{No20}2004年9月22日更新分
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■【まえおき】
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他の部所のがんは「人生ありかも」と思っていた33歳に、突然、乳がんがきた。びっくりした。もっとびっくりしたのは、退院の時もら
った保険の診断書だった。「病名:乳癌。発祥の理由:不明」。いつしこりに触れたかも、その前の体調の変化も、告知からの毎日も、全
部言えるのに、発祥の理由は「不明」だってよ。こっちが、びっくりだぜ。
人間は、3日で立ち直るそうです。どんな悲しさも喜びも、4日目には日常になってしまうそう。私も、やっぱ3日は悩んだけど、4日目
にはちゃんと腹がへってました。「悪い人に来ちゃったわね。私は、あんたのことを全部見て、全部書いてやる。もう全部ネタにする。覚
悟しいや、がん」。 6年経ても、私は私の身体に日々起こることを見ています、語っています。書いています。だから、キレイゴトじ
ゃない、ぶっちゃけトークをしましょう。
あっ、私、畠山恵美と申します。よろしく。
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■【<前リード>】
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おはようございます。私の母校では、一日中、この言葉があいさつです。あのころ、自分が乳がんするなんて、カケラも思いませんでした。
右乳房全部摘出の麻酔から、完全に目が覚めたのは、土曜日の午後0時44分ごろでした。まだ身体を起こすことはできなかったけれど、
回復室代わりに使われたのは、豪華な個室でした。
初回の回復室は機材室に比べると、爽やかな夏風の吹き込む部屋でした。
左手を延ばすと、テレビがあり、スイッチを入れました。「もう大丈夫心配ないと♪」。が流れてきました。『ちゅらさん』の再放送の時
間だったのですね。その音楽が耳に入った途端、私は、ポロポロ泣きました。二度目の乳がんを支えてくれた、大勢の友人たち。一人一人
の顔が、バババっと浮かんできました。またみんなと同じ空気が吸えるんだと思うと、生きられる命に感謝しました。
同時に、先に、乳がん村で待っててくれる、須藤玲子はじめ、戦友たちがいたから、生きていられることにも、感謝しました。あの歌は、
ベストフレンド』というタイトルなんですよね。それから2年の時間が経った初夏。25回、通算50回目の、最後のゾラを打ってきた翌
朝、「あー、終わったなあ。あー、死んじゃおうかな」ととてもすがすがしく思ったりもしました。
乳がんで死んだと思われるのは心外だから、絶対、死因は違うものにすると決めて丸6年。もうゾラをすることもない。積極的治療は、一
応終わったんだなって思ったら、なんだかとてもホッとしたのかもしれません。幸せだから、死んでしまいたいと思ったんだと思います。
私にとって、今年の夏は、人生で初めてのものでした。
・・・人生って言ったって、平均寿命まで生きて、夏は80数回しかない貴重なものですよ。
今、秋の中に居て、どの夏も、私には必要で大切なものなのだと思っています。
今月は、『トゼンなるまま』と『パートナー』の二本、そして、後リードのアトに、いつものごとくオマケがあります。
よろしく。
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■【トゼンなるまま】
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◎エコー検査のたびに思うこと。
そこに悪意や作為などなく、純粋な検査現場なのですが、私の頭の中を、いつも二つのことがよぎっていきます。放射線照射の後、私の左
腋の下は、ベロリと皮膚が向けて、ジュクジュクになりました。もちろん、そこに一本の腋毛もありませんでした。だから、弱々しい1本
目が生えてきた時(すぐ抜けましたが)うれしかったです。
腋の下は、ある意味ガードが必要だから毛が生えてくる「絶対に、腋毛の処理をしない」と、誓いました。もちろん、カミソリや脱毛クリ
ームの使用は避け、ハサミで適度にカットしてという注釈もあったからですが。右の腋の下もそれに準じ、4年後の手術前夜に剃っただけ
です。おっぱいが、私が生きていくために、その生涯をまっとうできなかったのだから、腋毛くらい自由にさせてやりたいと思いました。
エコーの時、バウバウの腋の下をさらし、『コイツ、女捨ててるな』って、主治医が思ってるかなと、ちとよぎります。そう思われても、
私は私の考えを捨てるつもりはないけれど。一度聞いたことは、あります。「思ってないさー」とニコヤカに、答えてくださいましたけど
ね。
もう一つ。エコーの滑りために、潤滑ジェルを塗りますよね。検査が終わって、主治医がブースから出ていくと、蒸しタオルで拭いてもら
う場合もあれば、ティッシュで自分で拭く場合もあります。その時、よぎるのです。「AVの、顔面シャワーみてえ」と。例えが不謹慎で
も、そう思います。AVを見る習慣はないですが、それくらいは知ってます。
私、にっかつロマンポルノは、ある種芸術だと思うけど、AVは女が物になってると思います。そこに愛があるかどうかでしょう。
AVで、青少年がSEXを学び、顔面シャワーによって女性が喜ぶと勘違いしてるという記事を読んだことがあります。私の実体験でそう
いうことはありませんけれど。乳房に残された生温かいジェルは、なんだかね、愛のない行為の後に残された屈辱みてえだなと思うんです。
これは、忙しい主治医には言えません。そして、ここで初めて言ってみたことです。
◎副作用は、誰が口にするの?。
初回・左のゾラ&ノルバの治療が終わる時、私の下の毛は、残り10数本になってました。もう一回ゾラがあったら、ツルツルだったでし
ょう。それが、悲しかったとかではなく、調剤薬局からいただいた副作用ばっかり書かれてる説明書に、下の毛が抜けるとはなかったなと
思いました。
二度目の右治療の時は、初回ほどではなかったけど、やはりそれなりに、パヤパヤになりました。
頭の毛は、太くて黒く直毛でごわかったのが、年齢のせいもあるんでしょうが、扱いやすい髪になりました。だから、もっとよわい下の毛
は、当然なんでしょうが。
ゾラは、通算50回打ちました。当然、打たれたくない腹は、防御の皮下脂肪を蓄え、冬になると疼痛を生じさせます。きっと生きる一生
続くでしょう。これも、副作用説明書にはありません。100人中、34人「も」効きますみたいなくだりは、存在しても。100人中1
00人に効く薬剤開発してよ、です。
製薬会社の方とお話しする機会があり、例として二つを述べました。「臨床の先生から言われないと、わからない」みたいなことを言われ
ました。「こいつは苦しいぞ」と患者が直接訴えられる、製薬会社の副作用担当がいればいいのにと、思いました。
◎心というもの。
「いつか、ポーンと死にたくなるような落ち込みが来るかもしれません。けれどそれは、あなたの意志ではなく、ホルモン作用がさせてる
ことなので、何もしなくていいから、死んではダメですよ」。初回の退院時に、言われた言葉です。朝気分が悪くなって、夕方まで治る人
がいれば、5年くらい「死にたい」と思う人もいるみたいです。
精神科。イヤなら、違う名称の同じ診療内容の科でもいいです。どうぞ、頼ってみてください。イヤな気持ちの全部が晴れるわけではない
けど、少しだけ楽になる「瞬間」が持てるハズです。できれば、告知を受け、入院手術する前に、一度受診しておくといいかもしれない。
「10の苦しみの全部を助けることはできないかもしれない。でも、話すことによって2、投薬(精神安定剤など)によって3、合計半分
楽になったら、人間は自分の力であと5をなんとかすることができる」。
人間は弱いです。ましてや、私たちの病は、こわい。それを一人でためこまず、家族でも友人でも知り合いでもない、利害関係のないプロ
に吐き出せたら、人間は、案外強くなれると、私は思います。
・・・乳がんになって、いろんなこと思いました。すぐ忘れていくこと、忘れたいのに残ってしまったこと。宮城で、「とぜん」とは、寂
しいと言う意味を持ってたりします。すべては、乳がんの、徒然なるまま。
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■【パートナー】
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いつか書かなければならないと思ってたことです。乳がんと告知された瞬間から、あなたの性欲はどう変化しましたか。
乳房のあるなしにかかわらず、羞恥心のために語りずらくても、人間には、性欲というのもは、存在すると思います。「もう子供が二人い
たし、この先、そういうこと(SEX)がなくなっても、もういいと覚悟したの」。数十年前に手術なされた方はおっしゃいました。
「しばらくは考えたくなかった。そればかりが夫婦のかたちではないしね」。20年ほど前に手術した方は言いました。しかしながら、私
の父の従姉妹の乳がんを発見したのは、その夫でした。脳梗塞で長く臥せっておられて日常の介護は、その娘さんがなさっておりました。
ある時、娘にかわって、お風呂に入れているうちに、乳房に違和感を持ったということです。
毎日介護してる娘だからわかること。パートナーにしかわからないこと。これは、如実な例でしょう。そこに性欲が存在してたかは謎です
が。乳房がなくなったことによって、離婚した夫婦、別れた恋人たちの例は、たくさん聞いています。別れないにしても。とある患者会に
は、夫(恋人)の会という部門があります。
妻の病気と一緒に立ち向かう一生懸命さは認めるところです、が。「彼は、私に指一本ふれなくなった」という落胆の声も聞きます。平成
9年6月8日から、つい最近まで、私も自分に性欲があるとは思えませんでした。あったとしても、大好きな人にだけは、身体を見せたく
ないと頑固に思い、あきらめてました。
現に、ゾラとノルバの治療中は、性欲どころか、性欲を考える余裕すらありませんでしたしね。ドラマのエッチシーンを見ても、官能小説
を読んでも、だからどうした、ごくろうさんでした。確実に自分に性欲がないとわかった時期もありました。乳がんになる前だって決して、
パートナー作りが上手だとは言えなかった私です。
んー、極端に言うとすれば、愛がないからSEXというかたちが必要なんで、愛があれば、裸でハグしてるだけでいいんでない?、でした。
上手な、適切な表現ではないですが。
昔「私たちは、ただSEXをしただけの 清らかな関係でしたね そこになんの感情もないただ清らかな関係でしたね」というような詩を読
んで、その通りだと思いました。生殖を伴わないSEXに意味なんかない。けれど、人間が性欲を持つならば、そこに愛なんか存在しない
ほうがいい。でも、その行為は、つま先の冷たさが一生続くものでしょう。
この8年、好きになっていただくこともなくはなかっです。「私は、おっぱいがないうえに、こんな病気です。副作用で、別人のように太
ってしまって、単なるおばちゃんになってしまいました。それを好きになるなんて、魂胆は何ですか」。白か黒かを求めました。「保険に
も入れませんから。寿命まで生きると思いますし」まで、言ってしまったことがあります。
「おっぱいない人や、身体に傷痕がある人、腋毛をはやしたままの人など、マニアとしてコタエラレナイってヤツいるからな」と、言われ
ることがあります。たびたびあります。勇気づけるための笑い話でも、私はどんどん傷ついていきました。例えばの話、不倫。パートナー
がした場合、人は弱いから言うだろうと思うのが「おまえに、おっぱいがあったら、しなかった」。1回なら許しても、連続で言われたら、
私はソイツを殺すかもしれません。
じゃあ、私がの場合。なにかの決意がなければそういうふうにはなりませんわね(基本的に、私は、不倫は選択しません)。でも妻に発覚
した場合、相手は言うでしょう。「あん病気でかわいそうだったから」。病気がなくても、今の男というものは、今の自分の仕事や家庭や
人生を全部捨ててまで、女に命をはるってことはしませんからね。人生経験も経済力もないですし。またその妻(パートナー)も、「彼は
優しいから、一時の気の迷いだったんだわ」と、私を許すでしょう。
それは自分が五体満足だと思っている女の奢りです。不倫に存在する性欲は、動物のそれ以下。乳がんになったから、恋愛も結婚も、性欲も
全部禁止なのかしら?。病気は別として、普通に生きて女が性欲について語るのはタブーでしょうか、はしたないですか。
この連載を始めた時、私は、恋愛をするとは思いもしなかったし。「ゾラとノルバを2回して、卵巣一つしかなくても、40代で初産する
のが、主治医たちへの恩返しだ」と豪語はしていても、現実に、SEXに至る、性欲をもつ自分など考えもしなかったです。どんな欲でも
ひとつ許したら、あとは自制がきかなくなる。だから、ひとつの欲も許してはならない。根底にいつもありました。
「乳がんの知識もないのに、おっぱいのあるなしで、すぐ答えださないとダメですか。今後一緒に学んでいくでは、ダメですか」。愛がな
いSEXならできる・・・頭でっかちだった私は、乳がんを得たことによって、やっと軌道修正できかけています。双方に愛があり、相手
を愛しいと思うから、つねにそばにいたいと願う。SEXは、性欲ばかりで行うものではない。
その感情の前では、おっぱいの有無は、さして問題にはならない(まだ、完璧悟りきれていませんけれど)。あなたは、パートナーと、性
欲のこと、SEXのこと、妊娠におけるリスクのことなど、語り合っていますか。パートナーは、語り合える人ですか。語り合えなくても、
信頼できる人ですか。
私?。最終回に、奇跡的に間に合いましたかね(この急展開は、先月の原稿時点では考えもしなかったくらいの奇跡)・・・のろけていい
ですか。私のパートナーは、すばらしい人です。
・・・
■【<後リード>】
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去年の卵巣摘出手術の、最後の定期検診に行ってきました。診察の後、基礎体温表を見ながら、Dr.湧坂は万面の笑みで、おっしゃってく
ださいました。
「畠山くーん、妊娠できるねえ。放射線の影響?、そりゃ、初回当時のことだろう。今は、君の気力と体力がちゃんとしてれば、普通に産
めるから、いそげよ〜」。
去年の今ころは、大変でした(笑)。でも、去年手術にこぎつけることができたのは、物心ともに、支えてくださった、宮内先生とブレス
トサービスのおかげです。また、読んで下さっているみなさんのおかげです。 おかげさまでした。ありがとうございました。
さて。
1年8カ月にわたりお届けしてきました『ようこそ、夏休み』は、HPリニューアルのために、今月で「おひらき」となりました。いろん
な出会いがあり、それと同じだけの、心に残る別れもあります。
最終回だという気合がからまわりして、実は、大幅に入稿が遅くなってしまいました。
『ようこそ、夏休み』というタイトルは、私の小説「3病棟の夏休み」からとったものです。一昨年、続けての小説「遠雷や、残すものな
どなにもない」で、とある文学賞をいただきました。今のところ完売なので、みなさんの目に触れることも、少ないかもしれませんが。乳
がんになったからこそ、書けたものであります。
いつもいつも「遅れてますが、お身体、大丈夫ですか?」と、ニコヤカな催促のお電話をくださった、ブレストサービスの看板娘から、も
ういただけないのも寂しいゾと思いつつ、後リードを書いています。
私は、いつも、なにかを書いています。会おうと思えば、どこかに私は存在していると思います。また、お会いしましょう。絶対に、お会
いしましょうね。
・・・私、乳がんになって、本当に、よかったです。ありがとう。
たくさんのありがとうをこめて。
平成16年9月22日 畠山 恵美
・・・
■【医師という、職業】
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「この人、いつ家に帰って眠るんだろう」。二度の乳がんの手術入院の大病院、卵巣手術の個人病院の双方で、主治医たちを見ていて思っ
たことです。「こりゃ、いくら給料が高くてもやってらんないわ」とも思いました。
私が出会うことができた『医師』が、たまたまそうなのか、99%(100%にしたいとこだが、そうとも言えないのも、絶対いるハズな
ので)の医師がそうなのか。「なぜ、あなたは、医師になりましたか」。これに「お金持ちになりたいから」と答える医師はいるかしら。
いや、本音はそこにあっても、いないね。医学部受験備えるあたりでは、漠然とそう思っている人はいると思う。
しかし、医学部に入った時点で、「しまった!」と思ったりするんじゃないかな。
金銭的で言えば、国公立大学であっても、相当額かかります。地元・自宅通学で、それですが、そうはいきません。私立の医学部、とんで
もありません。地方からの進学であれば、なおさらのことです。ここで、かなりの先行投資をしなければなりません。勉学の面でも、ひた
すら座学、卓上の勉強に過ぎないならば、医学は、ちょろいものかもしれません(すいません、素人なんで、言葉悪くて)。
もちろん、臨床ではなく、研究の方に進むならば・・・それでも、それも、いろいろと苦労苦難の道かと思えます。研修医になったとしま
しょう。各種媒体で今、問題になってますね。給料が出ないから、夜勤のバイトで凌ぐと。果ては、睡眠不足や過労でバタバタ倒れると。
(正式名称はわかりませんが)研修医よかちょっと上だが、準勤務医になったとしましょう。私の知ってる国立系医師で、初任給で、月6
万円、5年目くらいで、やっと12万円(8年前の相場)でした。実家が病院の場合、そっちのお手伝いで、「なんとかなってる〜(乾い
た笑い)」のだとお聞きしました。
ポケットに、マニュアルをいっぱい入れてから研修医は判別できるのですが、準あたりは、患者には区別つきません。それでも、夜勤など
は、圧倒的に準勤務医の仕事でしょう。患者も、ちゃんとした医師だと思って苦痛を訴える。神経の使い方、身体の疲労度は、患者よりも
大きいと思います。
・・・で、ちゃんと医師になったとて、冒頭の「いつ寝てるんだろう?」です。「毎日、求人雑誌見てたことあるわ」とおっしゃった医師
もいます。大御所になったとて、あまり状況はかわらないと思われます。勤務医には、定年もあるわけですし。私の知ってる医師は、おじ
いさんやおばあさんになっても、それほど、ドラマでディフォルメされるようなキンキンのお金持ちではありません。お金はあるんだろう
けど、サービスタイムの菓子パンを買ったり、コンビニで昼食を選ぶ時、財布と相談したり。「いいよ、先生、アタシが買ったたげるよ」
って思います。成り金のように、使う時間がないのかもしれませんね。ご家族も同様ですね。
患者以上に、自分の身体を痛め付けても、医師をやってる理由。高い収入があっても、割に合わない仕事内容。それでも、なぜ、医師を
やっているのかと問うたら、きっと。こう答えるのではないでしょうか。「これしかできないから」「医師としての仕事が好きだから」。
まるで、舞台でしか生きることのできない大女優のように、ね。
・・・
■【支度】
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7年前の夏、放射線科病棟で読んだ新聞の中に「がんは、幸いな病気だ。自分で自分の最後を演出できる」がありました。告知から3カ月
経っていて、どこか言い得て妙な言葉だなと思いました。
<縁起悪いと、イヤな気分になる人は、読み捨ててください。>
私には、行きつけの仏具屋さんがあります。趣味が、お墓参り(菩提寺が、とても近い。四季の植物がキレイという理由もあり)で、さら
に、「位牌持ち」という長女なのに「畠山家の長男」的立場なもんで、仏具屋さんには、ちょくちょく行きます。その仏具屋さんは、昔な
がらの「古川式」葬儀もやっているんです。
7年前、初回の告知の後、入院するまで、感情的にも物理的にもすることがいっぱいありました。「自分のしまい方」もその一つ・・・普
通は、しないでしょうが。入院前日、迷うことなく、この仏具屋さんにお願いに行きました。父の行っていた事業が、2億8000万円の
負債を出して、昭和61年に、会社更生法の対象になりました。
中小企業ですからね。両親が会社に対して、個人の連帯保証人になっていました。いくらバブル前の倒産で、ある意味助かったとはいえ、
同時に、自己破産もやってればよかったのです。<19年経った、今現在も、問題は解決していません。借金は、日々、利息分増えていま
す。「払えないものは、払えない」と豪語しても、借金は減らない。>
19年前、まだ22歳の小娘だった私は、「事実婚はいいけど、姓や住まいがかわるような結婚は、しばらく、あきらめて欲しい」と、弁
護士や計理士さんの要望を聞き入れ、家のあらゆる名義人になりました。「しばらく」は、きっと「一生」なんだろうと覚悟したつもりで
した。
でも、19年解決しないとは思わなかったし、自分が40歳になるとも思わなかったし、ましてや乳がんになるとも思わなかったから。初
回の時ですから、「手術して、放射線してくれば、寿命のくらい生きる」と言われても、=がん=×、でした。今自分がいなくなったら、
誰が、名義人になるんだよ!と思いました。
結婚だけでなく、生き死にまで、自分の自由にはならないと気がつきました。
万が一、の前提でお願いしたこと。「病院に24時間置いていただいて、家に戻さず、焼いて欲しい。焼いたら、すぐ埋めて欲しい。消え
たことは、3年くらいはわからないのが理想だけど、最低49日は、内密にして欲しい。何もしなくても、それで本当にやった分の費用を
請求して欲しい」。
とてもバカバカしい願いですが、真剣でした。「万が一。それでは困ります。億が一、兆が一なら、お引き受けします」。旦那さんは、私
が入院したことを、人生の相棒である、奥さんにも伝えなかったとのことでした。3年前の二度目の時も、お願いに行きました。この時は
「そう簡単には、消えないんだなー。消えられないんだよなー」という恐怖みたいなものが、確かに、ありました。
とても親しい友人にさえ「さようなら」を言えない。それが、とてつもなく苦痛に思えていました(が、去年の卵巣の時は、なぜか、お願
いには行かなかった・・・)。幸いにして、今、私は、ピンピンと生きています。生かされています。もう、お墓参りを「趣味」とは言わ
なくなったけれど、佐々木仏具屋さんは、相変わらず、行きつけです。
先日も、いろんな世間話をしつつ、お茶を飲ませていただいていました。
ふっと、旦那さんに「告知された時、どう思ったの?」と聞かれました。「あー、よかった、これで、消えられるって、初回は思ったの。
あの時、仕事もなにもかも欲するものは、私の手から消え去ってしまっていたし。病気なら、合法的な自殺だなと思った。でも、二度目の
時は、借金の総額が、ドエラク増えてたし、状況をかえようとしない当事者がいたし、入院は合法的な家出だなと思いました、がはは」。
「そっかー。今は?」。「今ですか。私自身の状況は、かえましたし、まだ生きてるの?って言われるくらい、生きてみちゃおーと思って
ます」。私は、あまりお金に、いやいや、ほとんど利益にならない客です。仏具もピンキリで、せっせと買っても、所詮私の買える範囲、
この仏具屋さん・ご夫妻の日頃のご親切に、お返しできるものではないです。
ご夫妻は、私より13歳年上ですしね。でも。こうして、自分の希望を聞いてくださる葬儀屋さんがいることは、幸せです。「がんは、幸
いな病気」だと思います。死を「縁起でもない」ことにせず、だれでもいつか来る出来事としての『支度』としてとらえています。当日は、
自分で仕切れないけど、託せる相手(業者)を探す時間がある。
いつも書いてることです。しつこいですが、乳がんになることができて、本当によかったと、私は思います。この仏具屋さん(葬儀屋さん)
との関係においても、しかりです。
目次
{No21}2005年5月22日更新分
・・・
■【生理その後】
・・・・・・・・・
去年の5月に、正式には7年ぶりに生理が戻ってきた、というのは8月に書いた通りです。甘いものが食べたい、やたら眠い、血が出て
る時全身しびれてる気がする・・・は、「普通の生理になる」助走に過ぎませんでした。
10月。私は、ストーンと気持ちが止まりました。『ようこそ、夏休み』連載が終了して、ほっとしたのか落胆したのか。眠れないわ(早
朝覚醒あり)食えないわが、私の身体を蝕んでいきました。 まあまあこれは、「あたしら、早い人だともう更年期に入るんだからさ〜、
卵巣1個しかないあんたの身体ならなおさら、いろんなことが起こるんでない。あたしだって、真夜中眠れないでぼーっとしてる時あるよ」
という友人の言葉によって、なああんとか精神的には立ち直りました。
「1年は12カ月。あんたは、去年の卵巣手術からちょっと速く、40歳を突っ走り始めたんだから、誕生日まで持たなかったんださ、誕
生日までなんもしないで、41歳に備えろ!」って言葉も、プラスして。 で、11月の生理前から、それは、始まったでごわす。11月
ったあ、柿がおいしい節ですわね。生理前10日間、柿しか食べられませんでしたの。一日、一個だけ。
さらに2月には、焼き芋しか食べられず・・・小さい1本を3日かけて食べる始末。4月は、モヤシが主食。「そいつああ、つわりじゃね
えのか(ちゃう、ちゃう〜)」って、専従味覚ですわね。甘いものは食べたくなくなるし、米は、仏様にあげたものを、夜中にお茶ずけに
し流し込むのがせいぜい。1合消費に3日かかるのは現在でも続行中で、結果4キロ落ちました。おそるべし、生理。
眠れないに関しては、薬使っても眠れない時期もありました。あとは、食えない眠れないが始まると、気持ちも、超マイナス思考になって
しまい、オウジョウしてます。
しかしこれって、ああた〜・・・普通のことなんですって?。「卵巣が、順調に回復してんで、大丈夫。それが、普通。みんな、その症
状にたえてこその生理なの」by.Dr.湧坂。
そうなんか。
生理始まって30年。そのうち7年はないにせよ、常時腹痛い私は、生理になると、腹痛いの原因は生理なんだ〜って1カ月のうち一番元
気になったもんだったが、違うのか。女性のみなさん(こんな書き方って、わしゃ男か)、生理はブルウになるっていってたのは、こうい
うことだったのか。41歳にして初めて知った。
食えない、眠れないは、なんとか慣れましたが、超マイナス思考だけは、苦しいっ。
自分の人生を否定しちゃう。日常も投げやりになる。部屋が爆発してても、だからなんだってーんのさで余計に爆破させるし。誰にも会い
たくないし、でも一人だとかなしくなるし、もうなんなの〜。理論では解明できない、血が、身体の中をかけめぐり、部分部分を確実にブ
ルウにしていくつうか。
で、生理も半ばになると、偏頭痛が右頭直撃。
しかし、偏頭痛薬飲むと、もっともっとマイナス思考の副作用。ダメじゃん。 ・・・それから、塊(鳥レバー3枚、豚レバー1枚程度)
も出るようになりました。びっくりしたけど、これは、血流がさせるものだから、大丈夫と言われました。 一カ月のうち、半分使えない
じゃないか〜。もしや更年期の症状による生理状態なのかもしれんが、乳がんによって生理を止め、または、卵巣の病巣によって普通じゃ
ない生理状態のが長かったてぇのは、私の人生において、ラッキーだったのかも。
女性のみなさん、私は、あなたたちの、長い間の『普通の生理』を、尊敬します。
・・・
■【病状度ランキング】
・・・・・・・・・
あと。ここんとこ暑いですよね。ちょいと近所のお蕎麦屋さんのバイトをしました。
私は、自分の身体を忘れてました。腋リンパがないこと、忘れてました。アホです。掃除や接客などなど楽しいバイトでした。が。店の中
の湿度は、ほぼ100%です。脱水症状になったらいかんなと、ずっと水は飲んでましたが・・・汗が元々でない体質だし、かだらこそ水
分が身体で吸収されなかったみたいです。
バイトから帰って、家のトイレで3時間お籠もり。飲んだ水分全部直通で出ました。出終わったら、次は、体温調節ができず、首から上は、
熱はないのに熱くってアイスノングルグル巻き、首から下は、気温30度なのにファンヒーターの前で毛布かぶってる次第。なんだ、この
身体。 以前、素麺を2時間ゆで続け、2日点滴に通ったことを思い出しました。高湿度が、ダメ〜なんだった。
夜に、塩なめながらスポーツドリンク飲み、万全回復まで10日かかり、バイトはおじゃん(号泣)。 私は、いい気になって、自分が病
弱だと思ってました。しかしそれは、身体にメスを入れていない人の病弱・・・私は、病人界でのランキングの健康人「カラ元気」だった
と思い知りました。健康体と病人の、体力ランキングは合い入れません。
すでに勤務してて、乳がんしてることをフォローしてくれる会社なら、同僚の思いやりや力を借りて、復帰もできるでしょう。でも、一か
ら所属する会社なり職場を求めるのは、かなり至難の業だと思います。 いぎなり重い物は持てないだけでなく、気温や湿度がなるべく一
定じゃないと、生活自体がまずい。仕事ないがな。しかも、41歳だし。生きてていいのか、わし・・・。
乳がんの、奥深さを、また、思い知ったのであります。トホホ。
・・・
■【八方塞がり〜ディープ過ぎる、近ごろのアタシ】
・・・・・・・・・
本当は布団かぶって、泣いてたい状態(後述)の4月、財布と相談すると、やってられん。ってことで、8年ぶりに職安に行きました〜
すでに、ビンゴの面接は、すべて実を結ぶことなく終了しました。不動産屋さんも回りました〜4月なので、もう安い物件がありませんで
した。で、結果、4月は、3回倒れました。八方塞がりってあんだな〜と思いました。蕎麦屋さんのバイトもそんな渦中のひとつです。
「悪循環の鳴門巻みたいだから、しゃべんな」と他人に言われては、へこみました。
そうなった理由は、大筋はこれまた後述なんですが、まず去年一杯で仕事を整理してしまったことです。夢と希望に満ちて、確定申告に行
ったまではよかった。次のステップは揺るがないものだと思ったし・・・甘かった。4月まで待ってみても、夢も希望も、スタートしない
から、焦って動いたわけです。焦ったっていいことなんかありません。
お金は減っても、増えることはありません。整理したハズの仕事先に、また、どんな原稿でもいいからまわしてくださるように、依頼のお
電話しました(4月の電話代は3万じゃ!)が・・・田舎の季節ものなら、夏掲載(入金は秋)ならって状態です。
ライターというのは、実につぶしのきかない商売です。
乳がんの告知前にも、職安に行きましたが、『床屋→新聞記者(しかも、高卒)』はあり得ないと人生否定されました。ここに、少なくと
も一人いるだろ!。今回も、面接に回ってて、ライターとして、(タダで)その事業所のPRをしてくれたら、雇わないことはないと。プ
ライドは捨ててますが、タダでやれるなら、面接なんか受けてない。
もうひとつの理由が、大家さんとの関係。
2月半ばから、突然嫌がらせが始まりました。うちのアパート、とても回転が速いんです。大家が気に食わない人には、嫌がらせして出す、
今回のターゲットが私だっただけです。合鍵で入ってくるわ、窓から食べ物投げ入れるわ、新しい借家人探してくるわ。異常です。抗議し
ても、エスカレートしていくだけです。このままだと、夜中に刺されたりしてな〜と眠れないこともあります。
だから、新しいお部屋も、仕事と同時に探してたんですが、同じような立地で条件で家賃でつうのは、なかなかない。ただじゃ引っ越しで
きない。法務局から裁判所まで、市内一周自分守りの旅もしました。法的には出て行く理由はないのです。 大家は、今、「1月に出て行
くと言って、ずっと家賃滞納して、居座っている」と、虚偽の理由で、弁護士に依頼をしています。滞納はしてないので、弁護士も訴状を
出せないそうです。依頼費用だってバカにならないのに、それほど、私が憎いんか〜。
じゃあ、ここで、多くの方が「実家に頭下げて帰れ」と申されるでしょう。
実家ですか・・・『絶縁』を申し渡されました。一族総意です。去年、私自身から家を出たのだから、頼れないのは当然にしろ、現状では
実家の近所も歩けない状態。理由?、不明です。まあ、わからないからの畠山サスペンス劇場。世の中には、「普通の親子」とかでは、解
決できない血族関係もあるんですね。
また、今年は、オヤジの会社がつぶれて、満20周年です。しかし、いろんな名義を私に棚上げにしたままなので、弁護士いわく『公的補
助は、あなたは、一切受けられないから』が、私の身分なのです〜説明省略。私自身の財産は一円もないのに、事業主やら預金名義やらで、
とりあえず名義だけはプチお金持ちって思っててください。
だから、生活保護も受けられません。市営住宅も申し込みにも行きました。「独身は、50歳以上」。民生委員のおっちゃんも議員さんも、
そったらこと言わんかった。愕然。うちの市の市営住宅には、風呂がありません。でも、家賃は2700円からです。銭湯に行くの勇気は
まだないけど、背に腹はかえられんと思ったのにさ、41歳は申し込みすらできん。窓口のベンチに、めまいして座りこみました。
「行政は、誰か死なないと助けてくれないんですね」「死んでも、助けません。マニュアルのお悔やみ読むだけです」
「畠山恵美を雇うとこは、古川には、ない」とも多くの人に言われました。タダで、なにかさせる時には、ニーズのある女なのですが、金
銭は払いたくないってことです。アタシは、霞食って生きてると思われてんですな。雨ニモマケズなんか〜。
男や起業に属しようとしたから、身体も心もキツカッタんだ。
ちゃんと借金して、新しいアパートで、ついでにずっと考えてた起業もしちまおうかと思いました。「畠山恵美」の悪行がそんなに轟いて
るなら、逆手にとってやる。借金先の金利や採算がとれるかもリサーチました。ニーズは多数あるスキマ産業、しかし、それに金銭を払う
習慣が、古川にはない・・・頓挫。
現実、まとまった借金することには、抵抗あります。出産があと2年できるとして、そのチャンスにかけたい私は、実は自分の人生の時間
の使い方としてのあと2年、仕事とかしてる場合じゃないって、怠け者の必死な本音があるのです。自分が借金したら、自分で払う。借金
の支払いで出産をあきらめなきゃないのか。生きるために仕方なくても、借金しないで、いけるとこまで行くべきじゃないのか。
仕事も部屋も、いろんなことも、頓挫して、何も決まらないのは、次の場面が用意されてるからかも。どんどんゼロに近くなっている気が
するけど、悪いことじゃない。最初の乳がん告知の時みたいに、それに迷わず向かって行けってことじゃないのか。
・・・バカか?、はいそうだと自分でも思っています。
やることはやった今、私は、10万円ほどの現金しか持っていません。
入金の見込みもありません。売れるものなら、自分の人生を全部売ります〜傷痕マニアっているのかなまで調べたくらい。書け!って、こ
となんか?。今まで、医療費が足りないときも、なんとか、そうやって、切り開いて、生きてきたはず。
とりあえず、今時、郵送の売り込みなんて、アナログだけど、送らなければ、存在すら知ってもらえないから。6月7月分の家賃と光熱費
引いて、1万程度しかないお金を使わないようにして、生き延びれるとこまで生きようと思ってます。体調からして、夏にホームレスでき
そうにないし、痩せたとはいえ餓死するには、時間かかるだろうし。
居るとこも、行くとこも、戻るとこもないけど。これらが、私の八方塞がったけど、九方開けたいと思う、近況なのデス。
だれか、私の人生、丸ごと買ってください。いい仕事、いい文章書きます。
買って損はさせん。大きく投資するなら、畠山恵美だ!
・・・
■【パートナー・・・?】
・・・・・・・・・
後述のコトワケです。
仕事を整理しても、ここ18年間宮城から出たことない「古川で産まれた女」が、夢と希望として、かけたものが、「パートナー、?」で
した。 告知の瞬間に、自分が恋するなんてと、あきらめてました。正直、9年ぶりの恋愛を始めるにあたっては、かなりの勇気がいりま
した。遠距離でしたし。とことん話し合って、連載終了直後から、始めてみたのです。
まあ、他人の恋話は、つまらないと思うので、いつか小説にしますから読んでね、ってことなんですけど。何事も考え過ぎる私に、あまり
頭つかわない気がする彼は、非常によいパートナーだと思いました。初期から、同居の話は出てました。仕事を整理するために、昨年内の
時間をいただいて、遠距離してたわけです。
アパートは、しばらくこのままにして、トライ同居開始と予定してた時期が、早めの確定申告の終わる1月末。プータローでいる期間は、
1カ月が限界のはずでした。大人の恋だから、お互いの生活もかかってるし、同居してからかかるお金も、へそくりとしてもってたかった
し。1月末日まで、彼は、引っ越しの日程を出さず。
すったもんだの末に、2月下旬に、「普通タイヤで引っ越しだ」(冬の東北道なめんなよ〜)に。 が、大家の嫌がらせのピークで、私は、
点滴の日々にいました。引っ越しに来た彼、看病をして、買い揃えた台所用品などだけ、車に積み帰って行きました。3月でも4月でも、
引っ越ししに来られるからと言い残して。会ったのは、これが、今んとこ最後。
しかし、3月下旬、突然「あなたは、努力が足りないから、バイトしなさい」と宣いくさりました。田舎でなあ、短期のバイトはないだよ、
あっても、41にはねえだよ。 大家との戦いも、法的なものに移行してましたから、なんとか、こちらに来てもらえないかと言いました。
「俺行って、なんになるの?」。直接戦ってくれとは言わない。
でも、部屋で待機しててくれるだけで、がんばれるじゃないですか。
パートナーって、恋人とちゃうの?。恋人なら、毎日電話してメールしてても、会いたいもんじゃないの?。アタシは、会いたいけどな。
ちゃうの?。
4月始め。「僕たちは、決定的にダメってわけじゃないし、僕の仕事も忙しくなるから、あなたが新しいアパート借りたら、もう少し遠距
離しようよ」・・・。 2月、3月の生活費はかかってます。もちろん、生活費のために同居すんじゃないけど、4月までひっぱってて、
ほかすのか!。
2月に、車につんでいった台所用品やお米など、金額にしたらたいしたものじゃないけど、ちりもつもればなんとかだったんです。彼は、
私がいくら持ってるか、一番知ってる人です。みついだわけじゃない〜きっぱり。でも、彼との同居のために、いくら使ったかも知ってま
す。仕事も整理したと知っています。同居も、彼から一気に望んだわけです。「あなたと、同居すると、俺の自由がなくなるじゃん」・・
・私だって、古川って自由を捨て、知らない土地に行くんだ。
一度捨てようとした町に、もう一度住めというなら、死ねと言われたほうが、楽だ。
同居からですから、結婚までは、まだまだ越えなきゃならないものがあります。
出産についても話し合ったのですが。45まで相手が見つからなかったらテケテン、相手がいてトライしたけどできなかったならテケテン、
自分の人生に言い訳できるけど、相手がいたのにトライもできなかったら・・・そんな危惧はありました。
彼は、「あなたの(乳房の)傷みて、ダメになる俺がいやだ」と申しました。
根本の原因はこれです。で、今、私は、四苦八苦してます。「そんな男と別れたんでしょ?」と問いたいかと思います。別れたのかな・・
・が、正直わからないです。たまに電話きて、たまにメールきて、私のお金のなさを心配してます。お金送るって言いながら、なにも送ら
れてきていない現実・・・お金なんかじゃない。顔見て、がんばれな〜で、人はがんばれるのになあと思うんです、私は。
「なにも自由はしばらないから、同居させてよ」って言いたいです。家事労働して、あとの時間は、書き物の時間に費やすから。安心して
いられる場所を与えてよ、です。男だったら、仮にも惚れた(過去形か?)女一人守るべきです。そう、思いませんか。
あー、どうすればいいんだ〜。これが、実は、私の近況、心境、です。
こんな人生さりなげたいと思いつつ。 god bless you!
目次
{No22}2005年7月10日更新分
・・・
■【コバルト60】
・・・・・・・・・
『赤い疑惑』のリメーク、6月に放送されましたね。私は、本放送を小学校の時に見ていますから、いろんな思いが、毎週交錯していまし
た(リメークの時代設定は、本放送より後の昭和52年。そん時は、中2をやってました)。一番のなんだかなあは、「パリの叔母様」が
「沖縄の叔母様」になっていたこと。陣内さんよか、高橋さんのがお姉さんでしょ。
同じ恵子でも、やっぱ、パリの叔母様は、岸恵子さん。当時は、パリ在住だから、パリの独占企業女優か!とか思って見てたんですけどね。
やっぱ、ワケアリの叔母様は、岸さんよ、って。ワケアリは、沖縄じゃ明る過ぎるわ・・・。沖縄は好きだけど、違うっ。
うっかりしてしまったのは、昔のミツオさん〜:三浦友和さん登場シーン中に、米といでて、見損ないました。がっくし。
冬ソナ、韓流って、かまびすい(って、ブームは去った?)ですが、あれらのストーリーの原点は、この『赤いシリーズ』に存在すると、
しみじみ確信しました・・・と、まとめにはいってはダメ。
「コバルト60」です。ドラマ中、昔、百恵ちゃん(サチコさん)が、素手で拾った「コバルト60」の大きさは、写真フィルムくらいで
した。転がってきた、それを、なんだろうと、つかんでしまうのです〜今回は、現物に忠実なのか、拾えない大きさでしたが。
なんで、「コバルト60」?。
私が、左温存の時に照射した放射線は、「コバルト60」でした。てか、放射線に種類があるなんて知識を叩きこむ心の余裕もない入院で
したし、国立仙台病院地下の放射線室の中に、種類ごとの照射ブースがあるとわかったのは、25回かけおわるころでしたね。
温存だから、15分、15分で、機械が反転します。その時、移動させるレントゲン版みたいのに、ホワイトマーカーで「コバルト60」
と書いてあったのです。5回照射した時くらいに気がついたのかな。不信感とこわさが占めていた心に、ちょっとだけ、光が射した思いで
した。「百恵ちゃんと、同じだ!」。
物語的には、ダメなんですよ。でも、私は、素手でつかんだわけでないし、Dr.中村の管理の下で照射してるわけだから、「赤い疑惑」に
はならないな、と(笑)。それから、しばらく、技師さんや看護婦さんに「コバルト60って、百恵ちゃんがつかんだのと同じですよね〜」
と、言いまくりました。しかし、当時33歳の私とビンゴ世代はいなかった。
誰も「なに、それ〜」と言うだけ。「コバルト60って、フィルムくらいの大きさなんですよね」と、技師さんにくらいついた時は、「知
らなくていいから、大きさなんぞ〜」と、追っ払われてしまいました。教えてくれたっていいじゃないか〜、ケチ。
「赤い疑惑」に出てた「コバルト60」。百恵ちゃんの病の元になった「コバルト60」。縁起はよくないけど、そう思っただけで、なん
か、頑張れる気持ちに、私はなったんでした。
ドラマの中では、サチコさんが倒れる時、夏の灼熱の光の直撃をうけたようなイメージ映像でした。あれは、宿酔でしょう。規定の中でか
けていた私も、如実な副作用として出ましたし、今でも時々ミマワレル時があります。小学生の時はわからなかったけど、今ならわかりま
す。自分の気持ちが、身体から抜けて、身体がヘナヘナと地面に崩れるような感覚っていうんですかね。
きっと、慣れていくしかないんですけどね・・・こうなってる時、がんばれ!って安易に言わないでください。
それから。白血球の数値がおかしくなっていくこと。白血病と、乳がんの放射線照射は、ベツモノなおで、筋違い発言です。「減った白血
球を増やすのは、大変だから」と、Dr.中村は、照射前から照射終了後も、白血球を増やす皮下注射を、週2回打ってくださいました。私
は、一回もヤバイことなく、照射満了できました。
子供のころの私、そして、友人たちも、自分の血液型が、RH−ABでないことにがっかりしたり、身体のどこかにわずかな赤い斑点を見
つけると「再生不良性貧血だわ」とみんなで言ったり。「赤い疑惑」にすっかり、はまっていました。
30年の時間を経て思うのは、やらないでいい病気はしないでいい。9年前の私は、「赤い疑惑」を思い出したことで、ずいぶん気持ちを
助けられた。そして9年後の私は、リメークを見て、ものすごい医療の気遣いの中で、治療してもらってたことを確認できた。
『コバルト60』は、そんな、キーワードです。
・・・
■【マイナス思考】
・・・・・・・・・
つらい。戻って1年3カ月、今後あっても、あと10年。でも、つらい。
後半の時期に、やってくる偏頭痛もイヤだけど(こない時もあるからね)、マイナス思考に拍車がかかるのが、つらい。食欲もストーンと
落ちて、かなり無理して食べている。食べないと、マイナス思考のカッコウの餌食になる。とりあえず、とある一日は、やる気がなに
も起きなくても、許すようにはしてる。
掃除しなきゃ、原稿書かなきゃとか思うと、マイナス思考がささやく「できないあんたは、生きてても無駄、人類のクズ」と。鏡を見ると、
目の下のクマがくっきり。「あーあ、30代のお手入れを怠けたから、ババア一直線」。自分で自分を、ばっちり、いたぶってしまう。
真夜中に、ポロポロ、涙がこぼれる。・・・今年前半アホな時間を過ごし過ぎたために、悲しくても泣きたくても、もう叩き起こして、話
をしてくれる友人はいない。数時間経てば、朝になるんだし、テレビでもラジオ深夜便でもつけるか、CDでも聴いたらいいじゃないかと
も思う。
しかし、ポロポロと泣くだけだ。ウェーンとワイワイは泣けない。ポロポロと泣くだけなのだ。「あんまり泣くと、偏頭痛がくるぞ」と、
またマイナス思考がささやく。
月のうち、約10日くらい、ピーク2日間のマイナス思考。
乳がんになる前にはならなかったし、右卵巣はなくなったが、やっと子宮も定位置になったと言うのに。血にちょされてるだけだ〜・・・
祖母ならそう言うだろう。
生理時期の自死って、案外多い。たとえば、私が、それを選ぶならば、違う理由はかなりあるので、「生理だから、マイナス思考でやった
な」と言われるのはかなり心外だ。だから、一生懸命我慢しているのだが、こらえきれない瞬間もある。
木村多江さんのCMの「つらいのは、いつから」に、「今ですう」と憮然と答えてる自分もいる。鬱かと思ったりもする。鬱なら、この状
態を専門医にちゃんと伝えなきゃと思うので、「そんだけしゃべれたら、鬱じゃないです」と、却下される。
鬱と、マイナス思考は違うらしい。月のうちの、48時間の我慢だが、かなりつらくなって来た。
「確実同居(現在、自虐ネタ?)」パートナーがいたら、なんとかやりすごせるのか、出産したら治るのか。お知恵、拝借したい。毎回し
つこいけど、本当に、普通の女の人は、偉い。ただそれだけで、偉い。
・・・
■【今年のきづき・・・あれから】
・・・・・・・・・
今年も、5月31日から6月8日の、一年で一番キツイ時間は、忘れずに来ました。
先月の「ようこそ、夏休み」再開を、書いてから、8キロすとーんと落ちてました。はいてるジーパンも重くてしょうがなく、横になる体
力も、睡眠を持続する体力も、水を飲む気力もなく、「重度のさびしい病」に、たかってました。6月8日から、9日に移る晩、「死ぬん
だろうな」と正直思いました。・・・きっと、私の今までの人生の中で、もっと辛いことは、多々あったはずですが、はじめて自覚した『
どん底』でした。
対策をこうじなかったわけではありません。でも、今年前半は、愚痴を言い過ぎたから、みんな「人は、一人で生きていくのだ」と私を、
甘やかしはしなかった。
古い友人が、異変に気がついて、その晩、かけつけてくれたから、こうして、今月も書くことができました。
友人が着いた時、単発ですが「仕事をしませんか」と、メールも着きました。もうワープロの前に座る体力さえないのに、「仕事します」
と、返信してました。友人は「あなたって、わらしべ(長者)だな」と笑ってました。笑いながら、ただそばにいてくれました。この友情
に、ただただ、感謝するしかできません。
9日、10日と点滴をしてきました。
今も、食欲があるわけでなく、満腹の実感もないですが。きっとこれだけ食べれば、満腹だろうと、夕食だけは必死に食べることを、課し
ています。体調の自己管理も、仕事の一つだと思いました。
どんな仕事かは、内容を、来月には書けるかと思います。書いてて、久しぶりに生きてると思いました。
今年の祖母たちからのサジェスチョンは、「自分の足で立て」ってことだと思いました。「書けば、いいだろ」。
書いていると、どんどん朝になっていく匂いや光の具合が、とても愛おしく思えます。仕事でかけるって、ありがたいですね。
饒舌過ぎる私ではありますが、頭が孤独でないと、書くことができません。鶴の恩返しだと思っててください。孤独は必要なのです。さび
しさには、たえられなかったけど。
前回、彼についてアレコレ書きましたけど。
書くことを、同居の流れの一瞬にしても捨てた私は、単なる文句言いの鬼ババアだった気がします。そんなのと、同居したくないよなあ、
って(笑)。そんなふうにも、思えるようになりました。次の恋の時は、もう書くことを捨てたりはしない。私は私の中の孤独をキープで
きる「楽」を、きちんと持ちたいと思っています。
その仕事(そして、友人)のおかげで、無事に6月を越すことができました。
まあ、入金日に、みんな支払いに出ていきました、きれいさっぱり。はははは。ミラクルというのは続くものではないので、まだ7月を越
せる仕事の発注はありません。
来月は、人生初借金か?。
大丈夫、友人知人と思ってるあなたからは、絶対借りないから、顔だけ見せてね。
ここ数カ月を、どう越すかが、正念場でしょう。〜大家、アパート問題は、引っ越さない限り、現在進行形ではありますし。打開策、ない
んかい!、まったく。
重ね重ね「仕事、くださーい」。講演でも、なんでもできます!。
<出世払いの投資も、受け付けます、です〜笑。>
先日、女医による「無料」医療相談に行ってきました。
病歴手術歴の問診をしただけで、「よく生きてて、ここに、笑いながら来てくれました」と言われました。現実問題は別として、やはり、
どこかに属して働くというのは、難しいとのことでした。
「ライターで、一本一本、丁寧に仕事していけば、絶対に次につながるから。自分を信じて。自分をほめてあげて」と、ハルヤマ先生はお
っしゃってくださいました。実は、貧乏過ぎて、今年の定期検診は、外科も婦人科も行ってないので・・・がんばって稼いでですなあ、は
ははははは。
痩せたといっても健康的に痩せたんじゃないから、しぼれてないので、キリトリ線は大きいですよ〜。「がん病棟から、太って退院してい
くのは、あなたが、はじめてだ!」と送り出されて、8年。8年ぶりに、60キロ切って、初回の入院当時まで落ちました。
実は・・・このHPに、近影があるんですねぇ。
マッハ72時点の写真は、実家から持ち出せてないのですが、代わりに、HPの表紙のご幼少の私と見比べてみておくんなまし。
もうすぐ42歳にして、やっとやっと「自分の足で立つ」と気がつくのもなんだかな〜ですけど。どうぞ、こんな私の人生ですが、お見守
りくださるよう、お願いします。
左が、9年目に。右が、5年目に、入りました。
おかげさまです。今年も、「Best Friend」を、歌いながら。
目次
{No23}2005年8月9日更新分
『月刊がん もっといい日』を、お読みになっていらっしゃった、あなた、はじめまして。
毎月お読みいただいてる、あなた、『月刊がんもっといい日』9月号の11Pは、もうお読みいただきましたか。なに?、ここで書いてる
ことと、同じだって・・・ご名答!。なんたって、私、「プロの患者」めざしてますから。宮城は、湿度100%出したりしました、しか
し100%って。ということで、今月も、どうぞ、よろしく、です。
・・・
■【梅干し】
・・・・・・・・・
宮城は、7月に、私比で、3回、ファンヒーター焚きました。で、今年の梅干し仕込みも、梅が出回らなかったため、土用になってから。
梅雨明けも当然遅れましたので、タイムリーに、梅干しの土用干しができるか、危うい・・・しかし、危うかったのは私でした。立秋まで
の前3日間が、天気予報だと、干し日和。しかし、よりによって、今月は、先月比ぴったりで、生理が来た〜・・・。
やっちゃいけないんすよ。「生理の人が、漬けると、色つかね〜んだおん」は、祖母の言葉。「生理中って、肌のトラブルとかも起こりや
すいから、万全の体調で手間かけろって意味じゃない?」とは、私の梅干しの師匠の八百屋のおかあちゃん。土用干しをとるか、生理をと
るか・・・。この場合、ゴム手袋して触っても、色つかないのかしらと、悩みつつ、土用干しをとりました。
気温35度でばっちりなのに、天気予報の湿度も50%切ってるのに、梅が、塩をふかない。なんでだ。でも、見た目は、今までで一番ナ
イス。3日3晩干して、また、桶におさめました。今食べごろになるのを、梅干しは待ってるはずです。初回乳がんの翌年に、初めて漬け
てから、二度目の年は抜かして、6回目の梅干しを漬けてます。
初回の乳がんから、丸8年、9回目の夏。夏は、1から数え、がんは、1年過ぎたとこで初めて、1カウントになる。なんか、このちぢま
っていかない、1という数字、時間の意味をつかめるころ、梅干しの達人になれてるといいのですけれども。
・・・
■【・・・指】
・・・・・・・・・
乳がんをしてから、皮膚に「原因不明」のなにかが、突然起きます。以前書いたように思いますが、腕にぽつんと出現した赤い斑点が、2
0分くらいで、ぼーんと盛り上がってきて「手がん?」と思ったりしました。手がん・・・なんて聞いたこたあないので、数分ドキドキし
ただけでしたが。でも、治療というか経過観察に(軟膏つけて、ガーゼで覆うだけ)1週間通院して、主治医:ケイちゃんに言われました。
「これは、なんだろうね。手がん、ってないよね」・・・人は、同じことを考えるものです。
湿疹系は、卵巣の手術直前にも、右腕が腫れ上がるというのが、ありましたが。これは、「手術後に抗生剤使うから、寝てるうちに治るっ
て〜」と、放置・・・。
で、一昨年夏から、なんだろうと思ってるのが、『左親指』なのです。一昨年夏は、雨の中、畑から青シソもいできたので、毒虫にさされ
たんじゃねーか?で、落ち着いたわけなのですが(原因不明は、変わらず)。その後も度々、見舞われるのです。特別、深爪してるわけで
も、ワックスのモップを洗ったわけでもなく、トートツに、左親指の左際に、赤い線が入り、どんどん腫れていきます。
いやいや、キレイな手で、原稿打ちしてても起こるんだって。指の面積っていうか容積って限られてるから、腫れのMAXは、すぐです。
痛みも、かゆみもないんですわ。で、翌日の夜あたりに、腕まで腫れてきて、骨が圧迫されて、「病院行かなきゃ〜」になります。治療は、
軟膏つけて、テーピングして、毎日通院1週間。毎回、原因不明。親指、テーピングされて、自由に動かせないというのは、かなりのスト
レスになります。
ゴム手袋して、水仕事もシャンプーも風呂も、いつもとかわらずなんですが、でも、違う。このストレス、1週間で、かなりブルウになり
ます。実は、今もなんですが・・・、今回は、ブルウになるより、自己観察にしてます(定期検診してないので、病院に行けないとも言う・
・・)。指の上からなにかに刺されたちゅーより、内部から刺されてるような、赤い線が、腫れの中から見えます。
両腋のリンパがないからか、放射線の後期障害か、やっぱ原因不明か。原因を解明すると、まずいことが医学的にあるから、原因不明にさ
れてんのか。 まだまだ、私の身体に、起こる「人間ビックリショー」は、続きます。
・・・
■【放射線】
・・・・・・・・・
8年前の夏、左乳がん温存手術の後、放射線治療を受けた。
国立仙台病院の放射線室は、地下にあった。人気のないその廊下には、いつも同じ風が、行く場所も戻る場所もなく、吹いていた。私が受
けた種類は、コバルト60だ。温存、つまり乳房があるから(機能についてはさておき)、15分、15分で、機械の位置が変わる。当時
の放射線病棟では、一番時間がかかる患者だった。
痛みもなく、熱くもなく、苦しくもなく、目にも見えない。それでも、まだ乳房の中に残っているかもしれない、がん細胞をたたきのめし
ていく、放射線という力。毎日、たった30分の治療なのに、疲労感はとてつもなかった。10回目を越した時、宿酔という如実な副作用
が出て、午前中は、めまいや立ちくらみがひどかった。
1日2グレイ25回が、乳がんの一般的な照射基準だと本に書いてあった。
・・・毎日数分の照射で済むとも。それは、身体にもっとの我慢を強いる、リニアック(ライナック)という、今の一般的な放射線の種類
のこと。私の主治医である中村医師は、同じ作用ならば、身体の負担の楽なコバルト60を選んでくれる医師だった。
母は「1日数分なら、まとめて1時間くらいかければ、あっという間に終わるのに」と、姉である伯母に言ったらしい。伯母はがんをした
ことはない(さらに、私とは犬猿の仲だが〜笑)。「広島や長崎の人のことを、思いなさい」と絶叫したらしい。母は「あんだ、こわいも
のかけてんだね」と、平然と言った。
身体的副作用は、他にも、左乳房の産毛が消滅したり、腋の下がベロリと剥がれたり(リンパ腺を摘出してるので、痛みの神経がないため、
かなり化膿してから気がついた)。乳房も、繊維質化して固くなっていった。それらは、照射事前には、一切説明されない。それでも、私
ら若い者は本などで情報を仕入れられたが、お年寄りは「こわい電気をかけている」程度だった。
乳房から今までかいだことのない臭いもした〜放射線臭とでもいうのか。それでも、8年前は、いや中村医師の主義として、入院させて、
医師とナースの管理の元、照射し、対応するという、恵まれた時代だった。憤りは、みんな中村医師にぶつけた。自分が生きるために選ん
だのに。
「放射線って、戦後の医学なんだな」。
退院間近に、ぽつりと言われた。「一緒にはできない例えだけど、草木も生えないって言われてた広島や長崎にも、緑は戻ってきただろう。
そして・・・子供も産まれた。あなた自身が、これから元気でいてくれれば、あきらめることはなにもないから」。聞いた時は、無性に腹
立たしかったが、今なら、わかる。
乳房に産毛は戻ってきた。戦後の医学に、私は、確実に生かされている。
広島、長崎の日も、照射は休まず、おこなわれる。
4年前、私は、右乳房を、全摘した。
目次・・このページの先頭
{No24}2005年10月7日更新分
10月になりましたね。そろそろ、私の動物的カンでは、私の人生の流れ出す時期になるはずなんです。けど。
去年は、うっかり見過ごしてしまった、隣のお家の金木犀が、満開です。三日ほどの秋雨に、窓を閉ざしてるうちに、しっかり満開して
ました。窓を、全開にして、金木犀の匂いを堪能しています。幸せ。
いやいや、ファンヒーターが、今年は速く必要になってしまうくらい寒いんですけど、金木犀の満開には、かないませんわ。夕方も早く日
が暮れます。金木犀に「また明日ね」と、挨拶してからの残り香もまた、いいんですう。
それでは、〜9月さぼった分も〜今月も、いきまーす。
・・・
■【病名?・発覚】
・・・・・・・・・
忘れてました。「鬱状態になっても、それは、ホルモンがさせてることで、あなた自身の本心じゃない。朝に気分悪いなと思って、夕方治
る人もいる。5年以上過ぎて、つらい苦しいと泣きながら何年も寝込む人もいる。死にたいと思ってもそれは、あなた自身が思ってること
じゃないから。なんとか生き延びてください」。そして。初回の左乳がんから8カ月目、3月14日土曜日午後、底のない底にどんどん落
ちていった自分を。そこからはい上がるまで、3カ月以上、布団の中で泣いていた自分を。
相変わらず、体重は落ちていました。8月末、また生理モードに入った時、またまた食欲がポーンと止まりました。
8月は地震で、アパートの部屋の内部崩壊やらで大家とまたもめたり、裏仕事にしるした仕事先からのいいがかりがたて続けてたので、ま
あそんなこんなで、食欲停止もしょうがないかなとは、チラっと思いました。
「生理の後半に、死にたいって言うのに、今回は始まる前から言ってんでない?」と遠方の友人が、メールで指摘していました。
食欲が止まり・・・約1週間、午前中のある1時間、動悸と手の震えでどうしようもないのです。まあまあ午後からは、普通に動けますか
ら、1時間の我慢と考えていました。でも、生理前夜は夜通し、細かい動悸がして、布団に横になるといかんので、壁に(危険だっちゅー
の)もたれて起きてて、生理の降下を待ちました。で、来たので、やっと布団に入ったら、なんだもかんだもない、激しい動悸に悶絶しま
した。
救急車呼ぶ一歩手前ちゅーか、呼びたかったですけど。
よくなったり激しかったりを繰り返し、嘔吐もしてしまい、日曜だったので、休日外来に行きました。
「おたく、がんの遺伝子何番?。動悸ったってレントゲンに、胸水映ったら、どういうことかわかるよね。がんなんて既往症持ってんのに、
なんで主治医んとこに行かないわけ?」・・・。レントゲン前に散々やられ、とりたててレントゲンにも心電図にも異常はなかったのです
が、「転移だったら、症状止めて、なんかまずいことになったらまずいから、なんもすることないから、帰って」って。・・・って。泣き
ながら、帰ってきました。
翌日、外科の主治医んとこに行ったら、「うちじゃねーな。乳がん的には大丈夫。婦人科じゃねーか」・・・。悪気はないと思うのですが、
じゃあ、なんなの、この症状は・・・。点滴しても、身の置き所がなくって、途中抜きしました。
まあ食欲不振だったから、血になる食べ物も摂取してなくって、献血の時に、グーパーするように、生理を出すために、心臓がグーパーし
たんだと、自己判断でごまかすしかありませんでした。婦人科に行くには・・・仙台方面に山越えして行かねばならないし、公共の交通手
段はないし・・・タクシー使うには、安くあげてくれる運転手さんの乗務日を待たねばならないし、それすら今の私のに経済状態には、贅
沢だし。
婦人科のある町に嫁いだ友人が、迎えに来てくれました。
「そんなこという医者は、どこの医者だ!」「古川から来てるから、古川です」「古川にまともな医者いねーのか」・・・婦人科の主治医
は激しく、今回の対応に怒ってくださいました。内診的には、子宮も左卵巣もきれい、問題なし。
鬱病は、動けないししゃべないから、死なない。鬱状態は、動けるから病院に行き、しゃべれるから症状を訴え、「それほどしゃべれるな
ら、鬱じゃない」と否定され、自殺(衝動)に至る。2月からの食欲不振から始まりました。いろんなことがてんこもりに、次々に私に降
り注ぎました。いろいろあり過ぎました。
『長期間の、過度のストレスによる、鬱状態』。
これが、やっと、たどりついた、私の病名です。『鬱病』と『鬱状態』がどう違うのか、わからないけれど。とりあえず、食欲が出るよう
にと、胃潰瘍の薬を処方されて、特別な治療はないです
(・・・生理は、3日ほどで、弱々しく終わりました)。
「とにかく、死なないでください」。主治医は、そう言いました。
病院を出る時、とても、重い宿題をもらった気がしました。
でも、考えてみれば、乳がんのホルモンも、右卵巣がないちゅーホルモンも、私の身体をちょすわけです。なにもしなくても『鬱状態』に
なってあたりまえ。なのに、いろんなことがあったわけですから、なるのは、確実なわけです。そして、更年期年齢の入り口に、もう立っ
てるわけですし。原因というか、病名がわかっただけで、少し楽になった気もするけど、気分や薬を越して「死なないと」と思う瞬間もな
いことはないです。目標や夢中になれることがあっても、同じ瞬間はあるでしょう。
私も、なんとか、がんばってます。同じ思いのあなた、がんばらなくてもいいから、生きていましょうね。
・・・
■【美しい乳房】
・・・・・・・・・
18年ぶりに、宮城県出ました。旅行でいうと、もっとぶりです。10年ぶりに、温泉に入りました。私的用事の温泉は、もっとぶりです。
とっても、長い間ぶりに、心の洗濯をしました。
知人の旅行に欠員が出たために、突然誘われたのです。11時過ぎに、今暇?で、12時には車乗ってたみたいな・・・私の人生ではあり
得ないこと。その宿は、露天風呂でした。カラスの行水の私には、多湿の大浴場だと、5分がタイムリミット・・・。露天風呂でも、7分
かと思ってたら、たまたま雷雨の豪雨の露天風呂になりまして、どれくらいぶりだろう、手足を延ばして、お風呂に漂いました(病院の風
呂以来と瞬間思ったのですが、入院時は、傷も生生しく下半身だけ延び延びでしたもんね、違ゃいますよ)。
そして、久々に、裸体の女体をたくさん見ました。今、前をタオルで隠すちゅーのははやらないらしく、みなさん、ぱーっといらっしゃい
ます。乳房は、重力に逆らわずです。脇の肉もお尻もです。緊張感ない裸体、幸せな裸体です。おっぱいふたつ、傷もなく揃っているのに
です。
私は、一応、ない右側をメインにタオルをかけてましたがね。
猫背にならず、背を丸めず、シャンと胸を張ると、身体が緊張してるのです。立ったり横になった、身体のラインが、女性のそれ、裸婦画
のそれみたいなのでした。いかに8年、緊張して生きてきたかを知りました。「いけるやん、私」。
確かに、重力には逆らってないけど、一つの美しい乳房がありましたよ。次に温泉に入る機会があったら、私は、もう、自分の右側を隠さ
ない。それが、私の裸体なのだから。
露天風呂ちゅーか、この一泊二日の旅に行けてよかったです。
岩手の山も川も、緑も雲も、凛として美しく、私を迎えてくれました。
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{No25}2005年11月18日更新分
今月は、マンモ検査について、2つ書いてみました。
寒いので、くれぐれも、傷も身体も、心も、大切に。
・・・
■『しこりは、外科〜恵みの連鎖』
・・・・・・・・・
自分が乳がんになるまで、乳がんは、外科が診るということすら、知らなかった。こういう人って、自分の人生の中に「乳がんするかも」
と一瞬たりとも考えない人より、多いのではないかと思われる。地方の自治体の集団検診では、乳がん検診は、外科と婦人科の開業医のと
ころで受けることが多い。開業医が、通常診療の合間に、検診もするのだから、かなり流れ作業的だ。
三十歳の時、私は迷わず婦人科に行った。一部屋に、上半身裸の女性が並べられる。腕の位置を指示するだけで、黙々と乳房を触っていく
医師。口頭での問診などない。医師が消え、誰かが洋服を着はじめて、検診が終わったことを知った。子宮がん検診の時にも思うのだけれ
ど、「生身の身体なんですけど」。
子宮がん検診は、自分ではしようがない。我慢もしよう。けれど、それ以来、私は毎月毎月、生理終了直後に自己触診を始めた。それが、
三十三歳の左乳がん発見につながることになる。また、三十七歳の右乳がん発見につながる。主治医いわく「動物的カン」による自衛本能
のなせる技らしい。
しかしながら、三十三歳の時、最初に相談した相手が「しこりは、外科」と言わなかったら、早期発見には、なりえなかっただろう。「し
こり(乳がん)って、外科なんだ」。目からウロコがおちるとは、このこと。それほど、私は、乳がんについて無知だった。
乳がんと共存しはじめて、9年目になる。主治医と相談しながら、今、主治医の病院で行えるベストな医療を選択しているつもりだ。主治
医は外科のプロとして、私は患者のプロとして。しかし、それは、かなり幸せな現実らしい、この田舎では。
同期に開業医をしている男子がいる。彼は大学院に二度進んだ。乳がんの研究の続けたかったらしいが、急逝した父親の医院を継ぐために
あきらめた。「乳がんの患者さんが、十人いたら九人までが、大きな病院に行ってしまうでしょ。俺も、食っていかなきゃならないから、
乳がんは、やれねえんだ」。
乳癌認定医でもある彼の個人医院には、マンモがない。マンモの機械の値段は知らないが、かなり高額なんだろうとは、知っている。マン
モがないため、この一人の有能な乳がんのプロが、うもれてゆく。経営面から、乳がんを診ることができない現実。一患者である私には、
どうしようもない。
田舎の多くの個人病院には、マンモはない。彼のような経歴の医者にあたれば、経験的な関知からの助言を受けることも可能だ。が、それ
を、すべての検診指定医院に求めるのは、無理というものである。マンモもないのに、営業品目に乳腺外科を取り入れ、派手に広告をうっ
てる医院。一人しか乳がん患者が通院してないのに、乳癌認定医に名をつらねている医院。うさんくさいと思うところは、乳がん患者とし
ての本能でわかるようになった。
ゆえに、乳がんの手術ができない婦人科による、乳がん検診が流れ作業に似たかたちになるのは、必然だ。しかるに、ある程度、乳がんに
対して関心のある多くの人は、マンモのある大病院に殺到する。しかしながら、マンモはあるが、プロの乳がん医が、不在だったりもする。
乳がんが発見されれば、1週間以内に、入院手術を宣告される。迷ってる暇も泣いてる暇もセカンドオピニオンを求める暇もなく、手術方
法は、全摘のみ。
手術前にする検査は、手術に耐えうるかというものだけ。術後のリハビリ方法や、放射線フォローの有無などを聞こうものなら、他の病院
に行け!みたいな言葉が待っている。患者だって、心のひとつくらい持ってる。いくらマンモがあっても、それでは、宝の持ち腐れだと、
私は、思う。
それが、田舎における、乳がん医療の現実だ。ネットの中で、どんなに最新医療、治療法を、患者が仕入れても、それを行う医師や病院が
存在しないのでは・・・。
多くの検診病院を指定するより、隣り合う市町で、マンモ専用の検診施設をつくる。乳がん認定医師を常駐させ、マンモ検査に長じた技師
を配置する。人間の半分は女性。男性だって、乳がんになる。乳がんのためだけにある検査施設、かなり生きた税金の使用方法になると思
うのは、私だけだろうか。
また。検診を受ける側にも、問題はある。「マンモは痛いから、いやだ」。私も初めて、マンモ(手動式の人力圧力マンモ)した時には、
世の中に、こんな痛みがあるのかと悶絶した。今は。あの痛みに耐えられたのだから、大体の痛みには耐えられると、心底思う。 痛い=検
査を受けないと言うのは、問題のすり替えであり、甘えではないか。自分自身にだけは、絶対に乳がんなど起こらないというオゴリではな
いだろうか。
あの一瞬(確かに、私も永遠に等しいとは思いました)の痛みの先に、待っている未来を考えてみろ、です。乳がんでないのなら、幸い。
乳がんの早期発見であるのなら、幸い。進行してたとしても、手術や治療出来るのであれば、幸い。痛みがイヤだと言いはるのであるなら
ば、乳がんが発見され、しかもかなり進行していても、絶対グチや泣き言は言うな。そういう覚悟のある者だけ、マンモを否定しろ。
・・・技師さんが、悪意をもって、わざと痛みを与えてるなどと、真顔で言うのなら、乳がんを語る資格はない。
まだ、マンモで見つかる乳がんは、幸せながんだ。私は、二度も乳がんしてるというのに、どちらも、マンモにはひっかけてもらえる箇所
ではなかった。左は、乳房と腹の境目で、マンモで挟む、ギリギリの際だった。右は、乳首・乳輪で、さらに、まだ1ミリにも満たない、
しこりにもなっていない病巣だったから、マンモには写らなかった。
けれど、左がんをやって、右乳がんをやるまでの、丸4年の時間の中で、右乳房の中に、3つの石灰化の跡があることを、マンモは、写し
出してくれた。それによって、右乳房の手術方法を選択できたことは否めない。3センチのしこり、急に成長した左乳がんは、乳首から遠
かったせいもあり、温存手術の後、放射線治療を受けた。正直、きつかった。石灰化が見つかっても、迷ってはいた。1ミリの病巣のため
に、右乳房全部犠牲にすることはないと、主治医こそが、泣いた。
けれど、これから、平均寿命まで生きるとして、手術できず、放射線でしか叩けない、他のがんになることもあるだろう。そのために、右
胸は、放射線をかけられるように残すべき。マンモが写し出してくれた石灰化が、私の背を押した。右乳房は、全摘した。私は、マンモに、
感謝している。あの痛みに感謝している。
毎年夏に、市の結核検診がある。全摘して帰ってきた直後だった。検診車のレントゲン技師のおじちゃんに、マンモを受けたのかと問われ
た。「はい」と答えると、「ありがとう」と、深々と頭を、下げられた。
・・・
■『その、幸せ』
・・・・・・・・・
乳がんは、二十三人に一人が発症する時代になったらしい。
それなのに「マンモ検査ができる幸せ」が語られないのは、なんでだ。百人中、七十七人は、マンモをして、なんでもないと言われる幸せ
ものだ。仮に、二十三人の中に入ってしまっても、温存手術だけで済んだり、片方だけで逃げきれた人は、マンモ検査ができるんだぞ。喜
ばしいことじゃないか。
私は、左右とも乳がんをしている。初回の時は、3回、二回目の時は、2回、マンモをしている。しかしながら、この5回が、これから平
均寿命まで生きる予定の私の、生涯マンモ通算となり、加算されることはない。8年前、初回左乳がんの時は、まだ、手動圧力巻き上げタ
イプのマンモだった。前後・左右・斜め、あらゆる角度に挟まれた両方の乳房。
男の技師さんの時は、軽く痛いと言った時点での巻き上げ挟みで勘弁してくれるし、撮影が終わると、操作室からダッシュで来てくれて、
乳房を解放してくれた。だが、同性である女の技師さんは、容赦がない。もう、だめです〜と絶叫しても、まだまだ〜と巻き上げる。撮影
が終わっても、ゆっくりと操作室から、お歩きになってくる。っていっても、五歩くらいなんだけれど、その五歩が、世界一周でもするく
らいの時間に思えたりした。
でも。そんなマンモの痛みなんかよりも、挟まれた瞬間に、乳首から吹き出す血の交ざった分泌液に、私は、ことの深刻さを悟った。マン
モの機械が、私の分泌液でダラダラになっている。出産直後の経産婦じゃあるまいし、それは、間違いなく母乳ではない。幸か不幸か。左
のしこりは、アンダーバストとの境界上にあり、マンモで挟み写すには、微妙な位置。分泌物がなかったら、だ。
「生きたいなら、答えは、おのずと一つのはずだ」。私は、マンモから、生きるための問題集を手渡された気がした。告知時には、全摘す
るはずだった左乳房。病巣が、そんな場所ににあったため、乳房は温存手術の後、放射線療法となった。退院直前に、マンモをとった時、
右からは、まだ分泌液が出るのに、左からは、なにもでなかったし、神経をメッタ切りしてるので、挟まれた痛みすらなく、漠然と哀しか
った。 乳房の形はあるのに、もう授乳はできない。生きられる未来があるのに、漠然と、哀しかった。それでも、まだ、右があるじゃな
いか。私は、右乳房に、授乳の可能性をかけた。
4年後、その期待は、突然消滅した。乳がんは、左から右(右から左)には飛ばない(転移しない)。4年前のマンモの時に、右乳首から、
元気に噴出していた分泌液を考えれば、当然の事実だ。乳がんの核になるものができた時期は一緒だ。左右のどちらの発見が早いだけの違
い。左の治療をしていたおかげで、右乳がんは、ダブリングの冬眠をしていただけのこと。
マンモは、コンピューター制御の自動巻き上げ式になっていた。乳房を挟む盤も、透明のものになっていた。 もう分泌物は出なかった。
さらに、挟まれる痛みも、とても楽な気がした。そして、右乳がんの病巣もまた、マンモには、写らなかった。乳首・乳輪のキワ、まだし
こりにもなっていない1ミリにも満たない病巣を、自己発見して、かけこんだ。
だから、主治医には、「動物の、生きたいという本能による発見です」と、お褒めのお言葉をいただくくらいの早期発見。ただ。4年とい
う時間の間に、私の右乳房の中に、3つの石灰化(がんだと発覚する前に、自分で成長をやめたがんの跡)を、マンモは如実に写し出して
くれた。そんな微細な病巣のために、右乳房全部を犠牲にすることはないと、私の未来のために主治医は、泣いてくれた。
けれど、私は、もう放射線をかけるのもしんどかった。石灰化が起こるというのは、そういう体質ということだ。本当なら、4年前に亡く
なってしまったはずの乳房。私は、全摘を選択した。退院前に、マンモ検査のオーダーはなかった。授乳の可能性がなくなったことよりも
乳房が亡くなったことより、もうマンモ室に用がない人間になったことが、悲しかった。
私が、まだ小学生のころ、たった三十年ほどの昔。田舎には、まだマンモを設備してる病院はなかった。しこりを発見したらアカツキには
「疑わしきは、全摘」だった。全摘してから〜しかも、胸筋まで切除して、血管まで見えるハルスレッド術式をして、良性か悪性か、乳腺
炎か乳がんかが決められた時代があった。
乳がんと診断されるのなら、まだあきらめもつく。乳房が亡くなった、自分への言い訳にもなる。しかし、乳腺炎だった人は。誰にも見せ
たくない涙が、確実にあった。そんな、先輩方がいたからこそ、私たちの乳がんは、こんなにも堅実に速く、発見されやすくなったのでは
ないのだろうか。
乳がん患者歴8年の私でさえ、二種類のマンモに出会っている。たった8年で、医学も検査機械も進歩しているというのに、「だれでもが
乳がんになる」可能性のあることを、なんで自覚しないんだろ。なんで、自分だけはならないと、自信がもてるのだろう。「マンモって、
悶絶するくらい痛いじゃない。だから、エコーでいい」。患者歴も古くなった私に、友人たちは、平気で言う。・・・なら、マンモ飛ばし
て、発見が遅れて、極度の乳がんになっても、覚悟はできてんだろうな。私は、笑顔のまま、腹の中で、毒づく。マンモできる幸せ。マン
モの痛みがわかる乳房がある幸せを、なんで、感謝しないかな。
患者歴も古くなってくると、乳がんの恐怖とか苦しさから解脱した超人扱いをされる。乳がん仲間と、ひそかに語り合う。私たちは、まる
で死刑囚のようだと。毎朝、自分の鉄格子の前で、足音が止まらないことを願っている。死刑が成功するのなら、まだいい。失敗し、また
鉄格子の中に戻され、再び三度、足音が止まる恐怖を味わうのは、いやだ、と。 産まれてきたのだから、いつかはもれなく、死ぬ。例外
は、ない。その原因が、乳がんだったとしても、病に敗けて力尽きたのではなく、寿命だと思って欲しいと、先に旅立った仲間は言い残し
て、逝った。
年数経った患者の恐怖のが、強いのだよ。もう、マンモによる発見はないのだから。さて。確率でいけば、自分を含め、従姉妹世代に一人
は、乳がん患者が出ることになる。もちろん、DNA的には同じリスクを持つけれども。父の代では、本家の伯母が、乳がんをやって、二
十年以上生きた。しかし、死因は、まったく別のものだった。
私は、自分が、乳がんになった時、伯母を思った。「よし、二十年は楽勝だ」。私は、十三人いる従姉妹たちの最年長だ。彼女たちに向か
って、私は言う。「うちらの世代では、私が、乳がんやりました。二回も引き受けちまいました。だから、あなたたちが乳がんになる確率
は、かなり低いです。でも、乳がん検査だけは、受けてください」。
彼女たちには、授乳する子供たちがいる。乳がんが、なくなる時代がくればいい。でも、その時代がくるまでは、マンモができる幸せを、
自問自答してほしい。それが、マンモから手渡された問題集に、とりあえず書き込んだ、私の中間回答だ。
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