてくれた。「そんなん、毎日痛かったなら、わからんて、先生」。 テレて私は、軽口をたたいた。確かに、腹は痛くなかった。長い間の慢性の痛みが取り除かれることが、心まで軽くなるとは思ってもいな かった。健康と、カラ元気は違うと、初めて知った。

病理は、卵巣と卵管のつなぎめに、ボーダーが出た。しかし、がんの場合、卵管に先に症状が出てしまうらしい。カルテと病理診断のデー タを見せてもらいながら、「卵管は、健全」という文字を確認した。がんではなかったが、絶対安心ということではない。これから数年は、 定期的なチェックは必要とのこと。 でも「子供は、産める」。産まない可能性のほうが大きいと思う。でも、可能性が0ではないことを純 粋に伝えてくれたことに深く感謝した。

退院後の再診・・・「いやあ、初診の時、これは、やっかいなことになるな、覚悟しないとなーって思ったんだよ、畠山くん」と、主治医 は言った。「うん、そんな顔してたから、説明されなくても、手術しなきゃならんのだなと思いました」と私。この医師に、この病院で、 手術できたこと、この自分の選択に、間違いはない。

<だが、退院する時も、退院して今日に至るまでも、家族や身内とのトラブルは続いている。私が健康になったことが、憎悪の対象でしか ない心理を理解できない中で、生きている。友人たちの祈りや思いを源に、生かされている。>

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■『手術前』
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卵巣に問題が見つかったのは、乳がんを発病する2年前だ。左アキレス腱断裂の手術&入院によるカンジタの発症で、市内のR産婦人科で 「水がたまってます」と言われた。でも、19歳の9月、腹痛のためにとったCTで、外科に「卵巣膿腫だね」と言われてたから、どうな んだろう。治療を求めて、N産婦人科に行ったら「20歳になったら、治してあげる」と言われた。

10月には、20歳になるのに、なんで今月ではダメなの?と思った記憶がある。まあ「水がたまってます」には、独身や出産経験のない 友人たちでも、「スソから注射を刺して抜いたよ」とか「薬で下したよ」とか言う。ので、治療をお願いしたら、「子供産みたいでしょう から、どちらもしません。大きさの経過観察でいきましょう」。

ただ、茎捻転を起こすと、気絶する痛みなので、倒れる前に「婦人科に」と絶叫しろと言われました。はははは。この病院だけではと思っ て、K産婦人科にもセカンドオピニオン求めたら「誰がそんなこと言ったのや!」と、怒られて帰って来ました。で、直後に、初回の乳が んをしたので、国立の婦人科で、サードオピニオンを求めたら「どちらも、大学の同じゼミの先輩なので、僕は答えられない」と、ははは はは(汗)。

ただ、水がたまること自体は、生理の関係もあり、女性の3人に2人は、ありうることなので、認める医師と、認めたら「女性は全員病気 持ち」となる理論で認めない医師がいることは教えていただきました。・・・先輩だからって、新しい診断を下せないって医療、あってい いのかね?(「ダメ!」と、宮内サマならおっしゃるでしょう)。

まあまあ、それから、R産婦人科には、定期チェックに行ってましたが、平成14年、いきなりです。「大きくなって、うちではもう(治 療)できない(手術&入院設備がない〜うわー、病院名特定かよ!)ので、他に行ってください、じゃあねえ〜」・・・。他に行ったら、 「胸(乳がん)2回してる人の手術は引き受けないんですよね」とか。

いつぞやも書きました、ドクハラ市立病院では「乳がん2回もやってて、なんで、卵巣が2つあんのやー」と、怒鳴られました。なんで2 つあんのやと言われても、あるべっちゃ。「いらねえがら、子宮も卵巣も全部とってしまえ!」と、言われました。だって、平成7年に見 つかった時から、私は、治療を求めてたんですよ。なのに、どの病院でも経過観察って言われ、乳がんもして、そんで、「いらねえ」はね えだろう。婦人科の馬鹿野郎ですよね。

今、言葉上、威勢はいいけど、ひとりぼっちでした。そんな心を、まず支えてくださったのは、宮内代表です。いっしょに、怒って、悩ん でくださいました。ただ体調はかなり思わしくなくて、それは、6月に、最後のゾラを打つ前からで、卵巣がんだとしたら、と考えずには いられませんでした。だから、そんなドクハラなとこでも、MRIがそこしか市内にはなかったから、我慢して受けました。したら「がん じゃねーと、写らないだよね」だと。12000円返しやがれ!ですよね。

そこから、手術した病院にたどりつくために、砂漠で針穴を探す(表現は適当か?)状態でした。うちの近くの小学生(今は、大学生)が、 手術したことがあったのです。麻酔から覚めた途端、「何色の糸で縫ったの?」「お腹で溶ける黒い良い糸だよ」「んー、赤い糸がよかっ たなー」って会話したということを、10年くらい、良い話として聞いていました。

小学生が、婦人科で、しかも手術なのに、なんだ、この信頼感は、と。でも、自分がかかると思わないから、どこの病院とは聞かないでい ました。市内ではないと思っていたけれど。近所が行く病院なら、県内じゃん!と思い立ったのです。それが、私の転機なりました。いい ですか、みなさん。(病気はして欲しくないですが)転ばぬ先の情報。「おーそれはいい話だ」と思われる医療の場合、病院名と医師名は、 聞いててください。医学界では名医と呼ばれてるとこよか、絶対に、患者界で良いほうが、ばっちりです。私らは、少なからず、婦人科に 影響の出る薬を使用してますから、信頼のおける婦人科を探しておくべきです。

今回の件でわかったのは、産婦人科はオールマイティじゃなく、産科と婦人科の専門があること。婦人科でも、腫瘍科の判断を下せる経験 を持ってることです。実は、古川市内は、「産科」がメインで、「婦人科」はいないに等しいから、こんな扱いで来たってことでした。じ ゃあ、同ゼミだったという医師は、産科じゃないか。なんで、国営病院の婦人科、診てんだー。

で、出会えたのは、『ウィメンズクリニック利府』の、湧坂俊明先生です。カラカラしてるから、好き嫌いはわかれるかもしれません。で も、私は、大好きです。

「昔はさー、卵巣がんと膵臓がんは、助からないって言ったのさー。で、医者仲間で、膵臓がんになったら、どうするって話になるとさー、 ○○先生に切ってもらうとか言うわけさ。でもさー、俺はね、助からないならさー、酒かっくらって、好きなことして、死んじまおうと思 ってんだー」。この、例えを卵巣がんにしないってとこが、ミソでしょう。

「手術に、絶対はないから」。これも、かなり効きました。乳がんの時、外科で何度も、私が口にして、何度も「そんなことは、万が一も ないわい!」と甘やかしてもらってました。けど、湧坂先生が、「手術に、絶対はない」とおっしゃった時、「怖い〜」と思ったもん。同 意見者が出現したのに・・・。つまり、こういうとこが、湧阪先生への信頼なんですね、私の。

宮内先生も、おっしゃいます。自分に合う医者は、自分から求めて探していかないと。絶対に出会えますから。求めてください。

あとがき

卵巣を失って、悲しくないと言えばウソになります。一つ残ってるから大丈夫じゃん、も、慰めにはならないです(言わないように!)。 けれど、身体と言うのは、健康=生理に沿って生きていると、正直ですね。「婦人科、ちょしたら100日は、ダメとしている」(婦人科 の手術や出産の後は、100日無理しては、ダメだよ)。

おかげさまで、1月28日に、100日になったのですが・・・生理が戻ってくるみたいですう。そりゃ、「出産もできるよ」と言われた んだから、戻るんですけどね。なーんか、小頭痛いなとかケンペキハルなとか、そういや昔こんな症状あったなと思い出してみたら、生理 の前兆症状・・・。冷えると、胸の傷も痛いから、カイロ貼るんですけど、今年は、寒くなくて冷えなくても、痛い(とも違う)なと思っ てたら、乳房が、ハッテたんですねー。はははは。バカですねー、私って。2月は、症状だけ1週間で、終わりました。

けど、近々、戻ってくんのかなーです。「戻ったらな。みんなで、その日、赤飯食べてやっから」と、全国にに散らばってる同期が言って くれてます(メールで、情報トバスそうです)。私の、3回目の「初潮」を待ち構えてくれる友人たちに、感謝です。しかし、人生に3回 「初潮」ある私って、すごいなあ。なんだかなあ(汗)。

じゃあ、また、来月、お会いしましょう。

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{No15}2004年4月21日更新分

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■<前リード>
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この1カ月で、生活が激変した畠山です。もっとゆるやかに、段階を経て変えようかなとは思っていたのですが・・・。前回の原稿を書い てた時には、想像もつかないような時間の中に、今、私はいます。

22歳の時、自ら抱えてしまった問題も、19年かかりましたが、とてもあっさりと問題の方から去っていってくれました。結婚したわけ ではないです。だから当然、離婚したわけでもないですが。自分が、何をしたいのか、何ができるのかの基準で動いていいことに、戸惑っ ていますが、日々慣れていくのでしょう。

自分という人生の「入学式」が、予定通りの40歳で迎えられたことに、感謝します。それを支えてくれた、友だち、みなさんに「たくさ んのありがとうをこめて」。今月は、『鍼〜卵巣手術・余伝』・『そう、ビューティフル』の2本で、いきます。

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■『鍼〜卵巣手術・余伝』
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<先月分お読みでない方は、読んでから、どうぞ。>

卵巣のMRIが、卵巣の現在の状態に何の意味を持たないことを知った翌日でした。

私は、とーっても、具合が悪かったのです。「良性です。でも悪性かもしれないし、ボーダーかもしれないし、手術して病理の結果が出た ら、お知らせください」と、まるで「晴れです。でも雨かもしれないし、曇りかもしれないし、一日過ごしてみて、教えてね」っていう天 気予報みたいな結果を言われたってね。

そんなことより、この具合悪いものの原因はいったいなんやねん・・・。それを憤る気持ちも正直ないくらい、しんどかったです。どんな 状態って、現実の出腹の上に、見えない腹があるんですね。足の付け根がつっぱらかってるし、全身の倦怠感はおどげでないし。右半身が、 他人になりたいくらい痛だるい。ちょっと歩くにも、しんどい・・・仮に、これが、MRIに映らない卵巣がんの症状だとしたら、いつま でもつんだろうと、漠然と思っていました。いや、思い詰めてました。

卵巣がんなら、卵巣がんでも、いいや。この辛さが一時でも解消されるならば。外科でも、婦人科でも訴えたけど、触ってもくれない。ゾ ラの副作用とか天候が悪いせいとか。治療が薬が増えていくのがいやだから、乳がんする前に比べたら、ギリギリまで具合悪いとは言わな いようになったのになあ。検査データとかXPとかじゃなく、原因を医者の経験で言い当てることを、今の西洋医学に求めるのは、無理な のかなあ。朝から、畳みに蹲って泣いてました。

『鍼、灸、按摩、マッサージに行く時は、主治医の許可をもらってください』。放射線科を退院する時に、いただいた注意事項が頭に浮か びました。リハビリのマッサージ以外は、一生しないと思っていたことです。放射線をかけたのは、左上半身。今、苦しいのは、右下半身。 場所が違う!、OK(拡大解釈)。西洋医学が私を泣かすなら、東洋医学で笑ってやるう。

すごく近所の民家の塀に、『鍼灸』の看板があって、通る度に、お客さん入ってるのかな?と思ってるとこがありました。歩けるギリギリ の距離でした。まずは、問診があり、私は、かなりのスピードで,いかに辛いかをまくし立てたです。先生は、それを肯定も否定もせずに、 ぼーっと聞いてくれて、施術に入りました。

20分単位で、鍼の位置をかえていくのですが、その都度、私はトイレに走りました。所要時間・約2時間。先生が所見を述べました。「 右腕は、キーボードの打ち過ぎ。仕事なんだろうけど、あなたが休む気がなければ、どんなに鍼したって治らないから、自己努力してくだ さい。右下半身は、リンパの流れが悪いです。ほとんど流れてません。

これは、5回(鍼)すれば、よくなります。かなり強いのを打たせてもらいますが、大丈夫ですか」。「リンパ流れてないって?。リンパ って流れたら、どうなるんですか」「おしっこになって、排出されます」。リンパ=おしっこ。考えてみれば、身体がしんどくなってから、 トイレに行く回数は増えたけど、おしっこは、ほとんど出なかったんです。

家に戻って、トイレに行く回数は少なかったけれど、都度、どわーっと出ました。お風呂に入ろうとした時。出腹の上のもう一腹が消えて て、右腹がキュっと締まっててて、右足の付け根が見えました!。「付け根、久しぶり!」と、手を振ったくらいですっ。その晩、これま た久々、右側を下にして眠ることができました。寝返りをうっても目が覚めないで、眠ることができました。

翌日、これを先生に伝えると「そんなに、すぐ効かないって」と、淡々と言われました。でも、そうだったんだもん。3回目は、それから 5日後、4回目は、6日後で、5回目は、一週間後でした。5回を終えたところで、完璧とは言えないけど、飛び込んだ時点と比べると、 ウソみたいに楽になってました。

費用ですか。健康保険はきかないので、5回で、13000円でした(初回3000円・後は2500円)。なーんもわからないMRIに 12000円払うよか、楽になったこっちのほうが、よっぽど、生きたお金ですっ。「これから、後は、あなた自身が来たいと思った時で いいですよ」。普通なら、患者の弱みにつけこんで、毎日来いって言えばいいのに・・・「うん、よく、やる気ないの、って言われる。で もさー、辛いとことれれば、あとは自分次第でしょ。その人の経済事情もあるし。やる気ないでいいさあ」と、静かにおっしゃる先生なん ですね。

そこで、辛さが軽減された私は、手術していただく婦人科と出会う気力を取り戻せました。そして、手術が決まったと、鍼の先生に報告し た時です。「ごめんね。手術にならないように、一生懸命、鍼打ったのに、ごめんね」。かなり、ホロっときましたね。

その後手術までの1カ月半、3回ほど、鍼を打っていただきました。「皮の付いたままのピーナツを、少しずつ手術の1週間前に食べて。 輸血しない身体になるから」。そんなアドヴァイスをいただいたり(現実に、出血量・100ccと極端に少なかったそう)。手術後は、 月1ペースで行っています。本当は、よだれが出るくらい気持ちいいので、もっと行きたいのですが、経済事情がありますし。

相変わらず先生は、やる気なさげ、商売度外視に見えます。乳がんの部分の治療で言えば、全摘した右胸、鎖骨の部分がはったりこったり しないように、埋め込み鍼してもらってます。右腕のむくみのチェックもしていただいてます。「鍼打っていれば、病名とかだいたいは、 わかるよ。でも、それを言うのは、お医者さんの仕事、苦しいのをのぞくのが、私の仕事だから」。

西洋医学でなければ、ダメな部分があって、東洋医学でないと癒えない部分があって、人それぞれに、自分に合う医療の形、組み合わせが 必要なんだなと、今の私は思います。あの一番具合が悪かった時に、やる気満々の鍼の先生に出会ってたら、1回で行かなくなったかもし れないし。どこにも行き場がなく、医療に信頼を持てなかった時に、やる気なさげの先生だったからこそ、過剰な期待をいだかないで、お 願いできたのかも。

不思議な出会いの中で、卵巣の問題は、解決という流れにのれたように思うのです。

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■『そう、ビューティフル』
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乳がんになって、あなた、肌の調子いかがですか。今、治療中、治療終了直後、それからしばらくたってる、いろんなパターンがあると思 いますけども。私の場合ですか?。「よくわかんなーい」。 治療の副作用について、説明がありました。「お肌はボロボロ、ゲソゲソに 痩せて、いかにも重病人に見えるが、実は、超元気」か「お肌はツヤツヤ血色良く、丸まると太って、超健康に見えるが、実は具合悪い」 のどちらかが出ると。

「選べますか?」「選べません。出たほうです」。・・・説明じゃないやん。私は、後者の方が出ました。体重は、マッハ72まで行きま した(大涙)。中学から33歳まで、52キロで生きてきたのに。「太るなんて、がんじゃない」と近所で、ウソがんあつかいされたりも しました。涙。

しかし、こんなこと辛くないもんね。肌だよ、肌。肌が、乳がん前と違うくなった方が、愕然としましたね。私は、これでも、小学生の頃 から、マッサージやパックをしていたんですね(ニキビ体質だったんでさー。中学になって消えましたが)。だから、20歳くらいの時の CMで「はたちになったら、エステ」とかいうのを聞き、「20歳からじゃ、間に合わん」と思ったくらい、すっぴん自慢な肌でごわした。

それが、乳がん退院後・・・いつものようにマッサージして、パックしたら・・・2週間後、肌がはがれてきました。へっ?。めったに化 粧はしないのですが、化粧しても、3分以内にボウダの汗ですっぴんになってしまう・・・へっ?。いやあ、肌のいろ・つや・はりは、見 た目では、むちゃむちゃよいのですが、何のケアもできないのです。

洗顔は、化粧しないかぎり、洗顔料は使わないというポリシーがあります(これは、高校の時に出会った、皮膚科のDr.が「肌には、自浄 作用があるので、ぬるま湯で何度も洗ってあげなさい」と言ったから)。その後です。化粧水1本しか使えないんですっ。美白のクリーム や美容液を使おうものなら、顔がかゆくなるんですっ。乳がん前に使っていたものも受け付けないんですっ。そりゃあ、化粧品代がかから なくっていいけどね、いいのか、30代の、私のお肌。

みなさんは(これはおせじぬきで)「どういう手入れしてるの?。その肌欲しい」とおっしゃる。「なにもしてないです」。納得してもら えませんわねー。元々私は、家系的に、青白い肌してたんです。それがリンゴのホッペ的な肌色になって、これもほめられる始末。よく見 たんさい、自然な赤みじゃなくて、微妙に違うから。

まあまあそれでも、見た目が健康に見えるならいいじゃないかと、過ごしてきました。去年の6月にゾラを終え、9月半ばにノルバテック ス服薬を終え、10月に卵巣がひとつになって、すぐ、40歳になりました。私に、30代の普通はわかりません。40歳の誕生日に、い つもの通り、化粧水の二度付け(時間を置いて、パシャパシャするってことっす)すると、あれ?。カサつきが残るんですね。

試供品でもらってた、乳液や美容液を補ってやると、まあ、いいかも。幸い、2週間後の肌のはがれはありません。何回曲がったのか、曲 がってないのか、お肌の曲がり角。小学校のニキビ以来の、壁でした。乳がんのために、7年もほっぽらかしてたからなの?。いやーん。

しかし、こんな時の同級生の女子(こんな時じゃなくても、助けられっぱなしだが)です。聞いてみました。みんなも、誕生日当日に、あ れ?状態になったとのこと。そんな今まで「誕生日になったからって、何がかわるの」と力入れて言ってきたのに、歳の他にもかわるもの があったなんて、みんなも、びっくりだったんです。・・・乳がんのせいじゃないのね(せいもあるだろうけど)。

ちょっくら、みんなで研究してみました。私ら、宮城県人(?)は、S木京香ちゃんがCMしてた化粧品のラインを使用してたのですね。 理由、彼女も宮城県人だから、ハハハ。今、そのCMは、K野美穂ちゃんがやってます。あれ?、彼女って、まだ20代だよな。でも、そ の20代のCMは、U戸彩ちゃんがやってるし。40代のは、T島礼子ちゃん・・・ひとつ下だがな。やべえ。ひとつ下が、40代のCM やってるってことは、どおおんなに認めたくなくっても、K野ちゃんとそんなに違わないと言い張っても、肌が認めないはずだわ。「私は、 誕生日前から、T島礼子ちゃんのにかえたよ・・・」とゲロしたのがいました。

1000円くらい、高くなるが、ドラックストアの特売を使うと、K野ちゃんのを定価で買ったくらいまで落ちる。結論からして、みんな、 T島礼子ちゃんの、化粧水か乳液かどっちか(どっちもは、買えない)に、変更しました。

ほんで、お昼のドラマでやってた「キレイを怠るのは、犯罪です!」、M田久子さんがイメージキャラクターしている会社のも、私は併用 しています。いいんじゃないかな。副作用がどんどん抜けて、肌からも妙な赤みは消えつつあり、元々の肌色に戻りつつあります。肌もは がれないようだし。

33歳で最初の乳がんした時よりは、当然シミも増えたし、ホッペもたるんできたけれども、何もできなかったわりには、イケてるんじゃ ないかなと思ったりしてます。百均ですが、最近、よくシミが映る鏡買ってしまってねー(涙)。それでもね、40歳過ぎの肌を体験でき る、生きていられるのは、幸せなことです。すっぴん癖は、なかなか治らないと思いますが、イヤミじゃない、お化粧に、トライしてみよ うかなと。美しさに、欲張りな40代を目指したいものです。

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■<後リード>
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ご記憶でしょうか。去年の4月に書きました、私の戦友、スドウレイコのこと。彼女が旅立って、4回目の4月です。冒頭にも記しました が、この1カ月は、本当に本当に、激変の流れにいました。またその前の5カ月、卵巣手術からの時間もまた、息をひそめているような刻 でした。

そんな中、いつも、戦友の声を聞いていました。彼女は、桜になりました。今年の桜は、つぼみの状態では、こんなに速く咲くとは思えな かったのです。でも、こんな私の門出を励ますかのように、ワーッ咲いてくれました。「生きていくことは、流れていくこと」。あなたの 戦友のこと、思い出して、思ってください。

さて、畠山は、生活の糧になるような仕事を探しています。「ここで、売り込みかあ!」と思われるかもしれませんが、もし、私にやらせ てみたいなというお仕事がありましたら、ぜひ、ご一報くださいませませ。可能性の前に、歳は関係ないと思います。

じゃあ、来月、またお会いしましょう。

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{No16}2004年5月18日更新分

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■<前リード>
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うーん。さわやかな5月は、大好き。うん?、結構、雨ばっかで、走り梅雨じゃない?。湿っぽいんですけど。さわやかじゃ、なーい。で も、緑はいいですよね。花も、今年は、いきなり美しく咲いてます〜美しいと思う心の余裕が私にできただけで、毎年美しく咲いてたんで しょうが。

でも、緑がいい。絵の具だと、いつも最後まで残ってしまう「ビリジアン」。そんな色もある、各々の緑を持った山々を、一時間に1本く らいしか電車が来ないような田舎の駅から見ていると、ほっとします。どこもここも、ミニ都会化、中途半端な都会化してるのに、山は、 そういうことは関係なく、居る。

それから、街中にある緑も、ワーっとイルゾってーのじゃなく、緑陰、陰になっている緑がいいですね。時折の日射しが透けこぼれている 時が、たまらなく愛しく思えます。

私の人生では、なんでもありな(達観)な5月ですが、あなたの5月は、いかがですか。
今月は、『信じるモノハ』と『介護〜祖母自慢』の2本でいきます。よろしくっ。

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■『信じるモノハ』
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宗教は、人それぞれ、信じるものを持っていていいと思います。それは、認めます。私に認められなくても、そういうことです。しかし、 誰かに、薦めるな!。迷惑だっ!!。

まあまあ、乳がんにならなくっても、そういう勧誘は多かったです。お断りするには、どういう思想が違うからと理由を述べねばと、いろ いろ勉強もしました。勉強すればするほど、「私にとっては」信じられるものではないと確信しました。しかし。さすがに30代で、6回 の入院、5回の手術(局所麻酔2回・全身麻酔3回)もしてしまいますと、本人の意志をまったく無視した「あなたのことを思って、薦め ているの」人が、訪れます。

今まで何年も会ったことがない人も、近々知り合った人も、誰だあんだ!な人も、うじゃうじゃ、ごっちゃり。告知も手術も治療も、その 他いろいろ辛かったし、苦しかったですよ。でもさー、それは、私自身の苦辛です。

勧誘してくるあなたに、なにが、わかるんですか?。あなたが、心から信じてるモノは、その苦しい時の私に、なにしてくれたんですかね。 これからなにをしてくれるんですかね?。私の父は、私が乳がんになる一年半前に亡くなりました。「おっぱい(乳)が、がんになるって ことは、お父さん(父)が、心配してるんだよ」。

神妙な顔で聞きながら、笑った笑った。言うにこと欠いて、なに言い出すだか。じゃあ、腹なら、原さん?・・・知り合いにもいませんね。 あからさまに新興宗教というワカリヤスイスタイルじゃなくって、普通のお寺や普通の神社の信心?を言ってる?って場合もあります。そ んときは、その人んちの、神棚をナニゲで見てくるんですが、榊、枯れてるって、ドライ榊だって。

誰も行かないような部屋に仏壇置いて、ドライご飯になってるし。他人に、信心を薦める前に、すっごどあっぺ。うちの仏壇を見て、奥に ある祖父母の位牌が見えないから、家庭不和になるって言った人もいました。あのさー、祖父母の前には、父の位牌があって、その前には、 私の兄弟のがあって、段々に並んでるわけ。

すいません、小さな仏壇で、奥まで見通せなくって。でもね、この置き方は、うちの菩提寺の方丈さんが、きっちり指示してくださったも のなのね。方丈さんは、プロなのね。うちの長年にわたる家庭不和については、きちんと聞いてくださってました。それは、充分信頼でき るから、私も言えたんです。位牌になってまでなー、ケンカはしねえし、ケンカしかけないつーの。

水子(兄弟のことです)供養を「正しい」かたちでしてないから、病気になったとも言われた。私の兄弟を、ナメないでくれる?。彼らが 私を苦しめるわけないじゃん。ワタシャ、お墓で、彼らにチューしてくるくらい仲良しなんですからねー(それが、イヤかもはしれんね〜 笑)。「親が、水子供養しないから病気になったって、暴れなさい」って指示ももらいました。

不惑にもなって、そんな理由で暴れてたら、そっちのが、ヤバイじゃん。死んだら、みんな楽園に行ける系の勧誘の方の入信のきっかけは、 嫁姑問題とのこと。「みんな行けるなら、お姑さんも来ますよね」って言ったら、アオクなって帰られました。なー、あっちにまで行って、 キライなヤツと楽園やっても楽しくねーだろ?。

自分の親の介護が、実家の嫁に遠慮でできなかったから、親孝行の宗教で修行しているって人もいます。あのねー、すでに老老介護の嫁は、 痴呆のおばあちゃんを、自らの仕事を辞めてまで、たった一人で介護したんだよ。私は、それを見て聞いてきました。おばあちゃんは、嫁 に心から感謝して逝きました。あなたは、遠慮だったと体裁のいい言葉で言う。でも、仕事だレジャーだと、寄り付きもしなかったね。

自分の親なんだから、どんなにうとまれても「お義姉さんは、休んでてください」って、しつこいほど介護した方がよかったんじゃないで すか。できなかった後悔を宗教で埋め、他人を巻き込むのは、やめなさい。おばあちゃんにも、嫁にも失礼だ。お子さんが家出したから入 信した方は、私を一生懸命世話したら、子どもが戻ってくるから「祈らせて」と言いました。

祈るだけならといいかと思っていたら、あらゆる事柄に介入と干渉してくるようになりました。その子が最後に残した言葉は「お母さん、 重い」。正しいと思う。他人の世話をするよか、そういう重い自分を、宗教の力じゃなく変えないと、お子さんとは一生会えないと思いま す。

以上が、この半年くらいで、あっちまった宗教の人たちの一例です。コワイ思いも随分しました。家の周り、何時間もうろついて帰らなか ったり、ストーカー状態で電話鳴らされたり。そこまであなたたちを、かりたてるものはなにですか。乳がん得た私は、そんなに、カモで すか。

本当に「宗教してる」人は、堂々としています。それなりに悩みはあるんだろうけど、いつもニコニコしている。そして、絶対に、他人に、 自分の宗教を薦めない。人は、とても弱いから、なにかにすがらないと生きていけないものかもしれない。だから、あなたが宗教にすがる ことを、私は否定しない。でも、一人でやってください。

先祖が、私を苦しめるために、私を病気にするというのはありえません。少なくとも、うちにおいては、ないから。脈々と続く遺伝子的な 影響はあっても、病気を通して、私に伝えたいなにかはあっても。・・・私が生まれてきた意味、生かされてる意味がわかりかけてきたの は、乳がんになれたこそ。そこに、先祖やご縁のあった方々を思う心はあっても、マヤカシの宗教は、存在しません。乳がんは、乳がんと いう病であって、先祖がおこしたものではない。そうですよね、みなさん。

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■『介護〜祖母自慢』
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7年前の今ごろ、私は、自分が「乳がん」になるとは、仮の例え話の範囲でも思っていませんでした。いつものように、30歳過ぎたら・ 生理の後のお約束、自己乳房チェックを漠然と済ませ、なーんら異変がないことを本当に当たり前だと思いました。

その日から、2週後にしこりが存在して、それから1週後に告知されて、それから20日後には、左の温存手術をすることになるのに。本 当に本当に、自分には関係ない病だと思っていました。思いもしなかったかもしれない。今年も「それ」を思う時期にいられる自分を幸せ に思いながら。

・・・だから、当然のこと、その2年前、つまり9年前の今ごろは、「乳がん」という言葉は、頭の中をかすりもしなかったです。当時、 私は、家出をしてました。理由?。血縁は、今でもそれを許せないもの。けど、今の私からすると「がはは、そんなこともあったなー」的 なマヌケ。もちろん、充分、反省をした上で、です。

家出をしたものの、泊めてくれる場所も、一週間でなくなりました。そんな私が向かったのは、結果的に最後の入院になった、祖母の病室 でした。ほとんど意識がなかったはずなのに「みんなわかってるから。もうどこさも行ぐな。こごさ、居ろ」。ひょろひょろの手で、祖母 は、力強く私の腕をつかみました。

「介護」をするという詭弁で、私はそれから2週間、祖母のそばにいました。そうすることで、家出をしたという事実をなかったものにし ようとしたのかもしれません。日に日に意識が混濁していく祖母でした。でも、お葬式の指示(采配)を言い出したり、流れている歌の歌 詞を聞き取っては「バカな女だ」と解釈したりもしていました。

昼と夜、体内時計が逆転してたから、睡眠薬を処方されることもありました。飲ませた朝と、飲んでない朝では、握力が違います。迷わず、 飲ませない方を私は選択しました。祖母のベットに一緒に入り、「人間座椅子」して、真夜中に遊んでいました。小さいころ、怒られた後 に、祖母の布団に逃げ込んだ時みたいに。

薬で無理に眠らせるというのは、介護する側の都合でしかない。まー、私は、適当に眠かったので寝てて、祖母の要求に答えなかったら、 祖母がベットからポロンと落ちたりもシマシタ。が、孫があてにならぬとわかったか、そんなのは一度きり。次からは、ベットのハシぎり ぎりまでで、落ちない、我が祖母のすごさ、ここにあり、っす。

ご飯をまったく食べなくなって、点滴も、皮膚の弱いところから噴出するようになって、人がカレテいく段階を、日々、祖母は、私に見せま した。・・・祖母が亡くなるまで、いや、自分が病になるまで、私は、「祖母を介護した」と思い込んでいました。・・・麻酔から覚めた時、 私は尿管がとてもジャマに思いました。こんなもんから絶対におしっこは出ていないと思いました。

その時私は、祖母が「おしっこ、おしっこ」としきりに言っていたことを思い出しました。祖母の腹を軽くなでたくらいにして、「管から 出てるよー」と、介護していたハズの私は、祖母に冷たいものでした。下腹部を、強烈には負担のかからない強さで押すと、管から流れ出 るような気がします。〜話あちこちになりますが、昨秋の卵巣の手術では、尿管をこのまま一生入れててもいいというくらい、バカバカ出 てるのがわかりました。これをさし方上手と言います。

だから、患者の負担にはなりますが(病院側の、迷惑な面倒にも)、尿管を出てる感覚を得られるまで入れ替えてもらうとか方法は、いく つかあるでしょう。『私は、祖母の介護をなにひとつ、やっていない』。祖母はその事実に、なにひとつの文句を言うこともしなかった。 基本的に健康な肉体においての外科手術における数日の介護と、いつ終わるかわからない老人介護を一緒にしてはいけない。でも、少なく とも私は、祖母を介護したのではなく、祖母に「心の介護」をしてもらったように思います。

多くの言葉より、自分の事実を見せることで、それから2年後から始まる私の病に備えさせた。そう思えてならないのです。とんでもない 悪党になった孫を許し、介護という名目で自分のそばに置くことで守り、病の時の心得を教えた。許し、守り、教える。それを持った人に 出会えた時、人は、安心でき、休めるのではないでしょうか。それから、心から悔いて、前に進もうと思うのではないでしょうか。

介護は、通いあう心の中にこそ、存在する、する側も、される側も。初回の手術から数週間が過ぎた時、2度、祖母の夢を見ました。一つ は、シクシク泣いてました。祖母が不在になってから、乳がんになってよかったと思いました。もう一つは・・・バリバリ口げんかして、 最後に祖母が言うのです「オレは、そんないいおばあさんじゃないぞ。クソババアだから。美化すんな」と、いたずらっぽい笑顔をしたの です。そうそう、とんでもないクソババアだったわ。そんなあなたは、そんな祖母は、今でも私の大切な、たった一人の家族です。

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■<後リード>
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某国営放送で、朝とお昼(再放送)、日に都合3回放送されるドラマがございますよね、この3月末から始まった・・・ご当地:宮城が一 応、舞台の、あれのCM(全国でやってます?)。

脚本家にケンカ売るわけじゃないが・・・「桃栗三年、柿八年」までは、いい。「やがて実になる、テンノハナ」・・・それは、標準語と して実在するのかもしれないが、辞めてくれ!。宮城じゃ、そったらことは、語りません。続くとしたら、「梨のばがやろ十三年(十八年 という、地区もある)」でがす。

方言指導の甲斐もなく、なまってるのはいいが、そのイントネーションじゃない!は、しょうがないと思う、許す。某国営放送のみならず、 二時間ドラマにおいて、作並で事件が起きた直後に、松島海岸に佇むの、時間的に絶対無理も、許す。でも、言いもしないことを作り上げ るのはやめてちょうだい。あー、納得いがねー。

・・・展開が、民放の「ピュア・ラブ」など数々のパクリ?状態になってきたし。まっ、見ないから、本当のとこは知りませんでどね。話 題を変えて、280mlのペットボトルのお茶、俳句が記載されてるアレ、です。今、販売中の中に、畠山の一句の掲載されてるものがあり ます。買えとはいいません。見かけたら、載ってるかな?って、見て見てくださいませ。全国的に売ってもらえるのって、自費出版の句集 出すより、他力本願でいいなーと、思っちゃってマス。

ではでは、また来月、お会いしましょう。

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{No17}2004年6月18日更新分

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■<6月のまえおき>
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今年の5月31日から6月8日の『ドキドキ・ウィーク』は、なにごともなく過ぎました、ホッ。おかげさまです。「なにごともなく」っ てことは、ラブリーな出会いもなかったんですけどね、トホホ。

でも、静かな日々を、おだやかな気持ちで生きられるってことは、とても喜ばしいことなのではないかと思います。時々、森の(林かな?) のベンチに座って、風に「これから」を問うたりしています。今、私が目に見えるところでは、流れていないけど、見えてないところでは、 流れ着く準備をしているかもしれない。

風は、吹きたいように、木々を揺らしてるだけかもしれませんけどね。それも、私には、うれしいことです。

今月は、『梅干し』と『「最初の主治医」、「最後の主治医」』の二本です。

よろしくう!。

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■『梅干し』
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6月には、2日、私自身の大切な日があります。左を手術した29日と、右を手術した27日。7年前と3年前、奇しくも、どちらも金曜 日でした。「手術に、絶対はない」(by:涌坂Dr.&畠山)ので、どちらかが命日になっても、おかしくはなかったのです(執刀医の先生、 ごめんなさい)。

手術当日は、こわいんだけど、妙に、肝が据わってるつーか、淡々と時は過ぎて、事実だけが表面現象として降り注いできます。その「こ わさ」がわかるのが、翌年の当日です。あー今、手術室に向かったな、麻酔かかったな、切られてるなあ。想像しただけでも、こわいこわ い。しかし、このこわさ、家族に言っても「暇だね」とか言われるだけ。ひたすら、自分だけでたえるしかないです。

6年前、手術1年を前にして、鬱モードに私はいました。それは誰にでも起こり得るものだと覚悟はしていたものの、頭で理解できること と、実際に日々辛いは、違います。NHK「今日の料理」が、映っていました。普段はほとんど見ません。「梅干し」でした。漠然と見入 ってました。

「生理(中)の人が、梅干し漬けると、色がつかない」。赤シソも梅干し漬けの必須アイテムである我が地方では、そう言います。うちの 祖母も、そう言っていました。

梅干しを漬けると、多かれ少なかれ、手に赤い色が付着します。床屋が稼業であるわが家では、床屋ではない祖母以外は漬けることはでき ません(他に、仕事中は、ニラ・ネギ・生物を食べたり、触ったりはご法度)。私も床屋だったので(乳がんになる3年前まで)、梅干し を漬けたことはありませんでした。

・・・ゾラとノルバで、生理はない・・・。唐突に「梅干しを、漬けてみよう!」と思いました。自発的に何かをしようと思ったのは、ど れくらいぶりだったでしょうか。それほど、長いトンネルか、底無し沼の途中に居たのです。「味はわかんないけど、生理がない今、色だ けは、美しいのができるはずだ」。

キ漬けの酢水(梅酢)を捨ててしまうなど、初心者ならではの大失敗連発。でも、土用干しの時、夏が「まったくダメ子」の私が、炎天下 で一粒一粒、一日3回3日、梅を揉んでました。結果、梅干しらしい?「赤い石」ができあがりました。「梅干し」によって、私は、なん とか立ち上がることができたのです。

さて。私の親友は、梅の木に囲まれた学校の教諭をしています。入院中「寝てて、話していい?」と言えるのは彼女にだけです。27日か 29日、彼女は、学校で収穫した梅をたらふく持って、私に会いに来てくれます。車で一時間くらいかかる距離。しかも、滞在時間20分 なのに。「なーんとなく来たかったんだなー」と、お茶一杯飲んで帰ります。

・・・一時間もかかるとこに(田舎で車で、一時間は果てしない)、「なーんとなく」は、あり得ないことです。ここ数年、8月行われる 母校の同窓会で会いますが、女・40歳前後ともなると、いくら仲良しの友人だとて、数年会わないのはめずらしくはないでしょう。「梅 を届ける」ことを口実に、彼女は、私の乳がんに威嚇しに来てくれてると思うのです。

そして、私の闘った日を、ちゃんと覚えていてくれる。・・・私は、一人でビクビクこわがっていないでいい。彼女が一緒だから忘れてい られる。彼女の学校の梅で「梅干し」を漬けられることに、私は、救われています。毎年、改めて立ち上がることができています。また、 梅干し」を漬けることで、私には、梅干しの師匠ができました。八百屋のおかあちゃんや布団店のオバちゃんなどなど。基本は、あの日見 たNHKなのですが、その年のコツは、師匠が教えてくれます。

去年は、冷夏だったし、雨も多く、湿度も高かったです。土用干しも、やるにはやったけど・・・って状態でした。それについても、師匠 たちは「湿度が高い時は、皮が柔らかくなるから、かえっていいんでがす」。おー、パリパリに塩が吹くような土用干しも、ジトジト乾か ない土用干しも、どっちもOKなんて、「梅干し」は、ポジティブシンキング・プラス思考・前向きだあああ。

ちなみに、師匠たちは「何十年、漬けても,これで良いと思う梅干しは、まだできてないよ」と、申されます。この謙虚さよ。今年は、6 0年に一度の『甲申』の申年で、この年に漬けた梅は、とても美しい赤を出すのだそうです。今年は、何がなんでも、梅干しを漬けたほう が、ラッキーなんですと。

心のセマイ私は、私の梅干しを食べてくれる人を選びます。種まで味わって食べてくれる人にしか、けません。幸い、いとこの一人が「絶 対、恵美ちゃんの梅干しでないとダメ」と大切に食べてくれるので、もお、漬け甲斐があるというものです。乳がんがあって、梅干しに出 会って、親友の心根に感謝し、師匠たちに学び、いとこと新しい関係ができた。乳がんになったことで「よかった」と思うことの一つなん です。

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■『「最初の主治医」、「最後の主治医」』
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ここは、転ぶ場面じゃないぞというタイミングで、転びました。戸に頭を、シコタマぶつけて、コブができました。痛いなと半ベソで見上 げた空に、飛行機雲が一筋ありました。梅雨入りの前日のことです。

私には、忘れてはならない「最初の主治医」が、二人います。お一人は、今現在の外科の主治医兄弟の父上です。平成8年に、逝かれまし た。この方については、このHPでも時々書いてますし、また別の機会に、ちゃんと書きます。

さて。もうお一人は、内科・小児科の主治医です。ジフテリアの予防注射をした晩にヒキツケを起こしてからのお付き合いですから、私の 人生の長さに匹敵する、主治医。ロイド眼鏡の似合う紳士なドクターです。出会った時から、おじいちゃんでした。

自家中毒や、知恵熱的高熱で、最低週1は、真夜中に診ていただきました。入院もしました。当時は、点滴ではなくて、リンゲルでした。 私は頭の悪い子だったので、「ジュースを、飲みたいか?」と聞かれると、ゲロゲロ吐いてるにもかかわらず、元気良く「うん!」と言っ ては、リンゲルを打たれたのでした。で、翌日も「ジュースを、飲みたいか?」に、「うん!」。

リンゲルは、すごく痛くて、その姿など見られないから「針は、100本ついてるよ」と言うおじいちゃん先生の言葉を、成人するまで信 じていました。先生がウソ言うわけない。たぶん、他の病院の針は1本で、うちのは、100本あったんだと思います。

この先生は、すごい人で、診察室のドアを開けた瞬間に、病名を言います。「はい今日は、風疹ですね」。見立てに、間違いはなかった。 ・・・ただし、一つ問題が。胸に聴診器を当てる準備がOKになってから、前の患者さんのカルテに算盤を置くという、超几帳面な性格。 子供心は「寒いから、とっとと、診てくれ」でした。

ある夏、私は、いつも以上の高熱を出しました。とても病院に運搬される状態でなく、お二人に往診をお願いしました。どちらも往診に出 ていて、連絡がつかない状況でした。しかし、その後連絡はついて、同時にお二人がわが家に到着してしまいました。

視線に、ちょっと火花が見えました。同業者=仲が悪い。「私の命も、ここまでか」と正直思いました。でも、外科の先生が持っていた注 射薬を、おじいちゃん先生が、指先の細い血管から、注射してくださいました。その後のことは、記憶にありません。今、生きているから、 その時のお二人の診断と連携は間違いじゃなかった、のみです。医学における『命の恩人』が、二人揃った最初で最後の瞬間でした。

外科の先生が亡くなった時。たくさんの花輪や生花がありました。でも、医師会やあきらかに医師とわかるものは、外側に並べられていま した。患者や古いナースからのものが、先生のそばにありました。でも、唯一、おじいちゃん先生・個人からの生花が、枕元にありました。

お二人は、親子ほどの年齢差があました。外科の先生は、まだまだ若かった。あの夏のお二人の姿が、頭の中でグルグルと・・・私には、 わからないところで、二人の主治医に交流があったのでしょう・・・。「(外科の)先生でなきゃ、私の身体は、誰が治すの!」。でも、 どこか、おじいちゃん先生が、いると思っていた気がします。

小児科を卒業っていうか、実際に、最後に診ていただいたのは、高校のころでした。「恵美ちゃん。僕の3人の娘たちは、医者と結婚した んだよ。これから、何か困っても、相談してもらえば、大丈夫だからね」。「最初の主治医」は、親の選択によるものです。私は、「最初 の主治医」に、恵まれた。前人生の医療は、満点です。

乳がんになって初めて、自分から選びとった主治医ができた気がします。卵巣では、本当に本当に、自分で必死に探し、選び、出会うこと ができました。後人生の医療が始まったと思っています。・・・そうそう。私が頭に、コブを作った時間に、おじいちゃん先生は逝かれま した。93歳。現役のままでした。

コブはきっと「恵美ちゃん。これからは、自分で、医療を選択して生きなさい。大丈夫。絶対に、ある」という、おじいちゃん先生からの サジェスチョンだったと思います。ご焼香の際、診察室の前に、外科の先生の息子たち(現在の私の主治医)からの生花がありました。義 理ではない、生花。ウルっときました。でも、私は、泣かなかった。もう、大人だから、泣かないと決めて、ご焼香に行ったのだから。

これから、生かされるだけ、私は生きます。今、私を生かしてくれる主治医をへて、これから「最後の主治医」たちとの出会うことになる でしょう。おじいちゃん先生(や外科の先生)に似て、まず心から診る、人の気持ちに接する医療を行う職人のような人々に違いないと思 います。だって、私が、選ぶ「主治医」ですから。

・・・
■<あとがき>
・・・・・・・・・

去年9月にも書きました、M県対がん協会とのVS、覚えていらっしゃる方、いますか。まだ、解決にいたっておりません。なんだろうな あ。相手がなにしたいのか、さっぱしわかりません。

今現在、私は、一円もいただいていません。今月、決算らしいので、いいですか、関係者、領収書は書いてませんから。あっても、私の書 いたのじゃないですから。

「『契約不履行』は間違いないので、『違約金』を払うから、口座番号を教えてくれ」って話しにはなってました。1年越すから(もう越 しました)、とっとと終了させたくて、提示しました。口座番号は、充分な個人情報です。なのに、「社会通念上にのっとって」話し合い をしたいと言ってきました。

あとは、こんにゃくの方が、堅いだろうってくらい、こちらの文章をなぞるだけの文章をよこすだけで、解決にもっていけませーん。もっ てく気がないのかしらね?。どこまでも私を、痛め付けたいのかしら。話し合うって、口座番号まで聞いてて、何を話すの?。私を「いら ない」って言った、担当のオバちゃんに、あやまらせるのも「やぶさかじゃない」って。

それは、対がん協会が、上手にたってる場合に使う言葉で、私は完全に見下されてるんですね。私は、文書を書くのが生業だから、そうい う相手に書く文章が、もったいないです。会う時間もありません。相手は、職務時間の中で、文章を書き、協会の費用を使い、話し合いを 求め、給料をもらえるのね。

私は、対がん協会のためにそんなことしても、一円にもならないわけです。誰も特別手当くれないし、天下りもさせてくれない(笑)。休 業補償も出さないのに、わざわざ時間作って会う気はないです、よね?。

がん患者を守るべき存在が、対がん協会でしょう?。わが、M県においては、そういう存在ではないようです。少なくとも、私というがん 患者を、追い詰めたいんでしょう。県の直営でないので、どこも、協会を管理する機関がないし、自浄努力もないようだからなー。やっぱ、 私は、ちゃんとした医療機関で、がん検診受ける。そんなわけわからん事務局のある対がん協会のやる検診なんて、信じない。

と、ついついぼやいてしまいました。よいお知恵がありましたら、ご教示お願いいたします。来月は、解決しました!のご報告がしたいも の、です。ではでは、梅雨だけど、みなさん、ファイトです!。ノラノラ、ダラダラしててもいいから、ファイトです。

また、来月。

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{No18}2004年7月21日更新分

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■<前リード>
・・・・・・・・・

あづい。両腋リンパないから(?)汗、出ない。あづいよおお。あづい1回100円ねって言われても、あづい。梅雨は、家出してんのか。 それよか、このあづいは、本当の夏まで持つのか。去年みたいに「さむい」って連呼しなきゃならんのは、勘弁だぞ。

ところで、ダーリン:竹野内豊の「人間の証明」が、今クールですね。映画の時は、中学生だったと思うわ。ジョー山中さんは、今でも大 好き。いろいろあったけど、NHKにも出られるようになってよかった(レゲエ、特にカリビアンラブソングは、オススメ)。と、ダーリ ンが、毎週見られるう。松坂慶子ちゃんと風間杜夫さんが出てるんだから、平田満サマもそろえて、「蒲田行進曲」アゲイン、しないだろ うな・・・しないか。でも、ダーリンなのよう。

と、いうことで、今月は、長いよ・・・って、後書きの後のオマケがね(笑)。オマケは、お時間がある時にどうぞ。『「おっぱいのひみ つ」という絵本』と『たとえば。』の二本で行きます。よろしく。

・・・
■『「おっぱいのひみつ」という絵本』
・・・・・・・・・

とある待合室に、この絵本が置かれていました。そこは、乳腺外科ではないし、普通の外科でもないから、きっと乳がんをした人が来ると は想定してないでしょう。それが、世の中の常というものでしょう。

ランニングシャツの上に肌色の腹巻きをした男の人が「ブラジャーしてる!」ってとこから始まります・・・きっと著作権あると思うから、 詳しくは書きません(親切でなくて、ごめんね)。結論は、お母さんがお乳を、赤ちゃんに飲ませるための機能がある、かな。赤ちゃんは、 お母さんに抱っこされ、おっぱいをぎゅっとつかむのが、大好き。ちょっと、グッっときました。

最後のページに、母乳でなかった子供たちへのメッセージがあります。いくらがんばっても(一人一人の体質が違うから)、出ないお母さ んがいる。また、妊娠中に、何か病気をしてて、薬を飲んでたために、母乳を飲ませられなかった場合もある。母乳を飲ませたくても、が んばって治療をしながら、一生懸命、愛を持って、育ててくれたことにかわりないから、飲めなかったとしても、がっかりしなくていい、 と。ツーっ一本、涙がほっぺた流れてました。 それは、初版本でした。

じっくり読めなかったから、書店に注文して、24刷のが届きました。初版から14年、いろんな人に読まれ、いろんな感想があったんだ ろうなーと思ってたら、「なんか、ステキな絵本ですね」と、書店の店員さんが笑いました。私は、答えられませんでした(いつもは、な にか会話してくるんですが)。

私は、この絵本を、どうして買いたくなったんだろう。もしかしたら、この世にあるすべてのこの絵本を買いしめたかったのかな。もうす ぐ41歳。この先、きっと恋はしないような気がする。せっかく、外科の先生方も婦人科の先生も、「畠山さん、子供、産めるよ!」と、 病理を言う前に、言ってくださいました。「問題は、相手だな」と笑いながら、産める治療法を提示して、行ってくださいました。

二度乳がんして、卵巣も一つになって、でも、40歳過ぎて初産という、実験台になろうじゃないか!と、私の心のどこかの威勢はいい。 でも、子供を産む可能性が、0ではないけど、限りなくそれに近いと、自覚している。なのに、なんで、乳の本なんだろう。左の乳房の「 形」は残ってるけど、乳腺は、コバルト照射で、終わってしまった。右は、もうない。

どちらも、生きるために、自分で決めたことだろう。右が亡くなってから8カ月目、「翼をください」がラジオから流れてました。今、私 は、右の乳首が欲しいなと思いました。授乳がしたいなと思いました。で、突然気がつきました。同じペッタンコの胸だとしても、乳首が 着いたとしても、もう乳腺も亡いことを。

それを、乳がん仲間で、人生の先輩に言ったら「そりゃ、手術前に、わかるよ」と悲しそうな声でなぐさめられました。私自身は、最初か らミルクで育った子供ですから、母乳がなにさと思って、生きてきましたけどね。それは今でも、きっと同じ。0に近い可能性でも、私が 母親になれたら、私は子供に何と説明しよう。出る出ないの体質以前に、病気だったからしかたなくミルクにした以前に、お母さんはお乳 の出るおっぱいを亡くしてきたんだよ。

泣かずに言えるでしょうか。ふわふわしたおっぱいを、さわらせてあげることもできない。子供を産んでから、乳がんになった方が、うら やましい。「この子のために、生きよう」と思うだろうし(自分のために、まず生きてください)、もう授乳の問題で悩まないでいい。ふ わふわしたおっぱいの感触は、子供たちが覚えていてくれる。

この齢になったことも、独身でいることも、乳がんになったことも、私は、悔やむことはない。自分が、今できないことは、身の程と思う ことにしている。でも。初回の告知の後、入院の前、古い友人が「実は、うちの母親も、そうだったんだ」と話してくれました。今から、 30年以上前は、乳腺炎のしこりだとしても、全摘してからでないと、がんかそうでないかの判断がつかなかったとのこと(田舎の医療だ ったからかな?)。

友人の母上は、乳腺炎だったそう。「幼稚園までの記憶にある母は、いつも泣きながら布団で寝てた。私は、そんな家がイヤだった」。私 の知ってるその母上は、いつもニコニコしてるイメージなのに。なんか、とても難しい宿題を、この絵本から出されたと思います。解ける のかな、私に。あかちゃんにお乳をあげるため、女の人のおっぱいは大きいというページもあります。「乳がんになるために、おっぱいが あるかもね」と、かなり自虐的に思ったりして。

夏です。薄着の季節。たわわな乳房がわかる、たわわでない乳房もわかる、季節です。「お母さんは、生きるために、君に出会うために、 おっぱいを先に逝かせたんだよ」と、小さく、絵本に書き込みました。読む子が、未来にいるのか、わからないけど、鼻水出そうになりな がら、とりあえず。

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・・・
■『たとえば。』
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「乳首がなければ、私は女じゃなくなるから」。そう言った人の残った乳首は、腋の下に在りました。その乳首を撤去するか(再手術)、 25グレイを越す放射線照射か。提示された時、長期にわたる苛酷な放射線治療を、その人は選びました。治療の苦しさより、確実に生き られることより、女でいる自分を選ぶ。

たとえば、そういう患者さんもいるでしょう。「あとは、結婚式だ!」って時に、乳がんがわかった人がいると思ってください。結婚と同 時に辞めると決めていたから、仕事を辞めることに未練はなくて、だから、休職扱いにしてもらえることも蹴った。入院中も、婚約者は、 毎日見舞ってくれたし、手術室に行く前も、手を握って見送ってくれた。傷痕も目をそらさずに見てくれたし、その後の治療法も一緒に選 択してくれた。

「本当に、退院したら、結婚式が待ってるだけだったの」。退院直後、婚約者には、新しい女がいました。当然、結婚式はできませんでし た。当然です。「乳がんは、私から、彼と仕事を奪った」。・・・本当に、それは、乳がんのせい?。治療の副作用がひどくて、新しい仕 事をみつけるどころではありません。かろうじて、体調と相談しつつ、無償の介護ボランティアを生きがいにして、何年かが過ぎました。

「女とは別れた。おっぱいがあったら、また、おまえとやりなおしてもいい」。たったそれだけの言葉のために、乳房再建の手術にふみき りました。が、残酷なことに、数週間だったハズの入院は、院内感染のため、半年におよんでしまいました〜入院費及び再建代は、「誰に も言わない」約束で、病院が全額負担しました。退院したら・・・ご想像どおり、新しい女が、またいました。

けれど、彼の親が、介護を要する病に倒れてもいました。「やっぱり、お前でないと、俺の親は診られない。女とは別れるから、やりなお そう」。ここで、相談を受けたと思ってください。あなたの答えは、とっててください。「って、彼が頼むのよ。看病したらいいのかしら」。 そんな相談から半年ほどして、赤ん坊の写真葉書が届きました。葉書の姓は、かわっていたから、結婚したのでしょう。

矢継ぎ早に、赤ん坊がいかにかわいいかを一方的に伝える手紙が届きます。父親であり、夫である人のことは、一切ふれません。『乳がん という同じ病を越え、母親になったあなたのことを、尊敬します。でも、介護の相談を最後に、音信不通になって、いきなり赤ん坊の話で は、なにがなんだかわかりません』。「私の周りの人は、みんな、よろこんでくれるのに、あなたは、どうしてよろこんでくれないの」。

だって、出産は、私たちの病において、女性ホルモンを一番刺激する、命がけのことなんだよ。それからまた、半年ほどして、短い手紙が 届きました。再建した乳房の下に、再びのしこりが産まれ、再建した乳房ごと全摘すると。「子供のために、20年はいきなくちゃね」。 ばかやろう。自分のために生きろよ。自分の持って産まれた乳房を全摘しただけでもたくさんなのに、再建であろうとも同じ乳房を、また 全摘する。二度も同じ、亡失感を味わうなんて。そんな男のために、そんな男のために。

たとえば、『バカ女』とだけ、返事を書いたと思ってください。それでも、年賀状や折々に、子供の写真葉書は届きます。『バカ女』と書 いた意味を、理解してくれてるのでしょう。そして、生きてはいるのでしょう。葉書が届くたびに、電話をします。「でかけてる」と投げ やりな返答の背景で、子供の泣き声がいつも聞こえます。

たとえば、そういう、乳がん体験者も、いると思います。乳首や、乳房がないと、女ではないのでしょうか。その二つがないと、女ではな いと言う男を、後生大事に思うのでしょう。すがりつくのでしょう。なんで、その男でないといけないのでしょう。なんで、その恋が、命 がけの最後の恋と呼べるのでしょう。でも、私は、この不格好な裸体を、主治医以外には見せたくないと思っています。いいえ、参考にな るならば、そこに愛がないならば、誰にでも見せていい。どうぞご覧なさい。それが、私だから。

でも、心の底から好きで好きでたまらない男にだけは、見られたくない。私を女としてみないでね、人間としてだけみていてね。もし、結 婚しても、手をつなぐ以外は、絶対に指一本ふれないでね。『たとえば』。そんな患者がいるとして、乳首が腋の下に在っても、バカ男の 女ぐせとエゴを許し続けても、そっちの生き方のほうが、幼稚な私よりは、大人の普通の女なのでしょう。たとえば。あなたは、何と答え たいですか。私には、出せない答えです。

・・・
■<後リード>
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話して2人、居て5人。どうも、私の限界人数のようです。小学校1年の時のクラス会をしました。構想7年。ええ、初回の乳がん直前に 企画したものを、やっと実現させました。「俺どご、いづ、かごむのや」と言われ続けて、恩師も喜寿、私らも不惑。

でも、小学校1年のクラス会は、めずらしいかも。恩師も、不惑つかまえて、まだ7つだと思ってるようなリアクション。涙ぐみながら、 握手グワグワして、頭なでるなでる。幹事はあえておかなかったのですが、私が、気がつけば既に幹事か?状態だったので、なんか、一次 会は、流すので精一杯でした。

で、二次会は、南町子供会だった(!)メンツで、ハハハ、居酒屋の個室で、ジュースとウーロン茶と、アイスとパフェ・・・。居酒屋も イヤな客だと思ったろうよ(笑)。だって、その夜だけは、7つに戻ったんだもん。で、二次会の人数が、冒頭の居て5人。個室と言えど 居酒屋。他の同期も来てて、私は初めて話す人だったけど・・・「小学校の時しゃべったべっちゃ」と言われた瞬間!「このづは、針の穴 みたいなことまで覚えてるがら、こいつがしゃべってねーって言ったら、絶対しゃべってねえ」と、かばってくれた男子。

えっ、かばわれてないのか?。うん?。記憶にない記憶までインプットされ(って、ミニョン?)、楽しかったです。だから・・・おかげ さまで、6月27日に左丸7年、29日に右丸3年、になれたということです。7年も3年も長くて短かったです。これについては、すい ません、言葉がでません。では、来月、またお会いしましょう。 ・・・この後、オマケつきです、しつこいですが。

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<報告>M県対がん協会と。

平成15年7月2日正午、電話は鳴り始めた。ナンバー・ディスプレイを見ると、同じ組織内からかけ続けられていた。今時の電話は、留 守電にしてなくても、ある程度の回数鳴れば、自動的に切れる。1秒もないうちに、また電話は鳴る。30個の着信履歴は、あっという間 に似たような番号で一回りした。

「一人でいては、危ない」。SOSの電話を発信しようとしても、鳴り続ける電話のため、かけられない。携帯というツールは持ち合わせ ていなかった。異常に鳴り続ける電話を、取れる人が、どのくらいいるだろう。2時間、電話は鳴り続けた。

パニック・ディスオーダーを飼ってる者にとって、冬でもないかぎり、家中を閉めているのは辛い。呼吸が苦しくなる。暑い日なら、なお さら。でも、とっさに、すべての窓や戸を閉め、鍵をかけた。かけおえた瞬間だった。玄関の前に、二人の男が立った。大声で、名前を呼 んでいる。影を見せぬよう、歩腹前進で、トイレに逃げた。見透かすように、閉められたトイレの小窓を叩きながら、また名前が呼ばれた。

年寄りの男・B殿の方は、昔、銀行員だったそうだ。居留守も、長時間いるならトイレだくらい、取り立ての担当でもあれば、すぐにわか ることなのだろう。当事者以外には、留守宅にうっかり早く到着してしまったような声で、当事者には、脅す声で、名を呼ぶテクニックは 持ってる。

パニックの発作が始まった。うっかり安定剤は、部屋にある。台所の窓の前にも、もう一人の影が見える。冷蔵庫にある水は出せない。そ れでもなんとか、また歩腹前進で部屋に戻り、安定剤と電話の小器をつかみ、一番奥の部屋に立てこもった。この部屋の窓、窓越しに声を かけるためには、大通りのフェンスを越えないと無理だ。もちろん、最悪の時は、この窓から、裸足で飛び降り、助けを求めなければなら ない。

パソコンのメールから、議員にあてて、SOSのメールを打った。いつもは不在が多いその議員から、ソッコーで、小器に電話が入った。 議員の家族にも、パニックを飼っている人がいるから、とにかく、どんなに長くなろうと、電話は切らずにいようと言ってもらった。議員 は、M県対がん協会について、いろいろと教えてくれた。

もちろん、この時、そう、午後2時から4時半まで、対がん協会の二人の男性は、時折、脅しの声をかけながら、家の周りにいた。他県の ことはわからないが、M県において対がん協会は、県直轄の団体ではない。苦情を県に言ったとしても、県には、対がん協会を教育する権 利はない。けれど、検診車には、いかにも県直轄のように『M県対がん協会』と書かれている。

きっと、直轄じゃないことを、県民は知らない。もちろん知らなくても、がんが速やかに見つかればいい話だ。県の直轄でない団体の、法 人の会計は、とても不明瞭だ。議員は、そういう団体に寄付をしてはならないと、罰則はある。しかし、団体は当たり前のように、お祭り の寄付程度のつもりか、1000円の振り込み用紙を、送り付けるのだと。議会で問題にしようとした議員の中には、選挙で落選させられ た人もいたらしい。

小泉さんの党の議員の多くが、対がん協会の顧問になっており、県の与党であるかぎり、議案にはできないのだという。与党でなくても、 医療関係の団体の支援を受けるためには、この問題は、県民に知られないうちに、闇に葬らねばならないらしい。たかが1000円のため に、議員じゃなくなるわけにはいかない。

それでも、罰則があるので、強制ではなく、任意になったとのこと、議員でなく、私人で寄付したことにすればいいという基準。そして今 でも、ある党の議員さんは、払い続けている、議員なのに。

対がん協会は、講演を依頼してきた。そして、一方的に断ってきた。人格や、病や命を否定するような言葉で。ただ「ごめんなさい」とい う言葉の謝罪を求めただけなのに、『講演依頼を一方的に断ったという、契約不履行の違約金』を受け取れと、今、家の前に立っている。 その直前は、ストーカーのような電話をかけ続けた。「ごめんなさい」は、会議にかけないと言えないと言う。

・・・人とのつながりとは、そういうものだろうか。担当の青年・Aさんは、明日のことさえ考えられないようながん患者に、講演という 未来を与えてくれた。組織の中で、そうしなければ、青年は生きられないのだろうけど、家の前に立つ。このAさんは、本当に、いい人な のに(これからも、感謝し続けたい)。

戻そう。不明瞭なのは、入金、運営資金だけではない。この講演にあたっての支出もだ。契約書も交わしていないのに『契約不履行による 違約金』は、どこから出るのか。対がん協会は、がん患者の会『Yの会』の事務局も兼ねている。対がん協会からの支出なら、なんとでも なるらしい(それは、組織の帳簿としておかしい)が、両方の決算の終わった直後の時期だ。仮に『Yの会』からの支出だとしたら、受け 取った場合、来年(今年の、今時点のこと)、返還要求が生じると、指導の権利のない県の担当者が教えてくれた。

議員は言った。それは、口止め料だと。「おまえさんに、真実を書かれることが、こわいんだ。『ごめなさい』と人の道だけを求めること に、脅えている」と。「物書きなら、ここは受け取って、で、でも、書いて、勝負をかけろ」と、唆した。卵巣の痛みがピークで、体力も 気力もいっぱいいっぱいな時だった。どこに闘う力があるもんか。安定剤をかじりながら、思った。

職務だから、がん検診をする。協会長は、名前ばかりの名誉職で、権限はない。職員教育をする、自浄努力(内部組織)もない。指導する、 上部団体もない。だから、どろどろの団体でいいのだと。きっと、一人一人の下位の職員はいい人だ。でも、天下ってきた上部にいる管理 職が不明瞭なのだ。

けれど、善良な県民は、県の(偽)冠の名のもと、市町村の斡旋のもと、疑いもせず検診に身を委ねる。もちろん、どろどろしてても、が んを早期発見さえしてくれれば、それでいい。県民は、職員ではないのだから。そして、電話を2時間鳴らされ続け、家の前に2時間半居 座られるという恐怖体験をすることは、きっとあり得ないから。

議員は、ひとしきり説明すると、いろんな方向に話題を飛ばして、閉じ込められてる中でも、笑いをくれた。パニックがひどくならないよ うに、一生懸命話してくださった。そんなに暇な人ではないのに。それから二日ほど、電話と家の前に立つは続いた。セールスであっても、 男の人が家の前に立っただけで、体が硬直して震えがとまらず声がでない状態が、今でも続いている。

医師は、7月2日のPTSDだという診断書を書いてくれた。いろんなことがあって、この問題は、今年の4月にまた持ち上がった。「ご めんなさい」は「やぶさかではない」と上位に立った口調で言ってやってもいいと文書がきた。心からわびる気もないことがわかってしま ったのに、会う必要はない。

電話で心を守ってくださった議員さんは、政治がイヤになって、今は、議員を辞めた。「まだ、解決つかねーのか。そんなことしてる暇ね ーだろ」と、おっしゃる。確かに。「契約不履行による違約金」を支払ってもらうため、口座番号を提示した。もうかかわりたくなかった。 どっちみち、去年の9月に、このHPで、簡単な詳細は書いてしまった。口止め料にはならない。書かないとは、もう言えない。書くなと も、言えないだろう。

口座番号を提示し、指示された様式で請求書を書いた。そうしたら、「社会通念上に基づく金額を話し合うために、調停をしたい」と文書 が届いた。金額は、対がん協会が提示したものだ。ボッてはいない。先月、これを書いたら、多くの読者の方から「担当者が、使い込んだ から、払えないんじゃないかな」と、単純な頭では思いつかない意見をいただいた。

確かに、7月2日の段階で、10万円と5万円と商品券の入った(らしい)、3つの茶封筒は持参されていた。通常の会社ならば、現金で、 茶封筒渡しは、ない。ありえない。領収書の偽造など、いくらでもできるだろう。1年たってるんだから、もう。「電話に出られないので、 倒れてたらと思いまして、お宅まで駆けつけたわけです」を繰り返す。

仙台から1時間もかかる場所に、一患者が電話に出ないからといって、車を飛ばすほど、しかも4日も連続でできるほど、職員が多いのだ ろうか。

M県のがん患者のみなさん、具合が悪くて、心細い時は、対がん協会が駆けつけてくれます、きっと。電話してみてください。・・・と、 書かれてもいいということだと思う。そんな無駄な、優しい職員を多数雇うならば、事務的でいいから少数の職員で、より有能ながん検診 の検査機械を購入して欲しい。すべては、キベンだ。不毛な文書のやりとりは続き、最後には、配達証明800円で送られてきた。不在が 多くなったから、何度、郵便局の人にご迷惑をおかけしただろう。

先月、書いた時点では、そういうことだった。きっと、このHPは、チェックされている。そして、個人情報もまた、調べられている。先 月の更新の後、あんなに「調停」と連ねた、老職員B殿から、振り込んだ旨の文書が届いた。まだ、本当に入金されているか、記帳に行っ ていない。調停する時間も出せないのだから、記帳に行く暇もない。

金額は、合計の半分以下らしい。PTSDのことは、診断書があっても、慰謝料にならないとご主張なさっている。文書やりとりの経費も 払われはしない。でも、たった一人をPTSDになるまで痛めつけたことは、自分で書いて稼げということかもしれない。こんな、ちっぽ けな人間に書かれることに、何を脅えているのか。不思議なところだ。

家の前に立たれるほうが、よっぽど、だ。記帳もしてないし、確認はしてませんが、どうも、同じ穴の豸になったのかもということを、ご 報告しておきます。最後になりましたが、今後も、何かが判明したら、随時ご報告するつもりです。書かせていただいて、ありがとうござ います。

また、来月。

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{No19}2004年8月31日更新分

・・・
■<前リード>
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お盆・・・私のほうでは、なんだんだで、8月末まで続いています。それは、秋の気配というか、ちょっぴり涼しくなる目安なんですけど、 今年は、どんなものでしょう。

さてさて。アラーキーが、乳がんの傷痕を撮ったという写真集を出したって、未確認情報があるんですが。検索かけたんですが、ちょっと まだ、未確認です。実は・・・平成10年に、アラーキに撮ってもらうチャンス(週刊新潮の企画)のあった私としましては、「やられた !(先、越された)」気分でいるんですけどね。

でも、そん時は、まだ左の温存だけでしたし・・・右の全摘の時「あん時、アラーキーに撮ってもらえばよかったのに」と、友人が嘆いた ものでした。S山先生やK納先生でなく、アラーキーならば、現実は現実として、事実をそのまま撮ってくださるだろうなと思ったのです が。勇気もなかったし・・・撮影場所に行けば、交通費とか出演料も出ただろうが、お金がなくて行けなかった。

そのお金を出すと、治療費がなくなる。それが、その時の私にとっての現実でした。まー、アラーキー、今、これを読んでいらっしゃいま したら、BS社まで、ご連絡ください。今なら、お願いしとうございます、です。って、ことで、今月は、『自分の身体を信じろ!』と『 10年、若かったら』の2本で、行きます。よろしくう。

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■『自分の身体を信じろ!』
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5月に生理が、戻ってきました。 左の治療後、右の告知までの約1年それらしきものはあったにせよ、33歳から、実に7年ぶりの生理です。ましてや、去年、右卵巣を、 卵管ごと摘出しています。ゾラとノルバの併用を、33歳から36歳の2年半、37歳から39歳の2年3カ月、2回しました。ゾラ注射 ・通算50回に関しては、去年婦人科医に「婦人科では、6回が限界だとしています」と言われました。

ノルバに関しては、初回、放射線医に「5年飲むと、子宮がボロボロになるんだよね」と言われました。戦友は、ゾラを「10回打ったら さー。もうあがった、って言われた」とさびしそうに言っていました。副作用の症状である、更年期状態は、とてもキツかったです。疑似 更年期でも、こんなに辛いなら、本当の更年期が来たら、ホルモン充填法もできない身体で、どう生きていったらいいの、と、泣き続けた 日々もありました。

「生理、戻りました」。そう告げた時、友人たちは、各家で赤飯を食べてくれました。同時に「また、ホルモン動くから、充分に身体に注 意してね」とも、言われました。

35歳を区切りに、生理の質も変わったと、友人たちは言います。でも、私には、その「普通」が、わからない。ましてや、卵巣摘出の手 術によって、人生で初めてやっと子宮は平らになったものの、左卵巣ひとつだけの機能による生理です。すぐに、書きたかったけど、約5 0日周期で、3回目の生理が来るまで、観察をしてからのご報告となりました。

前症状も、痛みもほとんどありません(うーん、あえての前症状は、1週間前にやたら甘いモノが欲しくなる〜そういう間食はしないんで す、私。それから、やたら、眠い〜前は、神経が起きてた)。塊も、ほとんど出ません。初めて、前漏れを体験しました。ジーパン刑事が 殉職した時のような「なんじゃ、これ!」でした。

痛みはないけど(そして、回を重ねるごとに慣れましたが)、身体がしびれてるような気がして、うっかり気絶?かと、気が抜けません。 乳房がなくても、乳房は張ります。傷は、張る速度に適応しないので、つっぱったように痛みます。そして。オンちゃんデブだった身体が、 オバちゃんデブになるべく、肉の移動が起こっています。来年の夏には、サンドレスが着られるかもしれません。

「お子さんを、お望みでしょう」。相手もいない、可能性も少ない私に、主治医たちは、治療を始める前に、そうおっしゃいました。卵巣 を摘出する時もでした。そういう治療を、私は、選択していただいたのだと思います。4月からつけ始めた基礎体温表は、理想的な数値を 毎朝刻んでいます。妊娠可能な身体に、乳がん治療を経てなったのでしょう。

検査値は、確かに重要だし、目安です。また、治療の前に主治医に、副作用について充分説明してもらうことも、必要だと思います。でも、 それは、データの上に過ぎない。もっと、もっと、もっと、自分の身体を信じてください。女の身体は、データどおりにはいかない。主治 医を責める前に、自分を信じようよ。

私は、正直、33歳で生理が終わったと絶望した。ちょっと戻った後に、右の告知があって、また絶望したよ。女である自分、それを知ら しめる生理ってものに。でも。本当に、でも、だ。ここに、私というサンプルがいます。今、治療中で、絶望してていい。でも、自分の身 体が、自分を見捨てはしないことを、おぼえてて欲しい。

検査データを羅列して、ヒステリックに治療前の説明がなかったなんて、私は、主治医に叫ばなかった。だって、彼らは、私の身体ではな いから。私は、私の身体の持つ力を信じてくれる主治医と出会った、単なる幸運さんなのかもしれない。でも、この7年ずっと不安だった。 そして、今だって不安です。でも、自分の身体を信じてください。お願いだから、あきらめないでください。先月から、不安に陥ってしま った人に言います。 自分が生きていけるように、身体はなっていくから、自分の持つ力を信じてください。私は、毎月、それを、心に、持って、このHPを書 いています。自分の不安を乗り越えた(かもしれない)経験を、お伝えしたいと思っています。ノンキそうなバカ話ばっか書いてると思わ れても、読んでくださるあなたと一緒に生きていきたいから、ヤバイ話は抜いてきたつもりです。

私たちは、患者です。偽医者じゃない。データで、自分の未来を決められてたまるもんか。あなたが、笑えるならば、私は、たくさん笑え る話を書きます。相変わらず相手もいない、出産の可能性も低い、しかも、もはや41歳になる私にだって、生理は戻ってきました。これ では、希望にはなりませんか?。自分の身体を、信じろ!。

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■『10年、若かったら』
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私の元・家族が38歳で、私の弟を妊娠した時に「あと、10年若かったら」と、言い出しました。弟は、医療ミスで、産まれて数時間後 に、逝きました。そして、当時11歳の私は、38歳という年齢を、ずいぶん年寄りに思った気がします。

彼女が47歳の時、うちは、つぶれました(事業に失敗しました)。「あと、10年若かったら、どんなことでもできたのに」と、法的な 救済さえ、自分では行わず、現在に至っています。彼女が53歳の時、家が競売にあいました。頼りない娘(私)との生活の中で「あと、 10年若かったら、借金しても、家と店を建てるのに」と言いました。

64歳の彼女は、恋をしました。「10年、若かったら」と、この時、申しませんでした。その恋は、きっと今も自己満足の中続いてるの でしょう。あっ、余計なお世話ですね。しかし、65歳の彼女は言いました。「あと、10年若かったら、こんな病気持ちな娘(私)でも、 家を出してやります。でも、私も、もはや70歳です。誰が、私の介護をやるんでしょう。この人に介護されると思うと地獄ですが、うち からは出しません。こんな身体で、結婚もできないだろうし」。

・・・私は、この春、家を出ました。まだ40歳だからです。私は、38歳で妊娠することはなかった。むしろ、右乳房の治療をしていま した。40歳になる、10日前に、右卵巣を摘出して思いました。「あと、10年若かったらなんて、絶対に思わない」と。だって、40 歳って、そんな年寄りじゃない。40歳から見た、47歳って、とても近所。なにかをあきらめる年齢じゃないからです。

いくつだから、あきらめなければならないことは、ない。いくつだからできない可能性は、ない。それは、独身であるか、既婚の子持ちで あるかでは、条件的に状況的に、ずいぶんと違うと思うけれど。仮に、47歳の私が「あと、10年若かったら」と思うとすれば、出産で しょう。しかし、その37歳の時、私は、右乳房を全摘して、ゾラとノルバの治療を始めました。

自分が生きていくために、物理的に出産は不可能でした(健康であっても、相手がいない)。そういう事実に対して「10年、若かったら」 は、必然性を持ち得ないのです。

47歳で事業に失敗しても、「50までに取り戻してやるぞ」とふんばる力は残っていると思います。私は当事者じゃないから、権利の行 使はできなかったけれど、法で自分の身を守れることを、反面教師で学びました。それには、感謝しています。・・・雨露しのげれば、そ して、私を理解し、お互いに助け合って、慈愛に満ちた日々をおくっていくことができたら、そこが、6畳1間のアパートだって、ボロボ ロの借家だって、人間は生きていくことができます。

病気を得る前の私は、出産はしたいと思っていましたが、生殖としてのパートナーの存在は必要でも、人生をともに生きるパートナーは必 要に思っていなかったようです。

「恋をして、子供を産んで」「ちょっと、途中に、結婚が抜けてるんでない?」と、しょっちゅう友人に、つっこまれていました。でも、 病は、私に、人は一人では生きていけないことを教えてくれました。この8年、私は、いろんな人に支えられて生かしていただきました。 健康だと思われる身体であっても、出産はいのちがけです。ましてや、私は、もっと厳しい。

「一人で、育てる。さよなら」も「あなたに、ご迷惑はかけません。産ませてください」も、私の出産には、あり得ません。産むまでの1 0カ月、産んでからの子育て、パートナーの、身近な支えがなければ、一人では無理です。もちろん、私だけの子供ではなく、二人の子供 であるから、当然のこと。

母親がはやく消えてしまうかもしれない可能性において、父親となる人には、子供と長い時間向き合えるという条件が発生します。 仮に 私にそういう可能性が生じても、「あの人(パートナー)との時間があったから、畠山は幸せだったよ」と、この8年を支えてくれた人に 言っていただける人生の選択をしていかねばならないと、最近、切に思うようになりました。

私の出産可能年齢は、あと3年かな。私の乳房の傷痕を無視することなく、リスペクトしてくれる人にまず、出会わなければなりません。 そして、身内も捨ててしまった(身内からしたら「こっちから捨ててやった」と豪語してんだろうな)私に、「もう、ひとりぼっちではな い」ということを信じさせてくれる人に出会いたい。3年で、それが可能かどうかは、神のみぞ知る、でしょう。

出産ということをのぞけば、パートナーとの出会いは、一生あります。一生の長さは、この世の人の数だけ違います。できるだけ長く、で きるだけ慈しみあって、生きていけたらいいなと思います。40歳を、不惑と言います。もう惑わない齢です。今の日々は、戸惑ってばっ かりの、チト自堕落な時間にいます。一人になって、ものすごく貧乏ですけど、日常に暴力や、言葉の暴力のない、やっと、穏やかな時間 に身を置いています。そして、自分の人生設計の中に、不惑の項目ができたように思います。

それは、「10年、若かったら」絶対に、思いつかなかったことです。

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■<後リード>
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出会いって、なかなかないものですね、ハハハ。それは、今に始まったことではないけれど。いい人との出会いは、やたらありますが、恋 というものとの出会いは、ないですねえ。あるのかもしれないけど、気がついてないだけなのか。

「願っていれば、絶対に出会えるよ。自分を磨いていて」。遠方に嫁いだ友人が、最近言ってくれた言葉です。・・・自分を磨くのは、ナ イロンタオルでいいかと、答えた私。綿とか自然素材で磨いたらとにこやかに訂正した彼女。今朝の夢で、ダーリン:竹野内豊氏(また、 今月も登場かい!)と珈琲を飲んでました。とおおおっても、幸せでした。

まあ、これが、今の私の精一杯かしら。願ってても、会えないと思うわ・・・。なんて、ね。 多くの欲を持ってるつもりはなく、普通を求 めてるだけだったりするけど、普通は、一番難しいかもしれません。でも、それが、私たちが生きて行く原動力になっているとは、確実に 思います。

じゃあ、また、来月、お会いしましょう。

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<M対がん協会:続報>

8月になって、入金を確認しました。金額は、先月書いたものを合算したものよりも低いものでした。「1年も経てば、担当者が、ネコバ バした場合もあるんでない」とサジェスチョンいただいたものですから、受領書の金額は「相当額」という、曖昧な情けを書きました。

連絡実費も、診断書をとった分の慰謝料は含まずと、但し書きをつけました。そして、M県対がん協会から「当方では、これで、金銭的な ことは終わったと思っています」という、文章が届きました。金銭的なことは、終わったのですね。では、いろいろ調査させていただいた ことは、公開開始していいってことかな・・・と、悪党の私は、考えてるいます。少しづつ、みなさんにお伝えしますね。

では、まず。対がん協会との、一番最初の窓口となった「市民のプライバシーを守るのは、職員としてのつとめです」とおっしゃったのは、 、市のホケンフちゃんでした。彼女が、間に入ったことは、越権ではなかったかなと思います。この問題、本文より長くなる状態ですから、 微細なことは、もっとありますよね。彼女の希望により、都度報告してたんです。

でも、もめた後の、彼女の処理は、実に見事でした。私、パニックディスオダーやら、乳がんのカウンセリングを受けてることを、このH Pでも隠さず書いています。彼女は、それを、弱点だと思ったみたいです。私のカウンセラーに電話をし「電話、長いので、注意してくだ さい」・・・?・・・。私の電話は長いです。始める前に時間は大丈夫か?など聞いて、途中でも聞き聞き話をすすめます。そこで、NO を言わなければ、話は続きますよね?。特に、今回の問題の説明は、自分でもイヤになるくらいだったし。

カウンセリングに通ってる=話が通じない=プライバシーは必要ない。ホケンフって、プロでも、偏見があるんですね。もちろん、私のカ ウンセラーは「長いと思ったら、あなた自身が断るものです」と叱ったそうです。この件については、その後、市の人事課や、彼女の上司 にも報告と、調査依頼をさせてもらいました。が、今現在、彼女は、おとがめなしで、ホケンフを続けてるようです。ますます、行政の推 奨する集団検診に、期待を持てねえよ!、です。

これも、充分、お伝えしなければならないことですよね


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